第821話 情景

 底の見えない深い深い海に沈んでいく身体。

 指先一つ動かせず、クレールは無防備なまま暗い海の底に誘われていく。


(またこの夢……)


 呼吸ができないにもかかわらず、苦しさを感じないのはここが夢の中である何よりの証拠だった。


 何度も見た夢だ。今さら恐怖はない。

 クレールはディアと出逢ってから毎日のように繰り返し同じ夢を見続けていた。

 代わり映えのしない景色にクレールは意識を夢ではなく昨日の悪夢へと向ける。


(強くなれたと思っていたのに何もできなかった……。またお兄ちゃんに迷惑掛けちゃった……)


 夢の中でも思い出す。

 無数の魔物に襲われ、力尽きてしまったあの時の悪夢を。


 魔力を使い果たして意識を手放す間際、クレールが最後に見たのはボロボロになった兄の背中。

 多くの怪我を負い、肩で呼吸をするレイジの姿は昔から見て来た頼りになる兄の姿と同じだった。


 物心がついた時には既にレイジは強かった。

 戦う術を持っていなかったクレールにとって、兄が全てだったと言っても過言ではない。


 兄に守られ、生かされてきた。

 出先で魔物に襲われそうになった時も、同世代の竜族にいじめられそうになった時も、ボロボロになりながらいつも助けてくれたのは兄だ。


 食料を調達してくるのも兄の仕事だった。

 クレールにできるのはレイジが採ってきた食料を心を込めて調理することだけ。


 いつもいつもいつも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。傷だらけになりながら獲物を抱え、帰って来る兄の姿を見る度に負い目を感じていた。

 だからせめて戦い以外の部分で役に立ちたいと知識を蓄え、家事全般をこなしてきた過去がクレールにはある。


 だが、それでも負い目が消えることはなかった。

 レイジからしてみれば、クレールの存在は兄妹という関係以上に大きな支えになっていたが、クレールの認識は違う。

 クレールは自分のことを足手纏い、兄の枷だと思い込んでいた。


 生きている限り、永遠に感じ続けなければならない罪悪感。

 だが、フラムとの出逢いが、ディアとの出逢いがクレールの人生を大きく変える――。


 住む場所が変わった。

 増築を重ねたツギハギだらけの家から、眺めるだけだったはずの真紅の城へと住居を移した。

 それから瞬きほどの短い時間でフラムに仕え、ディア専属のメイドに任命。そして、クレールはディアとの稽古を経て、その才能を大きく開花させた。


 クレールが持つ特異で希少なスキル『経験回顧エクスペリエンス』は、まるでディアとの出逢いを待っていたかのように、突如として半ば閉じていた栓を全開にしたのである。


 これまでクレールは『経験回顧』を使用しても、対象者の表層部分の経験と知識しか獲得できずにいた。運動能力と戦闘能力に改善が見られなかったのもそのためである。

 そして表層部分しか経験と知識を獲得できないのは対象をディアにしても同じ――いや、神性を帯びているディアを対象にしたのだ。『経験回顧』は実のところ、本来の一割にも満たない効果しか発揮できずにいた。


 しかし、一割にも満たないとは言えども、かつて神であったディアの経験と知識ともなれば事情は大きく異なる。

 そう……端的に言ってしまえば、『経験回顧』は――クレールはディアの過去を遡ろうとし、キャパシティを大幅に超えてしまったのである。


 その結果が、この情景ゆめだ。

 深く広い海の景色はディアが持つ情報量の多さを示していた。

 使用者の預かり知らぬところで『経験回顧』は一度に獲得できなかったディアの経験と知識をクレールにゆっくりと与えていく。

 稽古を行った日以降、クレールの運動能力及び戦闘能力が劇的に向上したのも極僅かとはいえ神であったディアの経験と知識を獲得していたからだった。


 そうとは知らずクレールは不甲斐ない自分の力を嘆き、悔やむ。


(まだまだ足りない……。お兄ちゃんの横に並んで立つには、もっと大きな力が……)


 少女の願いが情景を変化させる。

 底の見えない真っ暗な海に淡く微かな光が灯る。

 まるで光はクレールの進むべき道を示すかのように揺らめき、緩やかに動き出す。


(――待って)


