第805話 困難の先

 セフォンは見てしまった。

 不条理極まりない魔物――『特異種イレギュラー』を。そして、喰われゆく者の姿を。


「ど……どうし、て……」


 酷い寒気に襲われる。飴色の瞳を激しく揺らし、震えが止まらない身体を自分で抱きしめ、歯を鳴らす。


 その存在に気付いたのは天高く昇る巨大な火柱が切っ掛けだった。

 突如として現れた火柱は音を立て、熱波を生み、眩い光を放った。

 意識がどこに向いていようが、必然と吸い寄せられてしまうほどの高等魔法だ。セフォンの視線が縫い付けられてしまっていたのも無理はない。


 加えて、セフォンは炎竜族の男を気に掛けていた。

 心が絶望に染まりかけていたタイミングで、男は心強い言葉を掛けてくれた。踏み出す勇気を与えてくれた。


 セフォンにとって、男はかけがえのない戦友であり、恩人だ。窮地を共に乗り越えんとする運命共同体とも言えたかもしれない。


 だが、セフォンの心を支えてくれた男はもういなくなった。

 セフォンが愕然と見つめていた先で『特異種』に敗れ、惨たらしく喰われてしまった。


「うっ……うぇぇぇぇ!」


 胃酸が込み上げ、嘔吐する。

 脳裏に焼き付いた悍ましい光景を思い出し、耐え切れなくなったのだ。


 セフォンは地竜王アース・ロードの娘として長い時を生きてきた竜族である。

 その中でいくつもの死を見送り、いくつもの悲惨な事件や光景を目にしてきた。

 仲間の死、友の死、母の死、父の裏切り……どれもこれも苦く嫌な記憶だ。

 しかし今、目の前で起きた出来事はセフォンの人生の中でも飛び抜けていた。最悪の記憶となった。


「――セ、セフォン様!」


 セフォンの耳に慌てふためいた女性の声が飛び込んでくる。

 声の正体はメイド服を着た炎竜族の女性だった。そのすぐ後ろには同じくメイド服を着た女性がもう一人控えている。

 彼女たちは異変を素早く察知し、『不浄の母』との戦いを仲間たちに一時的に任せ、セフォンのもとまで駆けつけてきたのだ。


 吐瀉物のついた口元を袖で雑に拭ったセフォンは生気を失った虚ろな瞳で彼女たちを一瞥すると、火柱が立っていた方向に指をさす。


「……ぁ、れ?」


 そこには何もいなかった。

 姿もない、影もない、気配もない。

 あるのは激戦が繰り広げられた痕跡と、燃え盛る大地だけ。

 最悪の光景を生み出した『特異種』の姿は、まるで幻だったかのように完全に消え失せていた。


 しかし、彼女たちは何も疑うことなくセフォンを挟むように立ち、警戒を最大限まで引き上げる。

 その一方でセフォンに声をかけた女性は顔にわざとらしい笑みを貼り付け、軽口を叩く。


「かくれんぼも得意なのかしら?」


 仲間が殺されたのだ。それに気付かぬほど、ここにいる炎竜族たちは愚鈍ではない。

 姿形は見えなくとも強敵がどこかに潜んでいることは確実。

 女性は軽口を叩きながらも神経を研ぎ澄まし、捜索網を慎重に広げていく。

 そして……。


「――下よっ!」


 その言葉を合図に一斉に大地を蹴り上げた。

 唯一、声に反応できなかったセフォンも、合図を出した女性に腕を掴まれて強制的に地面から離れる。

 直後、地面に亀裂が走り、深紅の単眼が顔を覗かせた。


「ただの色違い、というわけではなさそ――っ!?」


 俄には信じ難いその姿に、女性は軽口を叩く余裕を失う。

 亀裂を無理矢理広げて這い出た『特異種』は、炎竜族ならば誰でも見覚えのある赤い光の粒子をその身から発していたからだ。


 不吉な予感に顔が凍りつく。

 あり得ない。あってはならない。つまらない冗談であってほしいと、その刹那、女性は願う。


 が、無情にもその願いが届くことはなかった。

 その願いを真っ向から否定したのは『特異種』。全身から大量の光の粒子を迸らせ、音を置き去りにする速度でセフォンたちに襲い掛かる。


「キハッ――!!」


 人体とは異なる独特の発声。それでもその声が歓喜に満ちていることはいやでも理解できた。


 炎竜族だけに許された力――『加速』を魔物如きが使った事実に衝撃を受けながらも炎竜族の二人は特性『加速』を使用。『特異種』と同じ赤い光の粒子を纏い、距離を詰めさせない。


