第700話 貧民街
祭りの喧騒から離れ、次第に辺りが暗くなっていく。
貧民街に近付くにつれて人の姿もまばらになっていき、やがて薄っすらとした星明かりしかない暗闇の中に辿り着いた。
「酷い臭い……」
崩れかけの建物が建ち並び、街灯など当然のように何処にもない。
排泄物やら何かが腐敗したかのような強烈な悪臭が鼻の奥を刺激する。
そんな中、ディアは眉を寄せてその小さな鼻を指で押さえていた。
暗闇を見透す力を持つ俺の眼に明かりは必要ない。
貧民街へ本格的に足を踏み入れる前に周囲を慎重に確認していく。
周囲を見渡す限り、人の姿も影もない。辺りに散らばっているのはどこからか崩れ落ちたのであろう瓦礫や、大小様々なゴミばかり。
「ここが貧民街……。ラビリントの闇の部分か……」
一見すると、人っ子一人いない廃棄された一画のように映る。
しかし、その実態は違う。
目に見えるものだけが全てではないのだ。
貧民街と呼ばれているだけあって、ここには多くの人が住んでいる。
息を殺し、気配を消してこの闇の中に住人が潜んでいることを『
深い闇の中から敵意が籠められた数多の視線が突き刺さってきている気がしてならない。いや、おそらく気のせいではないだろう。
襤褸布を被って目立たないようにしているとはいえ、長年貧民街に住んでいる者たちの目にかかれば、この暗闇の中でも俺たちが部外者であることは一目瞭然。
俺とディアが纏う気配や雰囲気、佇まいなどが部外者であることを証明してしまっているのだろう。
ようやく鼻が慣れて来たのか、鼻をつまんでいたディアは鼻から手を離し、俺の背中を優しく突つく。
「ここからどうする? かなり警戒されちゃってるみたいだけど……」
「とりあえず中に入ってみようか。声を掛けても返事が来るとは思えないし」
言葉ではなく、何なら凶器が飛んで来そうな雰囲気だ。
だが、ここでうだうだと立ち止まっていても時間の無駄でしかない。それに少々人の目を集め過ぎてしまっている。
数多の視線から逃げるように俺とディアは出来る限り気配を消して貧民街の中に足を踏み入れた。
五分、十分と暗闇の中を歩く。
だが、誰ともすれ違うこともなければ、人の姿すらも目視できていなかった。
貧民街以外では祭りの熱狂が未だに冷めていないにもかかわらず、ここでは祭りの痕跡すら見つからない。
完全に外界と遮断されている別世界――それがここ貧民街の実態なのかもしれないと思わされてしまう。
「こうすけ、このままじゃ……」
「わかってる。このままほっつき歩いていても埒が明かないし、そろそろ俺たちの方から動こう」
あくまでも目安でしかないが、タイムリミットは朝までと決めている。
まだ焦るような時間ではないが、このまま受け身になっていても意味がないと判断し、こちらから行動を起こすことにした。
俺は『観測演算』で捕捉していた
おあつらえ向きと言うべきか、俺が捕捉していた気配が反応を示している場所は入り組んだ細い路地。
流石に建物の中に立ち入ることは常識的にもリスク的にも避けたかったこともあって都合が良い。
ディアに目線で合図を送り、移動を開始。
俺たちが近寄っていることを気取られないように足音を消しながら何食わぬ顔で気配のもとまで進んでいった。
路地に入り、気配のもとまで残り数十メートル。
幸運なことにまだ向こうはこちらの様子に気付いていないらしく、同じところで反応が留まり続けている。
あとは曲がり角をこのまま真っ直ぐだけ。
しかしこのまま愚直に進んでしまえば相手にこちらの気配を気取られてしまう可能性が高い。
せっかく目星をつけてここまで来たというのに、逃げられてしまっては全てが台無しになる。
そんなことになることを避けるためにも俺は転移を使用し、ディアと共に気配のもとまで空間を飛んだ。
転移した先にいたのは七十前後と思われる酷く痩せ細った男性が瓦礫を椅子代わりにして座り込んでいた。
