第86話


「ぐァ!?」


 兵士長が大地を蹴る。クリスティアンと彼との距離がゼロとなり、悲痛な悲鳴を上げたのは……、兵士長のほうであった。

 火の玉と言うには小さいそれが、兵士長の横頬に直撃したのだ。彼は急いで左手で自分の顔を大きく払う。一歩、二歩と彼の足が勝手に後ろへ下がる。

 そして生まれた距離は、


「しまッ」


「チャノ!」


 クリスティアンが詠唱を行うには十分すぎる距離であった。


「ミコ!」


「くゥゥウ!」


 剣を正面へと構える。せめて少しでもダメージを減らすため。


「ピフルァ!!」


 お世辞にも大きくはない、それでも確かに熱く燃え盛る火の玉が、兵士長へと襲い掛かった。

 燃え移っていく炎を消すために大地を大きく転がる兵士長にトドメを刺さず、クリスティアンはその暇が持ったないとばかりに慌てて走り出す。自分を助けてくれた彼女のもとへと、


「モニカ!」


「……っ、…………!」


 両腕を前に突き出したまま固まっている少女は、生きる屍ゾンビな見た目のため分かりにくいが、ただ疲れているとは違う荒い呼吸を繰り返しながらその目をぐるぐると回して大きく混乱しているようであった。


「お……お、おぉお……」


 ふらり、と少女の身体が揺れる。まだ慣れていない魔法にガス欠でも起こしたか。生き物に初めて攻撃を行った事実にショックを受けているのか。はたまたその両方か。

 優しく抱きしめて、ありがとう、大丈夫だと伝えてあげたいのは山々ではあるものの、状況を考慮して彼は混乱している娘を怪我をしていない右腕でぎゅっと抱きしめ、必死で走り続ける。


「……ッ! お、……ぁ……お、ぉ……」


「助かった!」


「……お」


「ありがとう! モニカのおかげで助かった! 大丈夫だから! もう大丈夫だから! ありがとう! ありがとう、モニカ!!」


 斬られた左腕がジンジンと痛む。動かしてはいけないと叫ぶ身体の信号を無視して、彼は左腕も使って娘を抱きしめなおす。強く、強く。


「…………おー」


 少しだけ、腕の中の少女の震えが納まった気がした。



 ※※※



「まッ……! まだ、まだ逃げ、げほッ」


「さぁ……すがにそろそろ脱出しねえとまずいな」


 離れた場所を兵士たちが走り抜けていく。足音が離れていったのを確認し、チコは肺の中の空気を吐き出した。身体が新鮮な空気を求めているのに、呼吸をすれば肺が悲鳴をあげる。

 彼とは異なり、アドラの呼吸は多少程度しか乱れていない。幾人もの兵士を潰した彼女の身体は返り血を浴び続け真っ赤に染まっていた。粘つく血液を鬱陶し気に払いながら、彼女は周囲の音に気を張り続けている。


 老婆からもらった小瓶を使用して外に居た兵士をおびき寄せたのは良いものの、その数が言ってしまえば多すぎた。

 加えて、


「ちッ」


「うがッ!?」


 荒い呼吸を繰り返す少年の襟首を掴んでアドラが隠れ場所から飛び出す。と、同時に彼女たちが居た場所に大きな火柱が出現する。


「居たぞッ!!」

「こっちだ! 周囲を固めていけ!!」

「魔法組の攻撃範囲に入るなよ!」


 教会に居た魔法を使用できる兵士たちまで合流していた。街が壊れることなんてお構いなしに彼らはアドラたちへと魔法を使用してくる。


「ぁあ、もう! しつけえなァ!!」


「そりゃ、当然だと思うけど……」


「てめぇも自分で走れや!」


「勝手に掴んだのはそ、ぢッ」


 倒れるようにアドラが進行方向を無理やり変化させる。すぐ後ろに迫っていた火の玉が家の壁を破壊する。聞こえる住民の悲鳴に気の毒だ、なんて思える余裕は二人ともに存在しない。


「げほッ! あ、あのせめて背負っていただくとか」


「背中怪我してんだよ!」


「……死ぬ…………」


「泣き言は良いからたったと道案内しろ!」


「案内って……、どこもかしこも敵だらけじゃん!」


「地下は!」


「こ、この辺の地下は……」


 じりじりと兵士たちが周囲を固めていっているのを、アドラの耳は捉えていた。さきほどのように一点突破をするには、どうしてもチコの存在が足手まといとなる。ただでさえ魔法組まで合流しているのだ。少しでも気を抜けば、頑丈な彼女とは違って、ただの子どものチコは魔法一発でその命を容易く落とすだろう。

 痛むのを我慢して彼を背負って走り抜けるか。

 仕方ないかと覚悟を決めた彼女が、彼を背負おうとする前に、


「こっちだ!」


 裏口から顔を出す男の声に、吸い込まれるように二人は家の中に飛び込んで行った。

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