第766話 舟の終着点
プリュイと海に出て、三日が経過しようとしていた。
繰り返される海の魔物たちの狂想曲、休まることのない時間。しかし、それもいよいよ終わりを迎えようとしているらしい。
つい先ほどまで、あれほど荒れ狂っていた海が途端に静けさに包まれ、どんよりと曇っていた空模様も今では雲一つない蒼天が顔を見せている。そこかしこにあった流氷も綺麗さっぱりその姿を消し、眼の前に広がる光景は俺が当初想像していた穏やかな海をそっくりそのまま体現していた。
爆速で進んでいた舟の勢いが徐々に落ち着き、動力を失った舟は暫くすると何もない海上で静かに止まった。
小波だけが度々緩やかに舟を揺らす。荒れ狂う海を体験してきた俺はその小さな揺れに揺り籠のような心地よさすら感じていた。
「あれだけ俺たちを追ってきていた魔物の気配が急になくなった――いや、魔物たちが慌てて逃げ出したと言うべきかな」
舟の上で胡座をかいていた俺は改めて周囲を見渡すが、やはりここら一帯には不気味なくらいに命の気配がどこにも見当たらない。
まるでこの海だけが、この世界から切り取られたかのような不思議な感覚を抱く。
「ここから先は妾たち水竜族の海。いくら知能の低い魔物とて、本能でこの場所には近づけぬ」
そう言ったプリュイは眼の前に広がる青い海をぼんやりと見つめていた。普段の喧しさは消え、どことなくプリュイから儚さと気品のようなものを感じる。
「コースケよ、ここからはあまり騒がしくするなよ? 一族の者たちに気付かれでもしたら面倒なことになる」
騒がしくしていたのは一体どっちだ、というツッコミを何とか引っ込め、俺は眉を顰める。
「面倒なことって……。プリュイはこれでも
「これでもって何だっ! これでも、って! 妾は正統な次期水竜王なのだぞ!?」
俺の言葉をきっかけに、一人ヒートアップするプリュイ。
騒がしくするなと言っておきながらこの始末。運が良いのか、これだけ怒鳴り散らかしていても俺たちに近付く気配はなかった。
「ったく……。良いか? 妾たちの存在に気付かれて困るのはコースケなんだぞ? 自分の命が惜しいなら静かにしておけっ」
「……」
まるで他人事のように言ってくるが、誰のせいでここまで来たと思っているのか。プリュイにはもう少し危機感を持ってもらわなければ困る。本当に本当に困る。
一度咳払いをし、プリュイが真面目な顔を作って言う。
「今一度言っておく。妾たち水竜族は掟によって人間を殺めることは基本的にはない――が、掟には例外もあるのだ。妾たちに危害を加えようとする者や、許可なく我ら水竜族の国に足を踏み入れようとした者……それらに対して掟が適用されることはない」
「いやいや、初耳なんだけど!?」
既に一度伝えた風に言っているが、完全に初耳だ。
初めからそんな物騒で、危険極まりないことを知らされていたら、のこのことプリュイについていくことはなかっただろう。
プリュイに対する若干の申し訳なさと気まずさ――つまるところ、引け目を感じてしまったが故に手伝うことにしたが、命を賭けられるほどではない。
いよいよ本格的に逃げ出すことを検討した方がいいだろう。
一度脱走に失敗したが、同じ轍を踏むつもりはない。侮らず、油断せずに全力を出せば逃げ切れるだろう。
逃走計画を練っていた俺に、プリュイがジト目を向けてくる。
どうやら思惑が顔に出てしまっていたようだ。ジト目のままプリュイが釘を刺してくる。
「今さら逃げ出そうとしたって無駄だからな。もしここで転移を使おうものなら、不自然な空間の歪みを察知してすぐに一族の者たちが駆けつけてくるだろう。さあて、この陸のない広い海で水を司る我々水竜族から逃げ切れるかな?」
「……卑怯者め」
プリュイの汚い手口に、俺はボソッと悪口を吐くことしかできなかった。
とどのつまり、俺は詰んでいるらしい。
進むも地獄引くも地獄。強者揃いの水竜族との鬼ごっこなんて考えるだけでも吐きそうになる。であれば、ここはもう大人しくプリュイに従った方が、まだ丸く収まりそうだ。
切り札であるフラム召喚も考えたには考えたが、最悪の場合、フラムVS水竜族の竜族大決戦が始まってしまうかもしれない。俺がそのきっかけになってしまうなんてことを考えると、下手にフラムを呼び出すことはできなかった。
大きな大きな嘆息をもらし、俺は降参と言わんばかりに両手を上げる。
プリュイが憎たらしく口の端を上げたことに少し苛立つが、それ以上の脱力感に襲われ、どうでもよくなっていた。
