第696話 【番外編】真剣師フラム【中編】
遡ること数時間前。
マギア王国から帰国し、束の間の休暇を堪能していたフラムだったが、珍しいことに昼過ぎまで寝過ごしてしまったのだ。
朝食の時間どころか、昼食の時間すら過ぎていた。
しかし、屋敷にはナタリーがいる、マリーがいる、イグニスがいる。
食堂まで赴けば、すぐに空っぽになった腹を満たしてくれる食事をたらふく用意してくれるだろう。
そんな甘い見積もりをしていた彼女に悲劇が襲う。
軽快な足取りで食堂に入ったフラム。
だが、食堂には誰もいなかった。その代わりにテーブルの上には一枚の紙が置かれていた。
その紙を手に取り、声に出して読み上げていく。
「なになに……『皆で買い物に行ってきます。シチューを用意してあるので、お腹が空いていたらシチューを食べて待っててね。ナタリーより』、か。ふむ、肉の気分だったが、シチューも悪くない」
温めるくらいのことならフラムでもできる。
仮にもフラムは火を司る竜族の王。火を操ることに関して彼女の右に出る者はいないのだ。
厨房に向かうと、そこには巨大な寸胴鍋が魔導コンロの上に置いてあった。
しかし、何かがおかしい。
そう思った途端、強烈な違和感と得体の知れない恐怖がフラムを襲う。
「まさか――っ!」
彼女はその違和感の正体にすぐ気付いた。
そう……匂いがしなかったのだ。
ほのかに香るミルクの甘い匂いが。野菜と鶏肉がじっくりと煮込まれた食欲をそそるあの匂いが。
寸胴鍋の蓋を開ける。
「なっ……!? 空、だと……!?」
ナタリーが作り忘れたわけではないことは、鍋に付着した極少量シチューが物語っている。
ともなれば、シチューが消えた原因は一つしか考えられなかった。
「おのれ、プリュイめっ! 私が寝ている間に私のシチューを……! 絶対に許さん……っ!!」
すぐさま探知系統スキルを使用するが、犯人もとい、プリュイの気配は既に屋敷にはない。
状況から鑑みるにゲートでマギア王国に戻ったことは明白だった。
今さら追い掛けたとしても逃げに徹したプリュイを見つけ出すのは至難の業。それに仮に見つけられたとしても、怒りを発散させることができるだけで、シチューが戻ってくるわけではない。
「労力と対価が釣り合っていないか……」
今優先すべきは空っぽになった腹を満たすこと。
じゃじゃ馬娘に構っていられるほどの元気は今のフラムには一欠片も残っていなかった。
「処刑する処刑する処刑する処刑する処刑する処刑する……」
延々と怨嗟を口から漏らすフラム。
その眼は虚ろになっており、プリュイに対する憎悪によって仄暗く怪しい炎を灯していた。
プリュイの処刑がこうしてフラムの中で確定した今、もはや食堂に用はない。
冷蔵庫の中にはある程度の食材がまだ入っていたが、料理ができないフラムにとってはただの物入れだ。
強靭な胃の持ち主であるフラムにかかれば、たとえ生肉だろうが問題なく食せる。
ただし、それを美味いと思うかどうかは全くの別問題であり、人間が作る料理に慣れて舌が肥えに肥えたフラムにとっては到底満足できる代物ではない。
こうなれば、フラムに残された選択肢は一つしかなかった。
「……仕方がない。久しぶりに『狩り』でもしてくるか」
常人であれば、近場の商店や出店で手早く買い物を済ませようと考えるのが普通だろう。
しかし、フラムは違う。ここで買い物に行くという選択肢が思い浮かばないのが、フラムという竜族だ。
わざわざ賭博という危険な吊り橋を渡ることに意味があるのかと問われれば、フラムは何も考えることなく首を捻るだろう。
そもそも、賭博とは運否天賦で勝敗が決するものという認識そのものが彼女には微塵もないのだ。
つまるところ、フラムにとって賭博とは一方的に搾取できる狩りと同義。
弱肉強食の理に則り、狩られる者と狩る者に分かれていることは至極当然のこと。また、自身が狩る側の存在だと明確に認識していたのである。
「うむ、財布は要らないな。探すのが面倒だ」
こうしてフラムは屋敷の中からテキトーに襤褸布を見繕い、それを頭の上から被って冒険者ギルドへ――否、賭場へと向かったのであった。
そして、今に至るというわけだ。
男の準備と覚悟はとうに済んでいた。
後はフラムが席に着き、手を組み合うだけ。
フラムは余裕綽々な笑みを湛え、ガタつく丸椅子にドッシリと腰を下ろし、肘をテーブルの上につくと、こう言い放つ。
「見ての通り、私は淑女なんだ。お手柔らかに頼むぞ」
「はんっ、淑女が自分で自分のことを淑女なんか言うかってんだ。悪いが、そんな言葉に騙されてやるつもりはねえ。手加減なしで叩きのめしてやるよ」
フラムの右手と男の右手がガッシリと組まれる。
審判は男の賭博仲間の一人。
腕相撲の性質上、審判が誰であっても介入の余地は然程ない。フラムからしてみれば、たとえ審判が不正を働こうとも関係がないとすら考えていた。
審判を務めることになった男が、開始の合図を出す前にヒソヒソとフラムに声を掛ける。
「……怪我は無しにしてやってくれ。腕が折れちまうと食い扶持を稼ぐこともできなくなっちまう」
「安心していいぞ。端からそのつもりはない。それに、ここで骨を負ってしまえば、次の賭けができなくなってしまうかもしれないからな」
「おいおいおい、人の心はねえのかよ。まだまだ毟り取るつもりってか?」
