第820話 挫折

 赤の塔に急遽設えられた簡易ベッドの上でレイジは片膝を立てて項垂れていた。


「オレは……オレは……」


 治療を終え、傷一つなくなった手のひらを見つめ、レイジは己の弱さを嘆く。

 隣のベッドには未だ眠ったままの妹――クレールが小さな寝息を立てて横になっている。


 目を覚ました時には全てが終わっていた。

 今、レイジたち兄妹が生きているのはリアンの救助がギリギリのタイミングで間に合ったからに他ならない。


 これをただの幸運と呼ぶのか、あるいは救助が来る寸前まで耐えた成果だと考えるのか、立場によってその評価は分かれるところだろう。


 無論、レイジは前者だと考えていた。

 誇り高き炎竜族でありながら、魔物如きに後れを取ってしまったのだ。多勢に無勢であったことなど言い訳にはならない。


 己の力が足りていなかった、ただそれだけ。

 もし炎竜王であるフラムでも対処ができなかったのならば、レイジもまだ納得できただろう。自分を言い聞かせられただろう。


 だが、レイジとクレールは幸運にもリアンによって助けられた。助けられてしまった。

 救助が来るまで耐え切ったのは二人の奮闘があってこそ。しかし、同じ東方を警備していた他の仲間たちはほぼ独力で死地を切り開き、耐え切ったというのに自分たちだけがリアンによって直接助けられたのだ。

 レイジのプライドが、心がズタボロになるには十分過ぎる現実を突きつけられたのである。


 フラムに雇用されるよりも前、レイジは生まれ持った才能を磨き、力を身につけた。

 妹のクレールを守るために、そしていずれ炎竜王ファイア・ロードに至るために。


 力はレイジの心の支えであり、柱だ。

 フラムに初めて出逢ったあの夜、鼻っ柱こそ折られたものの、心までは折られていなかった。むしろ、上には上がいる――炎竜王という隔絶した強者を目の当たりにし、思わず目を輝かせ、感動さえ覚えたほどだ。


