第801話 耐久

 セフォンからザグレス宛の言伝を預かっていた秘書の女性は死地を切り開き、息も絶え絶えにようやく辿り着いた先で見てはならぬ光景を見てしまった。


 ――魔物の屍が転がる大地で並び立つザグレスとルヴァンの姿を。


 聞いてはならぬ会話を聞いてしまった。


 ――悪戯では済まされない悪魔のような策謀を。


 全てを聞いたわけではない。

 風に乗って聞こえてきたのはあくまでも途切れ途切れになった二人の声だけだった。


 しかし、言葉の欠片をパズルのように嵌め込み、繋げていけば、半ば必然と理解できてしまう。


「……っ」


 怒りの感情が沸くよりも先に恐怖が押し寄せる。

 今、このタイミングで自分の存在に気付かれてしまえば殺されると確信に至っていたからだ。


 極限まで気配を殺し、足音を消し、一歩、二歩と後退っていく。

 目を離すことはできなかった。二人から目を離し、背を向けることに秘書の女性は恐怖していた。


 呼吸が浅く激しくなる。

 心臓の鼓動が限界まで加速し、脳内ではけたたましい警鐘が鳴り響いて止まらない。


 それでも懸命に足を動かしていく。

 がくがくと震える足に力を込め、一歩一歩慎重に、そして着実に後ろへ後ろへと下がっていく。


 が、突如として膝から下の力が入らなくなり、赤黒い大地の上で転んでしまう。


「……ぇ?」


 突然の出来事に頭が追いつかず、間抜けな声を上げた。

 秘書の女性は立ち上がろうと両手を地面につくが、何故か立ち上がれず、また大地の上でうつ伏せになって転んだ。


 そして――気付く。


 赤黒い大地がおびただしい量の血を吸い始めていることに。

 ぐちょりとした感触が手のひらから、全身から伝わってくる。


「……あれ? ……あれ?」


 血で真っ赤に染まり、砂まみれになった自分の手のひらを見つめ、困惑の声を上げる。

 ザグレスとルヴァンに見つからないようにしていたことなど頭の中からすっかり消えてしまっていた。

 そんなことよりも、ことに気を取られていた。


「ぇ……私の、脚……」


 そむけ続けていた目を自分の脚に向ける。

 綺麗に寸断された脚からは血が噴き出していた。

 直後、声にならない激痛が秘書の女性を襲う。

 脳が理解した瞬間、痛みを認知してしまったのだ。


「ぃや……いあ゙あ゙あ゙あああぁぁぁ!!!」


 身体を丸め、じたばたと転げ回る。

 その間にも血は流れ続け、生命力を零していく。


 女性は傷を治療する術を持っていなかった。

 それでも応急処置として傷口を土系統魔法で固め塞ぐために脂汗を流しながら朦朧としてきた頭で懸命に魔法を構築しようと試みる。


 視界が滲む。意識が遠のきそうになっていた。

 そんな中、ふと女性の頭上に影が落ちる。


「……ぁ、なたは――」


 翡翠色の目と目が合う。

 長い耳に、エメラルドの長い髪を後ろで束ねた女性――ソニスが秘書の女性を見下ろしていた。


 ソニスの手には妖しく輝く巨大な鎌が握られていた。


「……ぁ」


 大鎌が振り下ろされる瞬間をただ呆然と眺める。


 気が付けば空を見上げ、そしてゴトッと鈍い音をたて――女性は頭部を失った自分の身体をぼんやりと見つめ、意識を永遠に続く闇の中に落としたのであった。


――――――――


 あまりにも現実味を失った光景を目の当たりにしてセフォンは呼吸を止めてしまう。

 吐き気を催しそうになるほどの絶望に、脳が理解することを拒絶する。


 それでも絶望は――魔物は砂煙を巻き上げ、迫ってくる。

 点のように小さかった影が時間の経過と共にその存在感を増し、やがて無数の点が重なり合い、一つの波のようにセフォンのもとに押し迫っていく。


「に、逃げて……!」


 掠れ掠れの声を上げるだけで精一杯だった。

 しかしその声は小さく、当然のように『不浄の母』と今もなお戦い続けている六人の炎竜族たちのもとには届かない。


 いや、届いたところでどうしようもなかっただろう。

 既に多くの魔物に囲まれているのだ。ここから脱出するだけでも多くの困難が待ち受けている。

 それに子を産み続ける『不浄の母』をこのまま放置すれば、取り返しのつかないことになりかねない。

 そして災禍が波及していき、結界を破壊し、いずれ『四竜の宮殿エレメンツ・パレス』を呑み込むであろうことは容易に想像がついてしまう。