真っ白な髪も髭も一切手入れをしていないのか長くボサボサに伸び切っている。
当然、風呂なんて物を使っているはずもなければ、水浴びをしている様子もなく、鼻をつんざく体臭が男性から漂う。
「……余所者が儂に何か用か?」
突然、俺たちが目の前に転移してきたというのに慌てる様子も驚く様子もない。
ただただその虚ろな目を俺たちに向け、疑問を投げかけてくるだけで逃げ出すような気配もなかった。
男性からは生気も感じられなければ、危機感もない。
だが、一目俺たちを見ただけで余所者と言い当ててきた辺り、男性の洞察力は死んでいないようだ。むしろ、長年この場所で暮らして来たからこその余裕のようなものが何となく伝わってくる。
「少し話を伺いたくて」
目線を合わせるために中腰になって俺がそう尋ねると、男性は何を言うでもなく、枯れ枝のような細く萎れた手を伸ばしてくる。
言うまでもないだろう。
対価をよこせと言っているのだ。
男性の要求を素早く察した俺は腰につけた疑似アイテムボックスに手を突っ込み、いくつかの食料と金貨を一枚取り出し、その手の上に乗せる。
すると、男性は何一つ文句を言うこともなく手に取った食料を貪り食い始めた。
成人男性二人分の量はあっただろう。
それをあっという間に食べ尽くすと、男性が座っていた瓦礫の傍らに置いていた木製のジョッキのような物を手に取り、そこに入っていた濁った水を何の躊躇もなく胃の中に流し込んでいった。
「ふう……」
満足気に息を吐いた男性の顔には生気が戻る。
食事中でも片時も手放そうとしなかった金貨を懐の中にしまうと、そこでようやく俺とディアに視線を向けてきた。
「嬢ちゃんは魔法師か?」
「えっと、そうだけど……」
戸惑うディアをよそに、男性は空になったジョッキを持ち上げて逆さまにすると、無遠慮に注文をしてくる。
「水をくれないか。見ての通り空っぽだ」
「う、うん。それくらいなら。あと、身体も綺麗にしてあげるね」
飲み水を提供したのはディアの完全なる善意だろうが、身体を綺麗にしてあげたのは男性の体臭に耐え切れなくなったからのようだ。
あっという間に飲み水を注ぎ、緻密な魔法制御能力で身体に付着していた汚れを落とすと、ディアはそのタイミングで密かに鼻から空気を吸い、大きく息を吐いていた。
髪や髭に関しては手つかずのままだが、それでも汚れが落ちたことで見違えるような姿へと生まれ変わる。
男性も男性で綺麗になった身体に満足したのか、ボサボサの髭を撫でながら何度も頷き、声のトーンを一段階上げて尋ねてくる。
「して、何を訊きたい? 自慢にはならんが、これでも儂はここで長い間生きてきた。そこらの若造よりは余程役に立てると思うぞ」
暮してきたではない。生きてきた、だ。
その言葉一つだけでここで生き抜く大変さを物語っているような気がした。
対価は払った。恩も売った。
ならばと、遠慮なく俺は砕けた――いや、やや高圧的な口調でいくつかの質問を投げかけていく。
「風のうわさで訊いた話だが、ここでは表の人間から汚れ仕事が回ってくるとのことだが、それは本当か?」
「大なり小なりほぼ毎日のようにそういった仕事は舞い込んでくる。脛に傷を持つ住民たちの主な収入源と言ってもいい。儂のような年寄りもおこぼれで小さな仕事を貰って、こうして生きているしな」
声の震えがなかったことや、眼球の動きからして嘘を吐いている様子はない。
無論、男性の言葉をそのまま鵜呑みにするわけにはいかないが、参考にするだけなら問題はないだろう。
「次の質問に移らせてもらう。Sランク冒険者パーティー『銀の月光』――彼女たちに関する仕事がここの住民に舞い込んできていたことは知ってるか?」
そう訊いた途端、男性の目に僅かな驚きと動揺が走った瞬間を俺は見逃さなかった。
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