第748話 真っ白

 竜族において人化とは一種の進化あり、到達点の一つだ。成長の証といってもいい。

 蛹から蝶へ。強き者であれば、当然のように人化へと至ることができる。そこに例外は存在せず、人化というものは全属性の竜族に平等に与えられた権利とも言えるだろう。


 しかし、人化に至るまでの年月は千差万別だ。

 数千年の時を経て人化に至る者もいれば、生まれて僅か数年で人化に至る者も存在する。


 その者が持つ才能によって如実に差が生じるのだ。

 だからといって嘆く者はいない。嘆いていても意味がないからだ。

 才能がなかった。ただそれだけの話であり、誰かに当たり散らかすものではない。人化に至るその時を永遠に等しい時間の中、ただじっと待ち続けるのみ。


 人化に至るための条件は未だに多くが謎に包まれたままだった。

 故に才能の一言で片付けられてしまっているのが現状だ。

 だが、長きに渡る研究と歴史の中で、わかっていることもある。

 それは強さだけが人化に至る条件ではないということ。

 強さとは異なる才能により、竜族は人化へと至る――。


 レイジはフラムから立て続けに投げ掛けられる質問の数々に答え続けていた。


「弱い弱いと言うが、お前の妹はそこまで弱いのか?」


「食料調達のために狩ろうとした魔物に危うく返り討ちにされそうになるくらいには弱いですね」


「それは……難儀だな……」


「性格も性格でして、臆病過ぎるというか、暴力的なことを過度に嫌っているというか……」


 思い出すだけでも顔が引きつりそうになる。

 曲がりなりにもレイジの妹は竜族だ。如何に強力な魔物とて、竜族が生まれながらに持つ基本スペックさえあれば、大抵討ち倒すことができる。


 しかし、レイジの妹は違った。

 普段からレイジに見せる引っ込み思案な性格からも覗えるように、力を行使することを極度に怖がっていた。

 血を見ただけで気を失いそうになったこともある。

 根本的な性格が、暴力的なレイジとは真逆の位置にあったのだ。

 そして、それは性格だけではなかった。

 自分から口にしたことだったが、散々な言われようの妹を庇うかのようにレイジがフォローを入れる。


「でも、妹はオレと違って頭が切れる。それにオレの身の回りの世話や掃除から洗濯まで全部妹がやってくれますし」


「私の顔も知らなかったお前と比べたら、大体の奴が切れ者になるだろ――……ん? 掃除から洗濯だと?」


「……? そうですけど?」


 溜め息混じりにツッコミを入れようとしたフラムだったが、レイジの言葉の中の違和感に気付き、途端に舵を切る。

 家事全般をこなせることを凄いとは思わない。そんなことはフラムだって完璧かどうかは別として、できないことではなかった。

 器用に動かせる手があれば、小回りの利く足があれば誰にだって可能なこと。

 だが、竜族においては、当然が当然ではなくなる。

 それら家事をこなせるということは、すなわち人化ができている証だからだ。


 雑談の種程度の興味しかなかったレイジの妹という存在に、フラムはここに来て初めて好奇心を抱く。

 ただ単に人化ができているからというわけではない。戦闘能力をほぼ持たずに人化に至った珍しい存在だからだった。


 退屈で灰色に見えていた世界に色がつき始める。

 つい歪みそうになる口元を理性で制御し、あたかも雑談の延長線上にあるかのような口振りでレイジに語りかける。


「ふむ、ここでレイジと出逢ったのも何かの縁。お前の妹にも一度くらい会ってみたいものだ。そう言えば、お前の家がどこにあるか聞いてなかったな」


「オレの家はこの先をもう少し進んだ内縁部との境界線近くにありますよ。かなりボロいですけど、内縁部に近いし、何かと便利で――」


 フラムの言葉を社交辞令だと思ったレイジは、何の疑問も持たずに馬鹿正直に自分の家の場所を教える。

 この返答が、兄妹の未来を大きく変えることになろうとは微塵も思わずに。


「――よし、ついでだ、寄っていこうではないか」


 意味がわからないとレイジは瞬きを繰り返す。が、もう遅い。


「……は?」


 この日一番の間抜けな声が、レイジの口から零れ落ちた。




「ちょっ――待ってくれっ! 待ってくださいってば! 本当にオレんちに来るつもりですか!? いきなりフラム様が来たら妹の心臓が止まりますって!!」


 もう何度似たような言葉を繰り返し、投げ掛けただろうか。

