第87話


「どういう風の吹き回しだい」


 閉まる扉の音にずっと掴んでいたチコを下ろす。知り合いの顔に緊張の糸がほぐれてしまったのか単に体力の限界か、彼は床にへたり込んでしまう。


「その子とは」


 そんなチコを横目で捉えながら、いつでも動けるよう気を抜かず、彼女は目の前の人物の言葉を待った。


「それなりの付き合いだ。……何があったのかは知らないが、助けられるのなら、その方が良い」


 決して彼女たちと視線を合わせようとはせずに、宿屋の主人は厳つい顔を歪ませながら小さく答えた。

 アドラ達を見失った兵士の怒鳴り声が聞こえてくる。同時に扉を無理矢理こじ開ける音も聞こえているため、手当たり次第に近くの家を探しているのだろう。となれば、このままここに居ても彼女たちが見つかるのは時間の問題だった。


「地下へ行け。北の大通り近くの水路までの抜け道がある」


「で、でもそれバレたらおっちゃんが危ないんじゃねえの……?」


 どのような事情があろうとも、アドラ達はこの街にとって犯罪者。それを匿ったとなれば、普段でも罰せられるのは当然であり、そしてなにより今回は女神の件が関わっている。

 後者の事情を彼が知っているのかは分からないが、


「はやく行け。そろそろうちに来る」


 チコの言葉に宿屋の主人は何も答えず、裏口扉の傍で聞き耳を立て続けていた。


「そんじゃ、遠慮なく。おい、行くぞ」


「な、なあ……。なんとか出来ないのかな」


「ああ?」


「このままじゃおいら達のせいで」


「覚悟の上で言ってんだろうが。そもそもてめえの命もどうなるか分かんねぇ時に、他人のことなんか気にしてんじゃねえよ」


「そっ」


「文句があるなら今からてめぇ一人で外に出て兵士どもぶっ飛ばして来いや」


 吐き捨てる彼女の言葉は冷たくて、それでもチコに反論することは出来なかった。

 彼には力がない。街に詳しく、道案内が出来たとしても殺す気で襲いかかってくる敵を叩きのめす力なんて彼にはなかった。


「……お願いします」


「ぁあ?」


 見るからに苛立ちを顔に乗せて振り返れば、まっすぐに彼女を見つめる少年が居た。声色は震えているけれど、泣くなんて卑怯な真似は一切せずにまっすぐ彼女を見つめる少年が居た。


「おいらだって裏路地で生きてたんだ。あんたの言うことのほうが正しいのはわかってる。でも、優しくしてくれた人たちも居るんだ」


「そりゃお涙ちょうだいだな」


「そんな人たちを、はいそうですかと犠牲にしてたら……、本当に碌でもないない大人になる気がする」


「しなけりゃ碌でもない大人にすらなれずに死ぬがな」


「おいらは力がないから。だから、お願いします。お願いします! なんでもする! おいらに出来ることはなんで、もッ!?」


 言葉の途中で蹲る。彼の言葉を遮ったのは、振り落とされたアドラの拳骨であった。あまり響かない鈍い音が、逆にその痛さを物語っている。

 彼女は動けない少年をひっつかみ、地下への階段へと放り投げた。情けない悲鳴をあげながら少年は落ちていくが、床に激突した際に更に悲鳴をあげたので生きてはいるようだ。


「ぉ、おい……、いくらなんでも乱暴じゃ」


 宿屋の主人を無視して、アドラは表玄関の扉をゆっくりと開け、そして戻ってくる。


「兵士どもにゃ無理矢理押し入ってこられて、あっちから逃げたって言いな」


「ぁ、お、ぉう」


「歯ァ」


「は?」


「食いしばれよ」


「な、ごァアァ!?」


 ――ドガグシャァア!!


 巨大な音を響かせながら、アドラに殴られた宿屋の主人が砲弾となって裏口の扉を破壊する。数本の歯が飛んでいってしまっているが、上手にコントロールされた力配分のせいで気絶出来ていない。むしろ痛みから逃げられず可哀想である。

 兵士達が慌ててやってくる足音を聞き届け、アドラは地下への階段を静かに、だが手早く駆け下りていった。


「ぁ……ぉ……ぁぃ…………」


 階段のすぐ傍で小刻みに痙攣を繰り返して少年をひっつかみ、宿屋の主人が言う北の大通り近くの水路へ向けてアドラは疾走する。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る