第749話 空っぽの鍋

 ツギハギだらけの天井が視界の中に飛び込んでくる。

 クレールが人化に至ったことで余った空間を利用するため、レイジが不器用ながらも改修して完成させた二階部分にあたる天井だ。


 朦朧とする意識の中、兄の苦労が垣間見える良く知る天井を見て、クレールは安心感に包まれる。


「ん? やっと起きたか?」


 そんな聞き慣れない声とほぼ同時に、仰向けになっていたクレールの視界の中にスプーンを咥えたフラムの姿が飛び込んでくる。


 ぱちぱちと瞬きを繰り返す。

 失神する前の記憶が鮮明に蘇ってくる。


「……わ、わ、わ」


 顎ががくがくと震え、クレールの口から言葉にならない声が漏れ出る。

 混乱のあまり目をくるくると回し、クレールは現実逃避から両手で自分の顔を覆い隠す。

 チラリと指の隙間から改めてフラムの顔を覗き見るが、どこをどうみても彼女の記憶の中にある炎竜王ファイア・ロードその方だった。


 クレールは深呼吸を繰り返し呼吸を整えた後、意を決して鉛のように重くなったその口を恐る恐る動かす。


「……フラム様、でしょうか?」


「ん? そうだが?」


 あまりにもあっさりとしたフラムからの返事に、クレールは呆然とする。

 何故自分の家にあの炎竜王がいるのか、何故シチューを食べているのか、まるで理解が追いつかない。


 今わかることは一つだけ。何をどうしたらこうなったのかわからないが、フラムとイグニスを連れてきたのが自分の兄――レイジであるということだけだった。


 クレールは緩慢な動きで上半身を起こし、こうなった経緯を知っているであろうレイジに向けて困惑の眼差しを、救いの眼差しを向ける。


 レイジはその眼差しの意味を素早く察した。だが、残念なことに彼自身にできることは何もない。

 引き攣った笑みを浮かべながら、緊張のあまり味がしない好物のシチューを黙々と口に運ぶことしかできなかった。


「そんなぁ……」


 頼りになるはずのレイジに見放され、クレールの瞳に大粒の涙が浮かぶ。

 元々、クレールは引っ込み思案で臆病な少女だ。

 強気に出られるのは兄であるレイジと二人きりの時だけ。外を出歩く際には必ずレイジに付いて来てもらわなければ、怖くて一人で外も出歩けないほど臆病な性格をしていた。

 そんな性格の彼女にとって、今の状況が到底受け入れ難いものであることは言うまでもない。

 畏敬すべき炎竜王とその右腕であるイグニスが家に来たという非現実的な異常事態に何故か直面してしまった。そして、頼りになるはずの兄の様子もどこかおかしい。

 彼女の知る普段の兄であれば、たとえ相手が炎竜王だろうが、その身を呈して自分を守ってくれるはず。

 なのにレイジは申し訳無さそうな顔をするだけで手を差し伸べてくれない。


 そして、クレールは気付いてしまう。スプーンを握るレイジの右手が赤く腫れていることに。


「まままま、まさか……」


 顔から血の気が引いていく。

 クレールの明晰な頭脳が、フラムとイグニスがここに来た理由を弾き出す。


 次の瞬間、クレールは両手と頭を床につけ、土下座していた。

 極限まで緊張した身体がぶるぶると震え、心臓の鼓動が加速する。

 激しい吐き気と動悸に苦しみながらも、クレールは必死に言葉を吐き出した。


「あ、兄はどうしようもないほど馬鹿で鈍感で……それでも決して悪気があったわけではないと思いますっ。フラム様、そしてイグニス様、何卒、何卒私たち兄妹にご慈悲を……。許されるのであれば、私の命だけで兄の罪を帳消しにしてはいただけないでしょうか……」


 クレールの聡明な頭脳が導き出した答えは半ば正解に辿り着いていた。

 日夜喧嘩や決闘に明け暮れていたレイジ。『炎竜王を目指す』という馬鹿げた夢を、クレールは毎日のようにレイジから聞かされていた。

 壮大な夢を掲げているだけあって、確かに兄は強い。しかし、それはあくまで外縁部に住む者に限られた話であり、強者揃いの炎竜族の中では良くても上の下。それがクレールが客観的に下していたレイジへの評価である。

 それでもクレールはレイジの夢を笑うことはなかった。兄ならば遠い将来、炎竜王になれるのではないかという淡い期待と応援さえしていた。


 だが、失敗だった。それは間違いだった。

 青天の霹靂とはまさにこのこと。まさか自分の兄が無謀にも炎竜王であるフラムに決闘をけしかけるとは思いもしていなかったのだ。


 唯一、炎竜王と正式な決闘が行える『王の宴』が開かれたという情報はクレールの耳には入って来ていない。

 ともすれば、レイジが『王の宴』を経ずに決闘を仕掛けたのは明白。

 数少ない炎竜族の掟を破ってしまったことを否定できる材料はどこにも存在しないどころか、掟を破った証拠ばかりがこの場には整っている。


 故に、クレールは躊躇うことなく竜族に於ける最大級の謝罪方法である土下座を選び、実行に移したのだ。

 事実、クレールの推理はほとんど当たっていた。間違いがあるとすれば、レイジが炎竜族たるフラムの顔を知らないほどの大馬鹿だった点と、フラムが決闘を挑まれたことを毛ほども気にしていなかったばかりか、むしろ愉しんでいた点だ。


