第804話 『特異種』

 ――『特異種イレギュラー』。

 それは『不浄の母』から産まれた異形の魔物の突然変異であり、特殊個体だ。


 大きさは平均的な成人男性よりも一回り大きい二メートル程度。

 禍々しい深紅の単眼に、鋭利な牙が覗き見える巨大な口。つるりと光沢のある身体は鮮血のような赤に染まっており、見た者を恐怖で竦み上がらせる。

 強靭な二本の足の先には四本の鋭く長い爪が大地に食い込み、腕から先は通常個体とは異なり、死神を想起させる巨大な鎌に変貌を遂げている。

 簡潔に言うならば、『特異種』は無駄を削ぎ落とした身体に進化していたのだ。


 進化したのは外見だけではない。本能だけで動く魔物とは違い、『特異種』には僅かながらも知性を獲得していた。

 とはいえ、その知性は人間には遠く及ばない。もとより備わっている本能の延長線上と呼ぶべき知性しか備わっていなかった。


 そして『特異種』が『特異種』である最大の理由――それは能力スキルだった。

 幾度と試行錯誤した末に誕生した『特異種』は通常個体が持つ強力な再生力に加え、特殊な能力をいくつか獲得していたのだ。


 環境に適応するため、炎竜族に対抗するため……『不浄の母』の願望が形となり、『特異種』に新たな力を授けたのであった。




 屍の山の中で身を潜めていた『特異種』は深紅の単眼で獲物を――眼鏡をかけた執事服の男を捉える。


「クキ、キキキ――」


 嗤いが込み上げ、音となるが、どうでもいい。

 蓄積した疲労によって集中力を切らせた眼鏡の男は決定的な隙を見せている。炎竜族の特性である『加速』を切り、周囲への警戒も足りていなかった。


 言葉が風に乗って眼鏡の男に届くよりも先に『特異種』は動く。

 屍を蹴散らし、大地を蹴り上げ、音を置き去りにして背後から迫る。


「――生き残りかっ!!」


 迫り来る魔物の気配を察知した眼鏡の男は瞬時に振り返り、迎え撃つ――が、男は直後、目を丸くする。


 見たことのない魔物の姿に、目と鼻の先まで迫っていた『特異種』の速さに。


 腕から生えた大鎌が、男の命を刈り取ろうと横薙ぎに振り払われる。

 それを寸でのところで身体を反らして回避し、即座に火系統魔法を発動。轟々と音を立てて燃え上がる炎が『特異種』の身体を包みこんだ。


「ク、キキ?」


 次の瞬間、目を疑うような光景が広がり、男は愕然と口を開く。


「なに――ッ!?」


 突然の襲撃に調節を忘れ、たった一体の魔物を殺すだけには惜しい量の魔力を消費し、魔法を行使したはずだった。

 にもかかわらず、『特異種』は燃え尽き、灰にならなかった。

 それだけではない――『特異種』は自分の身体を包みこんだ炎を、大口を開けて吸い込んだのである。


 酒を飲み干したかのように『特異種』は満足げに息を吐き、嗤う。

 そして、愕然と立ち尽くした男にお返しとばかりに大鎌を馳走する。


「キキッ」


 光の如き速さで振り下ろされた大鎌が、眼鏡の男の左肩から先を落とす。

 左腕一本で済んだのは男の実力が卓越していた証左でもあった。

 『特異種』の狙い通りであれば、頭から真っ二つになっていたところ。僅かに身体を引き、回転させたことで何とか致命傷を避けたのである。


 男は痛みを無視し、『特異種』から距離を取る。その間に傷口を自ら焼き、噴き出す血を止めていた。


「クキキ?」


 追撃はなかった。

 『特異種』は地面に転がっていた男の左腕を不思議そうに見つめる。


「魔物風情が……」


 額に青筋を立て、男は怒りで声を震わせる。

 屈辱以外の何ものでもなかった。いくら疲労が蓄積し、満身創痍だったとはいえ、魔物ごときに腕を落とされた挙げ句、殺せなかったことに疑念を抱かれているのだ。

 格下に見られていることは言葉を交わせなくても一目見ればわかった。


 許し難い屈辱に男の顔が歪む。

 魔力残量を考えることをやめ、目の前で立ち尽くすたった一体の魔物を相手に全力を振り絞る。


「死ね」


 地面から一筋の火柱が立ち、やがて火柱はその太さを増し、周囲一帯を燃やし、溶かしていく。