 だらだらと冷たい汗を流し、顔面を蒼白にしたレイジは何度も何度もフラムに懇願し続けて来た。

 しかしフラムの足は止まらない。ついでに、にやけ顔も止まらない。

 聞く耳を持たずに、ずんずんとやや早足になって前へ前へと進んでいく。


 やがて、巨大な壁が三人の視界の中に映り込んでくる。

 外縁部と内縁部を隔てる壁――強き者と弱き者を隔てる境界線だった。

 たった一枚の壁でしかないが、如何に竜が翼を持っていようとも、その壁を越えることは簡単なことではない。


 物理的な話ではなく、ましてや掟のような話でもなく、あくまでも感覚的な話だ。

 壁を隔てた向こう側の世界は、外縁部に住む未熟な者にとって魔窟そのもの。

 進化を遂げて人化に至った者ばかりが住んでいるのだ。外縁部に住む者からしてみれば、化け物の巣窟のように見えていた。


 そんな外縁部と内縁部を隔てる壁が徐々に三人の視界の大部分を占めていく中、フラムは全神経を嗅覚に集中させていた。

 レイジに染み付いた匂いを頼りに、レイジの家を特定しようとしていたのだ。

 本来であれば、如何にフラムの嗅覚が優れていようが、視界いっぱいに広がる建築物の群れの中からレイジの家をピンポイントで特定するのは困難だっただろう。


 しかし、フラムは見つけた。

 竜の姿では発し得ない皮脂の匂いを嗅ぎ分け、そしてその建物から香ってくる手の施された料理の匂いを辿り、特定したのだ。


「フッ……あそこ、だな?」


 自信満々にそうレイジに問い掛けたフラムの視線の先にあったのは、周囲の建物と比べても何の変わりもない、特にこれといった特徴のない建物だった。


「――!?」


 レイジの表情が驚愕に染まる。

 大きく目を見開き、天変地異が起きた瞬間を目撃してしまったかのような表情をしていた。

 そんなレイジの顔を見て、フラムの自信が確信へと変わる。


「どうやら今晩はシチューのようだぞ?」




 焦げ付かないように肉と野菜を乳でことこと煮込んだ鍋を回していた少女の背中越しに扉が開く音が聞こえてくる。


 少女の名は――クレール。

 兄であるレイジと同じ錆色の長い艶のある髪を背中まで伸ばしている。背丈は一四〇、体格は痩せ型で、戦いとは無縁と言わんばかりの細く長い手足を持つ。

 まだ成長過程なのか、白いエプロンの下に隠されている胸は小さく、その幼気な容姿と相まってレイジからはよく『ガキ』と呼ばれ、からかわれている。


「もうっ! お兄ちゃん、遅い! どこほっつき歩いてたの! 晩御飯の時間には帰ってきてって、いつもいつも言ってるのに!」


 レイジの好物であり、クレールの得意料理でもあるシチューを器に移しつつ、クレールは片頬をぷっくりと膨らませて、後ろを振り向かずに説教をする。


 いつものやり取りだった。

 そして、どうせまたいつも通りに兄から言い訳じみた返事が来ると思っていた。


 なのに、今日はなかなか返事が戻って来ない。

 また喧嘩でもして怪我でもしたのだろうか。そう思って、好物のシチューの入った器を手にし、中身が溢れないようにゆっくりと後ろを振り向いた。


「また喧嘩でもしてたんでし――」


「……わ、悪いな。帰るのが遅くなっちまった」


 頬を引きつらせ、歪な笑みを浮かべるレイジ。

 だが、そんなことはどうでも良かった。

 滅多に口から出て来ない謝罪の言葉を聞いて喜んでいる場合でもなかった。

 今、クレールの目にはレイジの後ろに立つ二人の姿しか入ってこない。


「……ぇ?」


 か細い呼気がクレールの口から漏れる。

 手から木製の器が落ち、コンッと音を立てて転がった器はその白い中身をぶちまけ、床を汚した。


 クレールは兄の後ろに立つ二人の顔を知っていた。

 当たり前だ。炎竜族として生まれた者として、その顔を知らないのは余程の世間知らずか、大馬鹿者しかいない。

 他人の空似ではないことは二人が纏うオーラが証明している。

 夢ではない、幻でもない。これは紛れもなく現実だった。


「……」


 狐に化かされたかのように、ぽっかりと小さな口を開け、瞬きを繰り返すクレール。

 そんな彼女に、炎竜族を統べる王たるフラムが、如何にも繊細そうな彼女を怖がらせないように配慮して、穏やかに微笑みながら、こう声を掛けた。


「私の分のシチューはあるか?」


「きゅ〜……」


 クレールは頭の中をシチューのように真っ白にし、気絶した。

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