第8話


「はぁ……」


 アドラは何度目か分からないため息をついた。レオが傍に居ればすぐに何があったかと聞いてくるだろうが、彼女は彼が近くに居る時は決してため息を零さないように気を付けている。その反動で、一人の時には数えきれないほど零してしまうのだが。


(どうして逃がしたんだろうな……)


 彼女の頭を悩ましているのは、先日出会ってしまった魔族の親子のことである。あの時は咄嗟に引いてしまったが、家に帰って冷静になって見れば向こうが頭のおかしいことを叫んでいるなど関係なく殺してしまえば良かったと後悔してしまっている。


「そうすりゃ、レオも……」


 後になって悔やむこと。後悔とはそもそもそういうものであり、選んでしまった選択肢をどうこう言っても仕方がないのは分かりつつも、あの時どうして自分が魔族を見逃してしまったのかと頭を痛めずにはいられなかった。


 過去を悔やむ彼女の脳内は、自宅に近づく二組の足音によって現実へと巻き戻された。音の重さから判断して、大人が一人と子供が一人。子どもは彼女の息子レオであるとして、もう一人が誰か分からない。


「ママーッ! お客さんだよ!」


「おかえりなさい、レオ。お客さんって…………げッ」


「なはは~、そんなに嬉しそうにされると来た甲斐があるってもんだよねぇ~」


 元気よく家に帰ってきたレオの後ろからひょっこり覗き込みひらひらと手を振る顔を見て、アドラはこれでもかとしかめっ面をぶちかますのであった。



※※※



「おらよ」


 だんッ! とテーブルにコップを叩き付ける。

 勢いあまってコップの中の水が差しだされた人物にかかるのだが、かけた本人もかけられた本人も大して気にはしていない。


「せめて酒ぐらい出しなよぉ」


「朝っぱらから馬鹿言ってんじゃねえよ、え? 腐ってもがよぉ」


「なっはっはッ! 固いこと言わないでよぉ」


 アドラを訪ねてきた人物。

 賢者と呼ばれたその人は、よほど賢者という言葉が持つイメージとはかけ離れたダメ人間のような崩れ切った態度で大笑いする。

 ゆったりとしたローブを着ていようとも主張するその豊満な肉体と、男ウケの良さそうな甘く自堕落な笑みを浮かべる彼女は、賢者というよりはむしろ高級娼館で働く娼婦のようでもあった。


「ところでぇ、レオくんまたどっか行ったけどぉ?」


「水汲み。そもそもそれを頼んでたってのに、くだらねえもん持って帰ってきて」


「大きくなったよねぇ……、9歳だっけ?」


「ああ」


「そろそろ女を知、おっとっと」


 言葉の途中で彼女はその身をよじる。口調の雰囲気のため遅く感じるが、その動きはとても速い。


「わぁお」


「チッ」


 賞賛か、驚愕か、喜びか。判断の付きにくい声をあげながら振り返る彼女の視線の先には、壁にざっくりと突き刺さったフォークがあった。


「いくらあんたでも、うちの子に手ぇ出したらぶっ殺すぞ」


「なっはっは、怖い怖い。さすがはだよぉ」


 しばらく睨み合っていた二人だが、根負けしたアドラがため息と一緒に視線を外し、どっかと向かい合う席に座る。


「で、何の用だい、ディアナ」


「ちょっとだけ、めんどくさいことになってねぇ」


「へえ、面白いことねぇ」


「人の言葉聞いてたぁ?」


「聞いていたさ。本当に面倒くさいことならあんたが動くわけないじゃないか」


「まぁね~」


 ぐでん、と彼女はテーブルに溶けるように倒れ込む。下から覗き込むような形で、ニヤニヤとアドラを楽しそうに眺める。


「なんでもぉ? この辺で魔族の少女を見たって話が盛り上がっているんだよねぇ」


 ディアナの言葉に、思わず漏れそうになるため息を彼女は必死に飲み込むのであった。

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