 セフォンを掴み、抱きかかえた女性によって極限まで圧縮された熱線が『特異種』に向けて放たれ、左腕に直撃する。

 熱線は瞬く間に腕を貫き、肘から先の大鎌を焼き落とした。


 非常に高い『特異種』の火耐性を貫く強力な一撃。

 狙いを定める余裕がなかったとはいえ、片腕を一本落としたのだ。相手が相手ならば、成果としては十分誇れるものだろう。


「……見た目は変わっても再生力は健在ということかしら」


 焼き切られた傷口から肉がせり出し、形成していく。

 一秒にも満たない短時間で『特異種』の左腕は元の形を取り戻し、刃を鋭く光らせる。

 その間にも足が止まることはない。むしろ彼我の距離は徐々に縮まりつつあった。


 炎竜族と『特異種』の間には『加速』の扱いに大きな熟練度の差がある。

 生まれながらにして『加速』を持ち、長き時を経て自在に扱えるようになった炎竜族と、炎竜族を喰ったことで『加速』を獲得したばかりの『特異種』。両者に大きな開きがあるのは当然だと言えるだろう。


 にもかかわらず、両者の距離は縮まっていく。

 純粋な身体能力は炎竜族が上。だが、疲労や魔力量、そして何よりセフォンという枷が重くのしかかり、距離を縮めさせる要因の一つとなっていたのだ。


 生きる希望を失っていても、状況を理解できないセフォンではない。枷になっていることを察するや否や、腰に巻き付く女性の腕を解いてもらおうと説得を試みる。


「おろしてください。私なら一人でも戦えます」


 根拠もなければ自信もない、真っ赤な嘘。

 その場凌ぎで口にしてみたはいいものの、簡単に見破られてしまう。


「ご冗談もほどほどに。それよりも舌、噛みますよ」


 女性は一切取り合うことなく『不浄の母』と戦う仲間たちと合流を果たそうと、ひた走る。

 あわよくば『不浄の母』と『特異種』をぶつけられないか。そうはいかずとも五人で対処すれば何か突破口が見出だせるのではないかと期待しての行動だった。


 大口を開け、炎を吐き出す『特異種』。

 見様見真似か、女性がつい今しがた見せた熱線を模倣し、圧縮した細いブレスを放つ。


「火の扱いは二流以下のようですね」


 カバーのために並走していた女性がセフォンたちを狙ったブレスに対処する。

 二人の間に身体を滑り込ませ、うねるように迫るブレスを前に片手をかざして、炎の支配権を奪い、掻き消した。

 

 そうこうしているうちに、あっという間にもう一つの戦場――『不浄の母』のもとに辿り着く。

 そこでは未だに終わりの見えない戦いに身を投じる三人の炎竜族が代わる代わる攻勢を仕掛け、『不浄の母』とその子たちの対応に血と汗を流していた。


「退避なさい! 一度立て直しますわ!」


 セフォンを抱きかかえた女性の叫びがこだまする。

 その声に呼応し、『不浄の母』と戦っていた炎竜族たちはすぐさま距離を取り、合流を果たす。


 二つに分かれていた戦場が一つに纏まる。

 セフォンと五人の炎竜族、『不浄の母』と『特異種イレギュラー』が一箇所に集まった。


「同士討ちは……期待できそうにありませんね」


 冷たい汗を流す女性の視線の先には『不浄の母』を背にして悠然と構える『特異種』が不気味にほくそ笑んでいた。

 無論、周囲には『不浄の母』が産んだ子も数多いる。


 これまで何とか均衡を保てていたのは魔物たちが竜族を殺しうる術を持っていなかったからだ。

 しかし、それも『特異種』の登場で覆ってしまった。


 セフォンを囲むように炎竜族の五人が背中を向け合う。

 限界は目前まで迫っている。

 魔力も体力もほとんど使い果たし、気力だけで立っていると言っても過言ではない状態だった。


 だが、セフォンを囲う炎竜族たちの表情には余裕が生まれていた。勝利を確信していた。


「我慢の勝利と言ったところかしら?」


「この場合は勝利ではなく我々の敗北と言うべきでしょう。――王のお手を煩わせてしまうのですから」


 炎竜族たちの中に、それを捉えられない者はいなかった。

 全炎竜族の頂点に立つ存在――炎竜王ファイア・ロードフラムの気配を。

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