第767話 間抜け
冷たく微笑むシレーヌさんの目に俺は映っていない。
その瞳は海のように蒼く透明でありながら、底しれぬ恐怖を抱かせる。
「ははははは、母上……!?」
目を見開き、背筋をぞくりと震わせるプリュイ。
その反応を見ただけでプリュイがシレーヌさんを苦手としていることは一目でわかる。
シレーヌさんの纏う雰囲気は明らかに常人のそれとは違った。大柄というわけでもなく、かといってそこまで威圧的というほどでもない。にもかかわらず、本能がシレーヌさんに恐怖を抱いてしまうのは、その決して大きくはない身体から強大な力を感じるからだろう。
ややあって、ようやくシレーヌさんの蒼い瞳が俺を捉える。
「あら、貴方は確か……コースケさんだったかしら?」
俺という存在に今になって気付いたのか、シレーヌさんは記憶を掘り起こすかのように悩ましい表情を一瞬浮かべると、すぐさまその端正な顔に満面の笑みを咲かせた。
「お久しぶりです、シレーヌさん。お会いしたのはマギア王国での一件以来でしょうか」
「ええ、そうですね」
自然と引き締まった表情と口調になった俺は軽く会釈をして挨拶を済ませる。
これまで数々の王族や貴族、竜族と出会ってきたが、これほど緊張したのは初めてかもしれない。しかも、初対面というわけでもないにもかかわらず、だ。
許可なく勝手にゲートを設置しようとしていた後ろめたさも相まって、気まずさが加速していた。
俺たちの間に流れる空気が、そこでピタリと氷のように冷たく固まる。
ぎこちない笑みを貼り付ける俺と、ニコニコと笑顔の花を咲かせるシレーヌさん、そしてくるくると目を回すプリュイ。三者三様の反応を示していた。
固まった空気を打ち破るようにシレーヌさんが桜色の薄い唇を動かす。
「歪な空間の変動を察知して駆け付けたのですが……まさかこのような辺境の海でコースケさんと再会することになるとは夢にも思っていませんでした。――ねえ? プリュイ」
どうやらシレーヌさんは、俺がここにいる理由にある程度見当をつけているらしい。
愛想良く微笑みながらプリュイを問い詰めているのが、その何よりの証拠だろう。
そして蛇に睨まれた蛙のようになっていたプリュイは……というと、弁解するでもなく否定するでもなく、間接的に自分が犯人だと認めるような発言をする。
「ななな、何故気付かれたのだ!? ここは外と中の境界線……目視されたのならまだしも、海底深くにある水竜族の国から妾たちの気配を察せられるわけが……」
口を開けば開くほどボロを出すプリュイを見て、つい頭を抱えたくなってしまう。
どうもプリュイの口振りからして、この辺りには水竜族の国と外界の海を隔てる結界のようなものが張られているらしい。
どうりで海の様子が違うわけだ。あれほど跋扈していた魔物の姿が、途端に綺麗さっぱり消えたのも結界のおかげだと考えれば腑に落ちるというもの。
他にプリュイの失言――もとい発言で気になったのは水竜族の国が海底にあることだろうか。
陸から切り離された海の中。その深くに水竜族の国が隠されていたのだから、今まで水竜族の国が人間に見つからなかったのも納得がいく。
造船技術がそれほど発展していなかったのも、この場所が未発見のままになっていた要因の一つだろう。とはいえ、もし仮に技術が発展し、戦艦のような物を造れるようになったとしても、ここまで辿り着けるかどうかは疑問が残る。
海の中を自由自在に動く強力な魔物の数々を薙ぎ倒し、かつ水竜族の目を掻い潜らなければならないのだ。その難易度は想像もつかないほど困難極まりないものとなるだろう。
驚愕と困惑に脳が支配されたプリュイの問いに、シレーヌさんはほとほと呆れるように小さく息を吐くと、答え合わせをした。
「自分の娘のことながら、教育が足りていなかったのかもしれませんね……。この海に結界を施したのは他の誰でもなく、わたくしなのですよ。結界内に異変が生じていながら、それに気付かないほどわたくしは愚かではありません」
