一三 F棟404号室

 顔がくすぐったい。


 ぶたを上げると眼の前に梵天丸の顔があった。


「ヘッヘッヘッ!」


 ペロペロと悠輝の頬を舐めている。


  夢か……


 ホッと胸をなで下ろす。


 いや、今のはただの夢だろうか?


 悠輝はまれに予知夢を見ることがある、これも験力のなせる業らしい。


 由衣が行方不明で手がかりさえつかめない今、その事に関する悪夢を見るのはむしろ当然だ。


  そうだ、おれの占いはよく外れる。


「やめろ、くすぐったいよ」


「ったく、寝るならちゃんと布団で寝なさいよ。ってかアンタ、今日、日勤じゃなかった?」


「姉貴?」


 顔を上げると、姉のしんどうはるが立っていた。梵天丸に仏壇のご飯を持ってきたのだろう。


 ハッとして時計に視線を向けると、一〇時半を大分過ぎている。


「しまったッ、寝過ごした!」


「ナニ、寝坊ッ?」


「後で説明するッ」


 今、遙香に詳しく話している場合ではない、一刻も早く由衣を探し出さなければ。


 予知夢ではないとしても、彼女が危険な状況にあるのは間違いない。


「ちょっと待ちなさい、由衣ちゃんが行方不明なの」


 ギクリとして動きを止める。


「えッ?」


 予測しておくべきだった。団地内でしかも近所なのだ、当然すぐに姉の耳にも入る。


「アンタが仕事に行っていない事と関係あるのね」


 悠輝はうなずくしかなかった、今後のことを考えると嘘をついて信用を失いたくない。


「由衣ちゃんのお母さんが言ってたわ、何か占いをしてから様子がおかしくなったって。アンタ、何で黙ってたのッ?」


「ゴメン、こっくりさんをした事は、昨日の夜に朱理から聞いた。本当は午前中に姉貴に話すつもりだったけど……」


「こっくりさんッ?」


 そこまでは知らなかったのか遙香は眼を見開いた。


「でも、朱理は関係ないでしょ。あの子は普通の人間だもの」


 自分に言い聞かせるように言う。


 やっぱり思った通りだ、姉貴は自分の娘たちに異能の力が無いと信じたいのだ。


「姉貴、気付いているんだろ?」


「何を……」


 遙香は弟と視線を合わせようとしない。


 姉と自分は現実を直視しなければならない。それを怠ったせいで、罪のない少女が危険な目に遭っている。


「朱理が呼び寄せた」


「バカなこと言わないで!」


 声を荒げる。遙香は基本的に冷静なタイプだが、験力に関する話題、特に娘たちがそれに関わる内容になると感情的になる。


 悠輝にはその気持ちが充分理解できる、現に自分も問題を先送りにしてきた。


 姉と対立するのが嫌だったのもあるが、周りと違うことで姪たちが嫌な思いや辛い思いをしないで欲しいという願望があった。


 しかし、いくら願ったところで、祈ったところで、現実は変わらない。


「姉貴は験力を封印しているから感じないだろうけど、朱理にはおれと同じくらいの潜在能力がある」


「ウソッ、そんなはずない! あの子は今まで見えない物を視たり、触らずに物を動かしたり、それに予知をするとか、何か異常な事を一度だってしてないわッ。そもそも験力を封じてるあたしから生まれているのよ、遺伝するわけないじゃないッ」


「その通りだよ。だからおれも、このまま覚醒せずに済んで欲しいと思っていた。

 でも、姉貴も知っているだろ、ウチの家系は余所とは違って発現するのが遅い」


「それでもあたしは八歳、アンタは一〇歳で発現してる。朱理はもうすぐ一三歳になる、いくら何でももう発現なんてしない! アンタの勘違いよッ」


「……………………」


 遙香は次々に朱理に験力が無い理由を挙げていく。父親似であること、恐がりであること、科学で説明できない事象が朱理の周りでは起きたことは無いこと。


 自分の言っていることが験力の有無に関係ないことは、遙香自身がよく知っているはずだ。


 感情的になっている人間に何を言っても無駄である。


 いかに正しかろうが、いくら理に適っていようが、絶対的に動かしがたい現実を突きつけようが、とうふうになってしまう。


 これはコールセンターでクレーム対応をする際に学んだことだ。


 悠輝は沈黙したまま遙香を見つめ続けた。感情的になった者に必要なのは言葉ではなく沈黙だ。


 一度燃え尽きさせて、クールダウンするのを待つしかない。


「何か、言い返したら?」


 怒鳴り続けたせいで息を切らしながら遙香が言った。


「姉貴、いずれその事につてはじっくり話そう。今は由衣ちゃんの方が先だろ?

 朱理にはおれが作ったお守りを持たせてあるから、余程のモノが出てこない限り心配ない」


 遙香は大きく深呼吸した。


「そうね……だけど警察が捜索しているわ。素人のアンタがしゃしゃり出ていっても邪魔になるだけじゃない?」


「ただの行方不明ならね」


「本当に間違いないの?」


 遙香は超常現象やそれに関係する物を嫌っており、普段はそれを信じていないような振る舞いをしている。


 嫌っているのは事実だが験力と呼ぶ超能力を使えたこともあり、本当はその存在を認めている、いや認めざる得ないのだ。


 必然的に同じ能力ちからを持っている弟の言うことも、直接娘たちが関わってなければ耳を傾ける。


「残念だけど」


 遙香は溜息を吐いた。


「ウソでしょ……何か手がかりは?」


 今度は悠輝が溜息を吐く番だ。


「術は試したの?」


「出来る限りのことは」


「そう、法具無しじゃね……」


「あるよ」


「え?」


「ゴメン、後でいくらでも説教してくれ」


「わかった、覚悟しときなさい。で、法具を使ってもダメだったわけね」


「万全の装備じゃないけど、どっちにしろおれの技量じゃこれが限界だ」


 遙香は舌打ちした。


「そうね、法具が無くたって探す能力に長けてれば見つけられるか。

 験力を封印したのを後悔しそうだわ……。

 そう言えば以前、ヒデが安宗中学校で行方不明事件があったって言ってた」


「義兄さんが?」


 遙香の夫、しんどうひであきはこの団地で生まれ育った。


「ええ、行方不明の子は見つかりはしたんだけど、その時はもう亡くなっていたって」


 遙香が不安げに顔をしかめる。


「その子はこっくりさんをやってから、様子がおかしくなったって噂があったみたい。もちろん真相はわからないけど」


 悠輝の中で何かが繋がり、胃の底に恐怖が湧き上がる。


「姉貴、見つかった場所は……」


「ワンッワンッワンッワンッワンッ!」


 梵天丸が激しく吠え始めた。彼はドアに前足の爪を立てて引っ掻いている。


「やめろッ」


 珍しく悠輝が厳しい声を上げる。


「ワンッワンッワンッワンッワンッ!」


 しかし梵天丸はドアを引っ掻くのをやめようとはしない。


 悠輝は愛犬の様子にただならぬ物を感じた。

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