「生憎と『人の心』なんてモノは持ち合わせていないのでな。――さあ、始めてくれ」
二人のやり取りは、腕を構え、極限の集中状態にあった男の耳には入って来ない。
男の頭の中は既に勝負のことでいっぱいだった。
肘の位置や『剛腕』を発動させるタイミング、手の握りなど、男は未だかつてないほどに最善を尽くし、その時を待つ。
そして――、
「始めっ!」
「――うおおおおおおおおッ!!!」
腹の底……否、魂からの叫びと共に男の腕の筋肉が肥大化し、フラムの靭やかな細腕をテーブルに叩き付けんと、渾身の力を籠める。
が、相手が悪過ぎた。
「ッ!?」
男の叫びが止まる。
止まったのは叫びだけではなかった。
フラムの細腕を押し込めようとしていた男の右腕が突然、ピタリと止まったのである。
直後、細腕から伝わってきたのは鉄でできた巨大な壁のイメージだった。
「どうした? もう終わりか?」
押そうとも引こうとも微動だにすることはない。まさに鉄壁そのものだった。
錯覚ではない。
開始前までの手を握った感触では、こんなイメージを抱くことはなかった。
けれども、今は違う。
簡単に折れてしまいそうに見えた細腕は、まるで鉄そのものに置き換わったかのようにビクともしない。
だが、そう簡単に諦めるわけにはいかない。
たった一杯といえども酒が待っているのだ。
勝利の美酒に酔いしれ、至福の時を味わうために男は戦っているのだ。
「ぐっ、ぐおおおおおぉぉぉぉッ!!!」
奥歯をギシギシと噛み鳴らしながら、頭の血管がはち切れんばかりの力を右腕一本に注ぎ込む。
一滴も余すことなく全ての力を総動員し、男は最後の最後まで力を振り絞る。
しかし、勝利の女神が男に微笑むことはなかった。
――コツンッ。
無情にも男の右手の甲が優しく木製のテーブルを一回叩き鳴らす。
「勝負、ありだ」
審判の男がフラムの右手を掴み、高々と勝者の腕を掲げる。
「そんな、そんな馬鹿な……」
「気合いだけは悪くなかったぞ。だが、まだまだ私には及ばないな。店主よ、この店一番の肉料理を頼む。大至急でだ」
「あいよ」
愕然とし、現実を受け止めきれない男を他所に、フラムはちゃっちゃと注文を済ませる。
そこに情けも躊躇もない。あるのは注文した料理が届くのを待つ、ご機嫌な笑みだけであった。
「『剛腕』を持つ俺が……? どうして……」
今起きたことが信じられない男は呆然と自分の手のひらを見つめ、呟いた。
飯を奢ることになってしまったが、そんなことはどうでもいい。
自分に圧倒的有利だったはずの勝負で何故負けてしまったのか。それが不思議でしょうがなかった。
届いた料理をそそくさと貪り食い、頬袋を膨らませるフラムをよそに、男は覇気を失った声で仲間たちに問い掛ける。
「この女は何者なんだ……?」
「……冒険者パーティー『紅』。……名はフラム。……Aランク冒険者だ」
寡黙な男は持ち得る全てのフラムの情報を伝えた。
さらにその補足として、審判役を務めていた男は椅子に腰を下ろすと、勝負に敗れた男の背中を軽く叩き、言葉を投げ掛ける。
「『勝てない戦いに挑むな』とは言ったが、今回ばかしは同情するぜ。まさか正体を隠して来るとは思ってもいなかったからな。それにお前はこの都市に来て一ヶ月程度の新顔だしな、流石に運が悪かったとしか言えねえよ。だがな、これでわかっただろ? 上級冒険者様を相手にする無謀さってやつをよ」
男はそう言ったものの、上級冒険者を一緒くたにするのは間違っていた。
確かにBランク以上の冒険者ともなれば、努力の他に生まれ持った才能が必要となってくる。
この点だけを切り取れば、上級冒険者は常人とは異なる存在と言っても過言ではないだろう。
しかし、上級冒険者が全ての面で中級以下の冒険者よりも優れているわけではないこともまた確かだ。
魔法の才に恵まれた者は魔法へ、近接戦闘の才に恵まれた者は身体や武器を用いた戦闘へ。
このように何かしらの能力に特化することで、上級冒険者への階段を上っていく者が大多数なのだ。
故に、中級以下の冒険者であれど、魔法に特化した上級冒険者が相手であれば、腕相撲という勝負においては十分に勝つ未来も考えられただろう。
事実、勝負に敗れた男もそう考えていた。
よりにもよって力自慢の上級冒険者に勝負を吹っかけてしまった己の不運を嘆いていた。
不運を嘆くだけではなく、反省点も多い。
けれども、敗れたからこそ視えて来た物も存在した。
「ふむ、ぜんっぜん物足りないな。味を重視し過ぎたか……」
数分も経たぬうちに皿の上は綺麗さっぱり空っぽに。
上質な肉をミディアムレアで焼いたステーキはあっという間にフラムの腹の中に収まったが、すっからかんになっていた腹を満たすにはまだまだ量が足りていなかった。
不完全燃焼で賭けが終わってしまった男と、腹が満たされないフラム。
この時、両者の思惑は合致した。
「くそっ! もう一勝負だッ!」
「ほう、その心意気や良し」
ムキになり、再度賭けを申し込んだ仲間の姿に、その様子を見届けていた男たちは大きな大きなため息を吐いた。
「……おい親父、馬鹿につける薬は売ってねえのか?」
「ないな」
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