第769話 心の準備
プリュイがシレーヌさんに直談判した日から既に十日が経過していた。
あの日以降、プリュイは一度も屋敷を訪ねて来ていない。
今頃、俺たちの預かり知らぬところでプリュイは『
意気揚々と途中経過を知らせてこないあたりからして、交渉が難航しているのかもしれないが、残念なことに俺たちにできることは何もない。
今回ばかりはあくまでも水竜族の中だけの問題であり、俺たちが介入できる余地はないのだ。精々上手くいくように祈ることしかできなかった。
ここ最近、姿を見せなかったのはリーナも同じだった。とはいえ、リーナの場合は少し事情が異なる。
二カ国を繋ぐ転移門を設置したことによって、ラバール王国とマギア王国の同盟関係がより強固となり、密に連絡を取り合うようになったことで多忙を極めているのが大きな要因となっていた。
ラバール王国とマギア王国を行き来するという点に於いては以前と然程変わらない生活ではあるが、息抜きとして俺たちの屋敷に来られるほどの時間まではどうやら取れないらしい。
若干の寂しさを感じてしまうが、こればかりは仕方がないだろう。
リーナは女王という立場上、マギア王国のために身を粉にして朝から晩まで外交と内政に奔走しなければならない。
信頼できる者が増えていけばリーナの仕事も徐々に減っていくのだろうが、敗戦したばかりのマギア王国にはまだ秩序というものが欠けてしまっている。
とりわけ貴族に関する問題を多く抱えてしまっているため、今現在の段階では女王であるリーナが陣頭指揮を取り、国全体を取り纏めていかなければならない。
領地の再編成や、戦時中に王家に忠誠を誓わず裏切った貴族の粛清や爵位の剥奪など、やるべきことがまだまだ残っているとのこと。
そしてそれらに加え、『竜王の集い』に参加できるように仕事を前倒しにしているのだ。息抜きをする時間さえ今のリーナには存在しないのだろう。
寝ぼけ眼を擦りながらベッドから身体を起こし、いつも通り軽く身だしなみを整え、食堂へ向かう。
あまり力の入らない足取りで階段を下り、廊下を進み、食堂の扉を開けて中に入る。
「おはよう、こうすけ」
パンを片手にディアが俺を出迎えてくれる。
「ふぁ〜……おはよう、ディア」
欠伸を噛み殺せずに腑抜けた声で返事をしてしまったが、ディアは気にする素振りを見せずに眩しい笑顔を向けてくる。
見た者を一瞬で虜にするディアの笑顔でようやく活が入った俺は、いつも通りディアの隣の席に腰を降ろし、マリーが運んでくれた朝食に手を伸ばす。
今日のメニューはバターがふんだんに使われた柔らかなロールパンに、カリカリのベーコンと色とりどりの野菜で飾られたサラダとコーンスープ、そしてメインに白身魚のムニエルだ。
余談だが、今出てきた白身魚はプリュイとの舟旅で釣った時の魚である。調理された今ではとても美味しそうな料理に仕上がっているが、調理前の魚の姿は凶悪な魔物そのもの。本当に食べられるのか不安になるほどの見た目をしていたこともあって、ナタリーさんに捌くようにお願いした時には頬を引き攣らせて何とも言い難い表情をしていたのが未だに印象に残っている。
だが、実際に食してみると、あら不思議。
大型の魚ということもあって小骨はなく、油の乗ったその白身は市場に出回っているどの魚よりも美味だったのだ。
今ではすっかりと定番となり、よく食卓に並ぶ食材の一つとなっている。
獲りすぎたことも定番化した大きな理由なのだが、結果的に美味しかったので良しとしよう。
ディアと他愛もない雑談を交えつつ、食卓に並んだ料理をお腹の中に収めていく。
お皿の上に残った料理も残り僅か。俺よりも一足先に食堂にいたディアは既に食べ終え、食後の紅茶を楽しんでいる。
「そう言えば……フラム、遅いね。どうしたんだろう?」
「まだ寝てるんじゃないか? 今日は特にこれといった予定もないし」
と、ちょうどディアとそんな話をしながら『
食堂の扉が音を立てずにゆっくりと開き、身だしなみを完璧に整えたフラムが姿を見せる。いや、身だしなみを整えたというレベルではない。旅支度を整えたといった方が適切だろうか。
人一人入りそうなほどの大きな麻袋を背負っており、服装も普段屋敷にいる時のラフ過ぎるものではなく、動きやすさを重視した冒険者仕様になっていた。
「「???」」
やけに気合いの入ったフラムの姿に、俺とディアが目を点にして互いを見つめ合っていると、フラムは麻袋を床に置き、食卓につく。
「マリーよ、私は肉で頼むぞ」
「わかったですっ」
何事もなかったかのようにマリーに朝食を注文するフラム。
しかし、心なしか少しフラムのテンションが高いような気がするのは気の所為だろうか。
「ええっと……おはよう?」
言葉を選んだ末にディアは首を傾げながら単調な挨拶を口にする。
対するフラムの返事は俺とディアの頭の中にはなかった、あまりにも唐突過ぎる内容だった。
「『次元門』の準備がようやく終わったらしくてな、昼には屋敷を出るぞ。準備をしておいてくれ」
「「……」」
決定事項を告げるようなフラムの言葉に、俺とディアは再度目を点にして言葉を失う。
そして、呆気に取られていた俺たちを置き去りにしてフラムは言葉を続けた。
「着替えは多めに持っていった方がいいぞ。向こうじゃ気軽に服を買いに行くことは難しいだろうし、店に行っても品揃えが微妙だからな。ああ、あとは装備類と……食料も少しは持っていった方がいいか。向こうの料理が舌に合わないということはないとは思うが、念には念を入れて――」
饒舌に注意事項を語っていくフラムの声で、ようやく我を取り戻した俺は手のひらを突き出して待ったをかける。
「――ちょっ、ちょっと待ってほしい。着替え? 食料? っていうか、その前に昼頃ってまさか今日の昼??」
「?? そうだが?」
あまりにも急過ぎる展開にまた頭が混乱しそうになる。
確かにフラムは明確な日時を伝えてこなかったとはいえ、一週間以上前から『次元門』を使用して炎竜族の国に向かうと言っていた。
しかし、明日や明後日ならまだしも、いきなり今日と言われても流石に困ってしまう。
準備諸々もそうだが、何よりまだ心の準備――覚悟が決まっていない。
俺たちが向かう場所は前人未到の地――炎竜族の国。
ラバール王国の外に行くだけでも相応の準備とそれなりの覚悟が必要だと言うのに、人類が一度として足を踏み入れたことのない炎竜族の国に旅行気分で気軽に行けるわけがない。
ましてや、竜族という種族は根底的な部分で人間を見下している、下等生物だと認識しているのだ。
そんな竜族が住まう国に人間である俺が、しかも
そして元神とはいえ、今は人間として生きているディアも俺と同様の危機感を抱いているのか、眉をハの字にして困惑した声を上げる。
「いきなりわたしたちが行って、本当に大丈夫なの……?」
ディアの言葉に同意する形で俺も真剣な面持ちで頷く。
不安、困惑、疑念。
様々な負の感情がない交ぜになった表情をする俺とディア。
が、その一方でフラムの顔には自信が満ちていた。何も心配するなと言わんばかりに笑い飛ばし、その身に覇気を纏わせた。
「ははっ、主もディアもくだらない心配をしているみたいだな。私が国に戻った理由を忘れたか? 私が何者なのか忘れたか? そう……私が王だ。火を司る竜族を統べる者――炎竜王フラムだ」
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