 強い願望が身体に僅かな自由を与える。

 気付けばクレールはそれまで微動だにしなかった身体を動かせるようになっていた。


 とはいえ、身体は海の中だ。

 地上とは勝手が違う鈍重な手足を懸命に動かし、水を掻いて、光を追い求める。

 手を大きく開き、ミリ単位でも光との距離を縮められるよう指先を目一杯伸ばす。


 が、クレールの指が光に届くことはなかった。

 光はひらりとクレールの手から逃れ、速度を上げて海の底へ消えていく。


「……あっ」


 と、そこでクレールは目を覚ます。

 目蓋を開けたその先には見慣れてきた天井と明かりの消えた照明がぶら下がっていた。


「いつもの夢じゃ……ない?」


 曖昧になり始めた夢の記憶を頭の中で精一杯整理していく。

 額には大粒の汗が浮かんでいたが、構うことなくいつもとは違った夢の内容を脳に刻み込み、定着させた。


「ふぅ……。もう朝かぁ……」


 昨日の死闘が嘘だったかのように、クレールの部屋を清々しい朝の日差しが照らしていた。


 『竜王の集いラウンジ』が終わり、真紅の城に戻って早半日。肉体的な疲労はすっかり消えていたが、精神的な疲労はまだ色濃く残っていた。

 いつもより少し遅い起床。慌ててベッドから起き上がったクレールは鏡の前で寝間着からメイド服に着替え、支度を整える。


 新しい一日が始まり、また日常が戻ってきた。

 だが、気持ちは昨日の出来事を引き摺ったまま。

 酷く落ち込んだ兄を、涙を流しながら励ました小っ恥ずかしい記憶が頭の中から離れてくれない。


「なんで私……なんで私、あんなことを……! うぅー!」


 鏡に映った赤面する自分の顔を見て、羞恥心がより一層増していく。

 慌てて鏡の前から飛び退いたクレールは、羞恥で赤くなった顔を誤魔化すように、両頬をぱんぱんと強く叩いた。


 と、その時だった。

 何の前触れもなく部屋の扉がガチャリと音を立てて開く。そして扉の先から執事服をビシッと身に纏ったレイジが姿を見せた。


「――おーい! いつまで寝て……何やってんだ?」


 レイジの視線の先には赤くなった両頬を押さえ、硬直するクレールが突っ立っていた。


「!?」


 頬を通り越して耳の先まで赤く染めるクレールに、レイジは気まずそうな顔をしながら追い討ちをかける。


「あー……うん、あれだな。気合を入れるのは悪いことじゃねぇけど、顔を腫らすのはやめといた方がいいんじゃねぇか?」


「きゅーーーー!」


 恥ずかしさのあまり、沸騰した薬缶やかんのような甲高い音を出すクレール。

 そして、わなわなと全身を震わせ、いきなり部屋の中に入ってきたレイジに強く抗議する。


「ノノノ、ノックもしないで女の子の部屋に入ってくるなんて酷いっ! お兄ちゃんのバカっ! アホっ! すけこましっ!」


「……最後のはなんか違くねぇか? それにだな、ついこの間まで同じ屋根の下で寝てたじゃねぇか」


「それはそれ、これはこれなのっ! それよりその元気そうな顔は何!? 昨日、あんなに落ち込んでたのに!」


 ビシッとクレールに指を突きつけられたレイジはぎこちない笑みを浮かべて、心境の変化を吐露する。


「まあ……あれだ、妹を泣かせるなんてクソダセェ真似はもうしねぇって決めただけだ」


「……」


 そう言うとレイジは照れ臭そうに目を逸らし、頬を掻く。

 だが、そんな見え透いた照れ隠しの裏でレイジの決意は固かった。


 一度は折れかけた心の柱。

 大きな罅が入り、一人では修復不可能になっていたレイジの心はクレールの涙によって再び塗り固められ、より頑丈な柱となってレイジの心を支えたのであった。


「おい、何か言えよっ! オレが恥ずかし――」


耳を赤くしてツッコミを入れようとしたレイジを遮り、クレールが笑顔の花を満開に咲かせて言う。


「――うん。いつもありがとう、お兄ちゃん」


「ああ、そうかよ……」


 兄妹の成長は止まらない。

 決して揺らぐことのない強固な絆で互いに支え合い、高みを目指して共に歩み続けていく――。

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