 『特異種』を中心に展開された巨大な火柱は、眼鏡の男自身も呑み込み、周辺に残っていた異形の魔物を一切再生させることなく魔石ごと蒸発させた。

 火柱に呑み込まれなかった魔物は熱波にあてられただけでその身をぐずぐずに溶かし、大地から流れ出たマグマと一体化する。


 後先考えずに放った会心の炎。

 その中で平然と立っていた男は魔法を解除する。


「はぁ……はぁ……」


 みるみるうちに火柱が萎んでいく。

 魔力が欠乏したことで酷い頭痛と目眩に襲われ、呼吸も激しく乱れていた。


 だが、眼鏡の男はその目に殺意の炎を宿し、前を睨み続ける。

 視線の先に残り続ける魔物の気配を決して離さないように。


 そして、火柱が消える。


「クキ――キキキッ」


 『特異種』は生きていた。

 まるで脱皮をするかのように黒焦げになった皮膚を剥がし、焦げ跡一つない新しい身体に生まれ変わる。


 燃え盛り、溶けた大地。

 その中を『特異種』は悠然と歩き、今にも膝から崩れ落ちそうになっている男のもとまでゆっくりと近付いていく。


「ゆる、さん……」


 最後の一滴まで魔力を燃やし、そして命の炎を燃やし、鉛のように重くなった身体に活を入れ、『加速』を再度使用。赤い光の粒子を全身から立ちのぼらせ、拳を構えた。


 次の瞬間、男の拳と『特異種』の鎌が激突する。

 切れ味鋭い刃の部分を躱し、横から殴りつけた男の拳は『特異種』の鎌を打ち砕き、続け様にもう一方の鎌を狙う。


 速度は男が完全に『特異種』を上回っていた。

 限界を超えて行使した『加速』により、『特異種』は男についていけず、翻弄される。


 男は隻腕になったにもかかわらず、瞬く間に『特異種』の両鎌を打ち砕いた。

 速さだけではなく、類稀な技量あっての結果だ。


 が、両鎌を失った『特異種』に焦りはない。

 その拳だけでは脅威にはならないと理解していたからだ。


 男の拳が『特異種』の胴体に迫る。

 速度で上回っている以上、不可避の一撃となる――はずだった。


「さい、せい……」


 新しく生え変わった鎌によって拳が受け止められる。否、それだけではない。拳を真っ二つに裂かれていた。

 右腕の半ばで『特異種』の鎌が止まる。


「キキキキキキィ!!」


 歓喜の哄笑が男の耳を劈く。

 もう『加速』は止まっていた。全ての魔力を燃やし尽くしていたのだ。


「……ぁがっ」


 男の身体にもう片方の鎌が突き刺さる。背中から鎌が突き抜け、血を撒き散らす。

 そこで男の意識は途絶え、命の灯火が消えた。


 完全に動かなくなった男を鎌で突き刺したまま『特異種』は嬉々として男をぶら下げた腕を持ち上げる。


「クキキ、キキキ!」


 これは『特異種』にとって戦いではない――『狩り』に過ぎなかった。狙いを定めた獲物を追い詰め、一方的に殺したに過ぎない。


 そして『狩り』なのだから、目的は当然その先にある。


 『特異種』は右腕にぶら下がっていた男の遺体を器用に手繰り寄せ――大きく口を開いた。


 頭蓋をガリゴリと噛み砕き、脳を啜り、口元を血まみれにしながら咀嚼していく。

 髪の毛どころか男が着ていた執事服ごと頭の先から足の先まで肉片を飛び散らせ、やがて平らげた。


 平らげた途端、『特異種』の身体に亀裂が入っていく。

 全身の赤い皮膚がところどころ裂けていき、その裂けた箇所から赤い光の粒子を発し始めたのである。


「クキッ――マダ……ダリ、ナイ」


 乏しかった知性と知能が発達し、拙いながらも大口から言葉を発することに成功した。


 それから数秒後、『特異種』は新たな進化を迎える。

 ひび割れた皮膚が剥がれ落ち、赤い光の粒子を迸らせ、より強靭になった肉体を獲得。新たな肉体からは常に赤い光の粒子が発せられ、全身を淡い赤色に発光させていた。


「モッド、クウ……」


 深紅の単眼がギョロッと動き、次の獲物を探す。

 力を得るために、進化を遂げるために、『不浄の母』を守るために。


「ヅギ……アレ、クウ」


 そう言葉を発した『特異種』の視線の先には土色の髪を靡かせる女性――セフォンがいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る