第745話 縄張り
――力こそ全て。
それが他の竜族にはない炎竜族の掟であり、伝統だ。
故に、この青年が取った行動に間違いはないし、咎められることでもない。
しかし、運がなかった。相手が悪すぎた。
この青年に間違いがあったとすれば、それは相手の実力を見極められなかった点にあるだろう。
「ほう、縄張りか。いつの間にそんなお遊びが流行っていたのか?」
自分の国で縄張り争いが起こっているなど、フラムは全く知らなかった。
少なくとも自分が定めたルールではないことだけは確か。
そもそものところ、炎竜族の国には人間国家のような事細かな法など存在していない。
それは王であるフラムがものぐさな性格だからではなく、竜族という種族そのものが、自由を縛る存在を嫌う性質があるためだった。
とりわけ炎竜族はその傾向が強く、他の竜族と比較してみても圧倒的に
フラムに縄張り争いを『お遊び』呼ばわりされたことで、青年の表情が一層険しくなる。
「テメエ……」
額に青筋を浮かべ、ドスの効いた声で抑えきれない怒りを青年は露わにする。
下々の情勢を全く知らないフラムからしてみれば、先の言葉は軽い挑発でしかなかったが、ここで生きる者にとっては屈辱以外の何ものでもなかった。
事実、縄張り争いは苛烈を極めていた。
己の力を示し、しのぎを削り合う日々。
縄張り争いに敗れた弱者は強者に呑み込まれ、誇りを失ったままこの世界で生き続けなければならない。
つまるところ、ここで生きる者にとって縄張りとは、己の力を証明するものなのだ。
縄張りの広さや勢力の大きさを争い、それを己の武勇として誇り、名を轟かせる。
頂点である
しかし、下々の者たちがそのような争いをしていることなど、当の
何を隠そうイグニスによって完全に情報封鎖されていたからだ。
縄張り争いをただのお遊び――流行り物の類だと思っているのはフラムだけ。
フラムが炎竜王の座について以降、十年に一度開かれていた『王の宴』がほとんど開催されなくなったのも、王へと挑む前にイグニスが大きな障壁となって挑戦者たちの前に立ち塞がっていたからだった。
すなわち、縄張り争いの延長線上にあるのはイグニスへの挑戦権。
極稀にイグニスの匙加減によって直接フラムへの挑戦を許されることもあるが、それも数十年に一度あるかどうか。
頂点を目指す者たちにとって、縄張り争いとは断じてお遊びなどではなく、王へと至るために決して避けては通れぬ道なのであった。
そんな大事とは露知らず、フラムは挑発のために縄張り争いを『お遊び』と嘲り笑ったのだ。青年が怒り狂うのも無理からぬ話だった。
「人化できたからって調子に乗ってんのか? 女」
人化とは一種のステータスであり、強さの象徴でもある。
人化ができる者とそうでない者との力の差は雲泥。
縄張り争いに参加する最低条件とも言えるだろう。
故に青年はフラムが人化しており、かつ見たことのない新顔だったという点から、ここ最近人化に至った者だと判断したのである。
「うーむ、確かに調子に乗っているのかもしれないな。何せ、私は私よりも強き者に
「勘違いすんなよ? それはテメエが狭い世界で温々と育ったっつうだけの話だ」
偶然にも解釈の不一致が起きてしまう。
フラムが言った『ここで』とは炎竜族の国全体のことを指していたのだが、青年は『ここで』という言葉を『外縁部で』と脳内変換してしまっていた。
そうとは気づかず、二人の会話は続く。
「そうであったら面白い。まだ見ぬ強者がいると想像するだけで心が躍ってくるぞ」
フラムから自然な笑みが零れる。
彼女は心の底から今の状況を楽しんでいた。
余裕に満ちたその笑みに青年は苛立ちを隠せず、その獰猛さをもって応える。
「だったらオレが教えてやる。真の強者ってヤツをな」
「ああ、少しは私を愉しませてくれよ?」
一触即発の雰囲気を察してか、二人に集まっていた無数の視線が瞬く間に散っていく。