 結界が破壊されてしまえば、如何にこの地に優れた竜族が揃っていようとも『四竜の宮殿』を守り抜くことは困難を極める。

 つまるところ『四竜の宮殿』を守り抜くには結界が崩壊するよりも先に魔物を全て殲滅しなければならない。最低でも魔物を引き付け、押し留めておかなければならなかった。


 思考まで絶望に塗りつぶされようとしていたその時、赤い一筋の閃光が絶望していたセフォンの真横に降り立つ。


「私を手足のようにお使いください」


 全身から赤い光の粒子を迸らせた執事服の男がセフォンにそう進言する。


 セフォンの声が届いたわけではない。

 より深い絶望が迫っていることに『不浄の母』と死闘を繰り広げながらも素早く察知し、わざわざ駆けつけてきたのだ。


 心強いと感じさせる執事服の男の言葉に、セフォンの心に僅かな希望の光が灯る。一歩踏み出す勇気を与えた。

 乱れていた呼吸を整え、冷静な思考を取り戻す。

 魔物との戦闘は得意分野ではないが、その聡明な頭脳を限界まで回転させ、突破口を見出す。


「……持久戦に移行しましょう。あの母なる魔物を相手にしながら援軍が来るまで持ち堪えるしか道はありません」


 セフォンは魔物の殲滅を諦め、耐えることを選んだ。

 炎竜族の六人数は既に満身創痍。ここまで『不浄の母』を相手に決定打を与えられないままずるすると消耗を強いられてしまっているのが現状だ。

 今になって都合良く逆転の一手が炸裂することはまずあり得ないし、期待することもできない。

 ならば極力消耗を抑え、持久戦に持ち込みつつ援軍を期待する方が余程理に適っていると言えるだろう。


 セフォンの計算通りに事が推移すれば、じきにザグレスが到着する。仮に何らかのアクシデントがあって到着が遅れるにしろ、自分たちと同様に魔物の対処に向かった別の竜族の援軍が来るかもしれない。

 それに不幸中の幸いと言うべきか、『不浄の母』も決定打という部分においては同様に欠いている。炎竜族たちが苦戦を強いられながらも何とか持ち堪えていられるのがその証拠だ。


 無論、懸念点がないと言えば嘘になる。

 だがそれでも、勝算のない戦いに身を置き、やがて訪れる死を待つよりも、消耗を押さえた持久戦に持ち込んだ方が生き残る可能性は高いとセフォンはそう結論付けたのであった。


「承知致しました。一度、皆に伝えて参ります」


「ええ、お願いします」


 異論が出て来なかったことに内心で安堵しながら、再び赤い閃光となって飛翔した執事服の男をセフォンは遠い目で見送った。


――――――――


 『不浄の母』はその根底にある魂に刻み込まれた本能の赴くがままに不確定な未来をじっと待ち続けていた。


 大樹のような太く巨大な躯が傷つけられようが、灼かれようが、斬られ、刺され、殴打され、穿たれ、砕かれようが、再生と繁殖を繰り返し続ける。


 何故ならば『不浄の母』は魔物として、種として、そして母体として、この世界に顕現したからだ。


 子である異形の魔物とは異なり、四肢が酷く退化しているため、攻撃能力はその禍々しい外見に反して然程高くない。精々、再生時と繁殖時に射出される、全身を覆っている針が無作為に放たれるだけ。


 高い攻撃能力を持たない『不浄の母』はただただ耐え続けた。母体としての役割を果たすその時を待ち続けた。


 再生し、子を産み、再生し、子を産み――何度も何度も何度も繰り返す繰り返す繰り返す……。


 そして――数千を超えた試行錯誤の末、ついに希望の種が花を咲かせた。


 大地に突き刺さった針金を突き破り、新たな子が産まれる。

 それは通常の個体とは異なる色をしていた。

 本来であれば赤くあるはずの単眼が僅かに黒ずみ、禍々しい深紅に。その身体も通常であれば黒い皮膚に針金のような毛を生やしているのに、ソレは毛を失い、赤い皮膚を剥き出しにしていた。


 『不浄の母』は子の突然変異を待っていたのだ。

 種としての限界を超越した突然変異――すなわち、進化を遂げた特殊個体を産むために、ひたすら子を産み続けていたのである。


 産まれたばかりのをソレは発達した知能から危険を素早く察知し、屍の山の中に隠れることで息を潜めた。


 未熟な身体を成長させる時を稼ぐために。

 空っぽの器に魔力を蓄えるために。


 ソレは同胞の屍に埋まり、その隙間から深紅の単眼を不気味に動かし、母を虐げる外敵を観察する――。

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