 そしてその気持ちは紅介に対しても同じ。

 竜族ではなく人間でありながら、上位の竜族と同等か、それ以上の力を持つ紅介に戦う度に何度も瞠目させられたのは記憶に新しい。少しでも近付きたいと稽古にも身が入った。


 短期間だったとはいえ、紅介との稽古を経て実感できるほど実力が向上し、迎えた初仕事。

 『四竜の宮殿エレメンツ・パレス』周辺の警備は実戦感覚を磨く絶好の機会だと仕事が始まるまでは思っていた。


 当然、仕事は仕事だ。

 己の力を試したいがために魔物と戯れるような真似はせず、魔物の駆除に注力した。


 魔物を殴り、斬り、穿ち、焼き払い、完璧な仕事をこなしていき――そして、地獄が訪れた。


 異常なまでの再生力を持つ異形の魔物。

 一体一体の強さは苦戦を強いられるほどではなかったが、数があまりにも多すぎた。


 時間の経過と共に削られていく体力、失われていく魔力。

 特に魔力の枯渇が問題だった。

 異常な再生力を持っていたが故に並の攻撃では倒し切れない。十分な破壊力を持った攻撃で仕留め切るには今のレイジの実力では相応の魔力が必要だったのである。

 加えて、レイジが持つスキル――『爆走炎舞フレイムランナー』は異形の魔物との相性が極めて悪かった。

 魔力を消費することで、三次元機動と爆発的な加速力、そして加速力に伴う破壊力を獲得するという性質上、下手に魔力を惜しめば異形の魔物を倒し切るには至らない。

 そのためレイジはクレールを守るため、魔物を倒すため、否応なしに魔力を消費し続けるしかなかったのである。


 結果、レイジは魔力を枯渇させ、クレールと共に地に倒れた。

 リアンが助けに来てくれていなければ、間違いなく魔物に嬲り殺されていたに違いない。


 これを幸運と言わずして何と言うべきか。

 見つめていた頼りない手のひらを爪が食い込むほど強く握りしめ、己の無力を呪い、怒り、そしてゆっくりと解いた。


 心が折れかけていた。

 強さだけを誇り続けてきたレイジにとって、魔物如きに殺されかけたことは最大の屈辱であり、同時に最大の挫折となったのだ。


「ははっ……。弱ぇな、オレ……」


 レイジの口から空虚な笑い声が漏れ出る。

 仕事を完遂し、妹を守ると息巻いていたのにこのザマだ。

 膨れ上がっていた怒りが萎んでいく。

 今やレイジの心には怒りよりも虚しさばかりが広がっていた。


「……あ、起きてる」


 放心状態になっていたレイジのもとに、大きな水桶を抱えたリアンが偶然近付き、様子を見かねて声を掛けた。

 赤の塔内には警備に就いていた多くの負傷者が今も治療を受けており、リアンはその手伝いに駆り出されていたのである。


「あっ、ええ、ついさっき……」


 歯切れ悪くそう答えたレイジは後ろめたさからリアンの顔を直視できずに視線を逸らしてしまう。


「……そう。……怪我、もうない?」


 すっかりと牙を抜かれたレイジの様子に気付きながらもリアンは気に掛けることなくいつもの調子で会話を続ける。


「お陰様で怪我は治りました。それよりもすんません。オレ、足を引っ張っちまいました」


 レイジがしおらしく頭を下げてきた意味がわからずリアンは首を傾げる。


「……なんで謝るの?」


「はっ?」


 謝罪を受け入れられるかどうかではなく、謝罪そのものに疑問を抱かれたレイジは伏せていた顔を上げ、目を大きく見開いた。


 リアンからしてみれば、レイジたち兄妹が今回の警備隊の中で最弱に位置しているのはわかりきったこと。

 予期せぬ魔物の襲来があったとはいえ、足手まといになるであろうことは最初から織り込み済みだった。

 リアンは、あくまでもレイジたちが警備隊に組み込まれたのは王が二人の成長を望んだからであり、決して実力が認められたわけではないと認識していたため、そもそも戦力として期待していなかったのだ。

 期待していなかった以上、責任を問う理由もなければ、謝られる理由もない。むしろリアンは想定以上の働きを見せたレイジたちを評価していた。


 だが、レイジはリアンが評価してくれていることなど知る由もない。


「いや、なんでって……守る側のオレが守られたんですよ。詫びるのは当たり前なんじゃ……」


「?? ……レイジはまだ弱い。……守られるの、当たり前」


 リアンは口が少なく感情表現も乏しい。彼女の心中を――真意を察するのは無理があった。

 文字通りにリアンの言葉を受け止めてしまったレイジは情けなく口元を歪ませる。


「……っ」


 何も反論できなかった。

 己の無力さを知ってしまった今のレイジには気丈に振る舞うことも強がることもできない。


 現実を現実として受け止め、そして弱さを認めた。

 強くなりたい、強者であり続けたいという思いが大きく揺さぶられ、やがて心に亀裂が走る。


「オレはもう……」


 心の支えとなっていた『力』を完全に否定されたことで、レイジの心がついに折れる――その時だった。


「お兄ちゃんは諦めるの? 炎竜王になるんじゃなかったの?」


「お前……いつから起きて――」


「そんなのはどうだっていいでしょ!」


 隣のベッドで眠っていたはずのクレールが身体を起こし、力強い眼差しをレイジに向けていた。


 レイジは動揺で瞳を大きく揺らし、視線から逃れようとする。

 だが、クレールは弱気になったその瞳を捉えて離さない。決して逃さないように、さらなる言葉を付け加える。


「負けて、死にそうになって、それで終わり? ううん……そんなのお兄ちゃんじゃない。私の知ってるお兄ちゃんなら絶対に立ち上がる。負けたままでいられるかーって何度でも何度でも馬鹿みたいに立ち上がって、もっと……ぐすんっ、もっと強くなろうって……努力、するんだから……」


 クレールの目から大粒の涙が零れ落ちる。

 頬を伝った涙は、悔しそうに力強く握られた拳の上に落ちたのだった――。

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