建物の中で息を殺す者、遠くに飛び立っていく者、その対応は様々。
だが、止めようとする者は誰一人として現れなかった。
――両者の合意の下で成立した決闘を邪魔してはならない。
炎竜族の国ではこれが日常であり、それが数少ない炎竜族の掟だったからだ。
完全な静寂に支配された中、二人は戦闘態勢に入る。
青年は襤褸布を剥ぎ取り、数多の戦いを共に乗り越えてきた古びた大剣を構えた。
「女、まだテメエの名を訊いてなかったな」
「私の名が気になるか? そうだな……お前が勝ったら教えてやる」
これは喧嘩ではなく決闘だ。
決闘の場では互いに名乗り合うのが礼儀とされているが、ここで名乗ったら全てが台無しになることくらいフラムは理解している。
礼儀に欠けるとは思いながらもフラムは怪しげに笑みを浮かべるだけ。それに対し、青年は何か指摘するわけでもなく、誇りある己の名を告げる。
「耳をかっぽじってよく訊け。オレの名はレイジ。これが次の炎竜王の名だ――ッ!」
それが開戦の合図となった。
開始早々、レイジと名乗った青年は全身から赤い光の粒子を迸らせ、地を蹴り上げる。
たった一步でフラムとの間にあった距離を潰し、右手に握っていた大剣を大きく振り上げた。
その動きは洗練された剣技とは遠くかけ離れており、まさに戦いの中で培ってきた我流の剣。
予備動作こそ大きいが、それを補って余りあるほどの剛力により、大剣は唸りを上げてフラムの頭上に吸い込まれていく。
「ふむ……」
フラムはスローモーションとなった世界で、その剣をじっくりと観察する。
(素材としては面白い。だが、今はそれだけだな)
刹那の間にフラムは大剣と自分の頭の間に右手を滑り込ませた。
如何なる物でも両断するのではないかという勢いで迫る大剣。
仮に斬れなくとも、その腕力だけで全てを押し潰すほどの凶悪な一撃に、フラムは右腕一本で立ち向かった。
「――ッ!?」
レイジは大剣を振り下ろす直前でその動きを止められていた。
奥歯を強く噛み締め、さらに大剣へと力を注ぐが、フラムの右手に掴まれた大剣はビクともしない。
「……テメエ、何をしやがった」
「別に特別なことは何もしていないぞ? ただ掴んだだけだ」
「ざっっけんなッ!!」
大剣から手を放し、蹴りを見舞いする。
それは完全に不意をついたはずの一撃だった。
しかし、フラムは格が違った。
二人の間には明確な力の差があったのだ。
横っ腹を蹴り上げたはずの右足は、確かにフラムの腹に直撃していた。
だが、それだけ。
まるで目に見えない薄く強固な壁があるかのようにレイジの右足はフラムの女性らしい柔らかな肌に受け止められ、そこで停止したばかりか、逆に足の甲から激痛が伝わってきたのだ。
焼かれたように激しい熱を帯びる右足。
レイジの右足は完全に折れていた。
皮膚を突き破った複雑に折れた骨が、靴の中を赤く染めていく。
「もうやめておけ。それ以上は自分の身体を壊すだけだ」
フラムがそう優しく忠告するが、それを大人しく聞くレイジではない。
右足から伝わってくる激痛を根性で堪え、炎を纏った右の拳を、フラムの顔面に向けて放った。
「お前は馬鹿か? 炎竜王である私にその程度の火系統魔法が効くわけ――……あっ」
「はっ……?」
時が止まる。
文字通り、二人の間に流れていた時が完全に停止した。
そして、再び時が流れ始める。
フラムは慌てて片手で自分の愚かな口を塞ぐが、時既に遅し。
「いや、あれだ、そう……冗談だ。落ち着いてよく聞け。お前も次の炎竜王の名がああだこうだと言っていただろう? それと同じだ。なっ?」
レイジは茫然自失していた。
フラムの額にあっさりと止められてしまった、自分のボロボロになった罪深い右手を見つめることしかできなくなっていた――。
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