「で、そろそろいい加減に俺をここに連れてきた理由を説明してくれないか?」
一見、平和な大海原だが、ここは水竜族の国の近く。一秒でも早く用事を済ませなければならないとの判断の下、俺はさっさとプリュイの目的を引き出そうと催促する。
すると、プリュイはそれまでの憎たらしい表情を一変させ、真面目な顔をして言う。
「コースケを連れてきた理由は他でもない。この辺りにゲートを作ってほしいのだ」
やっぱりか、というのが最初に抱いた感想だ。
屋敷にいた他の誰でもなく、プリュイが俺を指名してきた時から薄々察していた。
ただ腕っぷしが強い者であれば、頼み事を受けてくれるかどうかは別としてフラムを連れてくればいい。魔法に関して言えば、ディアだって申し分ないほどの実力者だ。
にもかかわらず、プリュイは俺を指名してきた。しかも俺だけ。ともなれば、その理由は自然に見えてくる。
フラムほどの強さはなく、かといってディアほど魔法に長けているわけではない。そんな俺に頼み事があるとすれば、それはゲートの設置くらいなものだ。
プリュイが、リーナの『
数日間、プリュイが俺たちの屋敷に来なかったのも頭を悩ませていたからだろう。
悩みに悩み、そして彼女が導き出した答え。それが俺を誘拐し、ゲートを設置させることとは流石に思い至らなかったが、強引過ぎる部分こそあるとはいえ、リーナを取り巻く環境や状況を思えば、それなりに妥当な答えだとも思える。
「リーナのためってことか」
「う、うむ。妾とてリーナに時間がないことくらいはわかっている。そう何日も連れ出すわけにはいかないとな」
目を逸らし、少し照れ臭そうに答えるプリュイ。
リーナと愛称で呼んでいたことからも、二人が良好な関係――深い友情を築いていることは間違いなさそうだ。
まさかプリュイがここまで他人に配慮できるとは欠片も思っていなかったが、そういう理由があったならば、ひと肌脱ぐのもやぶさかではない。
気分一新、晴れ晴れと温かな気持ちになった俺はからかうような笑みを小さく浮かべ、自分の胸をコツンと叩いた。
「そういうことなら任せてくれ。ちゃちゃっとゲートを設置しちゃおうか」
「――ぇ……うむっ!」
一瞬、呆けたような顔をしたプリュイだったが、俺の言葉を理解したのか、すぐさま満面の笑顔を咲かせ、頷き返したのであった。
それから俺たちはまずゲートの設置場所を考えることにした。
来た道を戻るように舟を数分漕ぎ、水竜族のテリトリーの最南端に移動。近くに魔物はおらず、かつ水竜族に気づかれ難いとのお墨付きをプリュイから貰い、ゲートの設置場所を決定する。
海上にゲートを設置することもできたが、それではゲートを通ってすぐに海に落下してしまうため、足場は必須という結論に至り、足場作りから着手することに。
足場作りは数分もかからず、プリュイが終わらせた。
海の一部を凍らせ、簡易的な足場を作ったのである。そこからもう一手間加え、ゲートを隠すために壁と屋根まで設置。
不規則な形で造られたそれは一見すると、海を漂う氷の塊にしか見えない。ただし、この辺りには氷の塊どころか小さな流氷一つ見当たらないため、明らかに目立ってしまっているが、そこは仕方がないと割り切るしかなかった。
とはいえ、プリュイが言うには問題ないとのこと。
その言葉を聞いて安心した俺はそそくさとゲートの設置に取り掛かる。
「万が一があると怖いし、ここのゲートは普段プリュイが使ってるゲートとだけ繋がるようにしておくけど、それでいいか?」
「構わん。まあ、このゲートのことは直に父上と母上に伝えて、立ち入りを禁じるつもりだし、万が一はないと思――」
と、相談をしていた、その時だった。
突如として海上に強大な力を持つ気配が現れたのは。
その気配に気付いたのは俺だけではなかった。
プリュイは膨れ上がったその気配を察知した瞬間に口を閉ざし、氷の塊の中から飛び出す。俺もゲートの設置を取りやめ、その背中を追い掛ける。
それは、すぐそこに顕現しようとしていた。
海が――水が人の形を模すようにその形を変え、やがてマリンブルーの髪を肩口で切り揃えた、見目麗しい妙齢の女性が現れる。
俺はその女性を知っていた。
プリュイと同じ髪色を持つ、圧倒的強者の名を。
「――あらあら。こんなところで何をやっているのかしら?」
《氷零の魔女》という二つ名を持つプリュイの母親――シレーヌさんは、氷のような冷たい笑みをプリュイに向けたのであった。
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