「……あっ」
プリュイの口から間抜けな声が上がった。
今になってようやく思い出したといったふうに口をぽっかりと開け、顔を蒼白させている。
最悪なことに俺は泥舟に乗っていたようだ。
計画は行き当りばったりの穴だらけ。しかもシレーヌさんに見つかってしまう始末。
ここまでの航海もそれなりに大変だったが、どうやらそれ以上の困難が今から始まるようだ。
引き攣る頬、痛む頭、焼ける胸。
今すぐにでも帰りたい気持ちでいっぱいになっているが、そうはいかないだろう。
水竜族にどのような法があるのかは知らないが、客観的に見れば俺は許可なく入国しようとしていた不届き者。
然るべき罰を与えようとシレーヌさんが考えているかもしれない中、踵を返してとんずらする訳にはいかないし、もしそんなことをすれば、水竜族との間に決定的な溝が生まれてしまう恐れがある。
ただでさえ、ここ最近はフラムにおんぶに抱っこしてもらっているのだ。これ以上、フラムに迷惑を掛けるようなことだけは絶対に避けなければならない。
何とかして誤解を解き、事情を話さなければ。
その一心で、俺は固まりかけていた口を懸命に動かす。
「急な来訪をお許しください。言い訳に聞こえてしまうかもしれませんが、何分時間がなかったので……」
頭をフル回転させ、短時間で俺が導き出した答えは、忍び込んだのではなく、あくまでも予定した上でここを訪ねたという苦し紛れの言い訳だった。
「!?」
勢い良く首を捻って俺を見つめてくるプリュイに、俺はキッと睨み付けて視線だけで口を封じる。
プリュイが口を開けば開くほどボロが出てしまう。であれば、最初からプリュイには黙ってもらい、嫌々ながらも俺が対処した方が何かと上手くいくだろうという判断だった。
何で俺がここまでしないといけないのかという思いはありつつも、背に腹は代えられない。この窮地を脱するべく、俺は最善を尽くす。
「来訪、ですか……」
俺の言葉が届いたのか、シレーヌさんの表情に僅かな迷いと疑問が浮かぶ。そして、日焼けを知らない真っ白な人差し指を口元に運び、シレーヌさんは頭を悩ませる。
それは隙であり、今の追い詰められた俺たちの状況を一転させる絶好の機会でもあった。
逆転無罪を勝ち取るには今しかない。
俺はシレーヌさんに考える猶予を与えず、捲し立てるように言葉を並べ立てる。
「ええ。実はフラムから言伝を預かったプリュイから送迎を頼まれたのです。私が持つ特殊な力……ゲートを使えば、遠く離れたこの海から元いた場所へと一瞬で戻ることができる。故に、私に白羽の矢が立ったのでしょう。事実、移動に関して言えば、私以上の適任者はいないかと。先ほども申しましたが、あまり時間がありません。許可なく立ち入ってしまったことは大変申し訳なく思っていますが、何卒ご理解頂きたく――」
自分でも驚くほどスラスラと言い訳が出てきた。
追い詰められたことでアドリブ力が覚醒したのかもしれない。
が、残念なことに肝心のプリュイが全く話についていけてなかった。目を瞬かせ、首を傾げている。
救いがあるとすれば、俺の話を頭の中で整理していたシレーヌさんが、プリュイの様子に気付いていなかったことだろう。
それから固唾を呑んでシレーヌさんからの返答を待つこと一分。
悩ましそうに眉を顰めていたシレーヌさんは、何かを決心したかのように真剣で真っ直ぐとした眼差しを俺に向けると、全く予想だにしていなかった発言をした。
「――わかりました。お時間がないということならば、わたくしが直接フラム様のもとに赴きましょう。そちらにあるゲートを使って」
「……えっ?」
今日一番の間抜けな声が、俺から上がったのだった。
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