 そんなことなど露知らず、クレールはその小さな身体を震わせながら、嗚咽を漏らし謝罪を続ける。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 鍋にあったシチューを綺麗さっぱり平らげたフラムは、目の前で土下座をするクレールに戸惑いながら声を掛ける。


「どうして謝られているのだ? 私は」


「……ぇ? だって私の兄がフラム様に失礼を……」


「ああ、なるほどな。軽い手合わせみたいなものはしたが……ふふん、私の圧勝だったぞ」


 自慢するように口の端を吊り上げ、胸を張るフラム。

 そんなフラムの様子は混乱の極みにいたクレールの目には映らず、その言葉だけが頭の中にすっと入っていった。


「ぴゃっ――!?」


 頭を上げたクレールは完全に呼吸を忘れ、そのまま後ろに倒れそうになる。

 この日二度目の気絶をしようとしたクレールを、フラムは腕を伸ばしてその身体をふわりと支えた。


「おい、大丈夫か? 体調が悪いなら私の膝を貸してやらんでもないが」


 その一言でクレールの沈みかけていた意識が急浮上する。


「だだだだ、大丈夫ですっ! 大丈夫ですので!」


 クレールは慌ててフラムに支えられていた身体を起こし、正座のまま背筋をぴんと伸ばす。


「そうか? それなら良いのだが……ああ、それとお前の分のシチューまで食べてしまった、すまん」


「それも大丈夫です……」




 なんとか気絶を免れたクレールはその後、レイジから事の顛末を全て説明され、憤慨していた。


「お兄ちゃんの馬鹿っ、考えなしっ、あんぽんたんっ……」


「うぐっ……返す言葉がねえ……」


 レイジの背中にピッタリと隠れるように張り付きながら、こんこんと罵声を浴びせる。

 そんな兄妹の仲睦まじい光景が繰り広げられ、ようやく空気が弛緩したところでイグニスが声を潜めてフラムに告げる。


「フラム様、夜が更ける前に城にお戻りになられた方がよろしいかと」


「む? もうそんな時間か」


 特に誰かと待ち合わせをしているわけでも、時間を指定したわけでもなかったが、如何に城の主がフラムだろうと、多くの使用人が寝静まった夜遅くに城に戻れば多大な迷惑が掛かってしまう。

 無論、フラムが何時戻って来ても文句を言う者は誰一人として存在しないが、それでも一定の配慮は必要だと言外にイグニスが告げたのである。


 しかし、わざわざこうしてレイジの妹に逢いに来たのだ。

 ただシチューを食べただけになってしまっては折角の出逢いが無駄になってしまう。

 それに何より、美味しいシチューを御馳走になったのだ。礼もせずにこのまま立ち去れば、王としての威厳が損なわれてしまう恐れがある。

 炎竜王という地位に然程固執していないフラムだったが、プライドだけはその心に確かに抱いていた。


「クレールと言ったか?」


 その呼び掛けにクレールは緊張で顔を強張らせながら、しがみついていたレイジの服から手を離し、姿勢を改める。


「……はい。レイジの妹のクレールと申します。ご挨拶が遅れてしまい、誠に申し訳ございません」


「なに、気にするな。それよりも腹は減っていないか?」


「い、いえ、そのようなことは――」


 そう否定しようとした途端、最悪のタイミングでクレールのお腹から『ぐぅ〜』という音が鳴り響く。


「……!?」


 羞恥のあまり顔が真っ赤に染まっていく。

 しかし、それも仕方がないことだろう。クレールはシチューを時間をかけて作りながら兄の帰りを待っていたのだ。にもかかわらず、明日の朝の分まで作っておいたシチューが入った大鍋は空っぽ。

 竜族にしては少食の部類に入るクレールとて、空腹感は覚えるし、生理現象を止めることなどできやしない。

 たとえシチューが残っていたとしても緊張で喉を通らなかっただろうが、それはそれ。もはや言い逃れるのは困難になってしまった。


 可愛げのある反応を露わにしたクレールに、フラムは立ち上がり、何も言わずに近寄ると手を差し伸べた。


 一族の王に手を差し伸べられておいて、拒絶することはできない。

 クレールは白魚のような手を恐る恐る伸ばし、フラムが差し伸ばした手を優しく握り返した。

 すると、フラムはその手を軽々と引っ張り上げ、クレールを抱きかかえるようにして、こう言う。


「これでも私は炎竜族の王だ。王として一飯の恩を返さなければならない。レイジ、そしてシチューを馳走してくれたクレールよ、お前たちを私の城に招待しようではないか」


 フラムの吐息がクレールの耳元をくすぐる。

 元々赤くなっていたクレールの顔がさらに紅潮していき、そしてフラムの言葉を頭の中で噛み砕いていくうちに蒼白となった。


「あわわ、わ……」


 この日、二度目の気絶を先ほど回避したばかりだというのに、結局クレールは気絶し、フラムの腕の中に抱きかかえられた。


「随分と軽いな。これは……相当お腹を空かせているに違いない」


「いや……いやいやいや! たった一食抜いただけで、体重なんてそんな変わらないですって!」


 フラムは問答無用でクレールをお姫様抱っこし、レイジを視線だけで黙らせる。

 こうしてフラムはレイジとクレールを城まで誘拐……もとい、招待したのであった。

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