第688話 火と風の王

「何が……」


 先ほどまでの喧騒はどこへ消えてしまったというのか。


 一迅の風と共に嘘のように静まり返った闘技場。

 まるで音がこの世界から消えてなくなってしまったかのような錯覚に襲われるが、そうではない。


 観客席にいた者たちは一部の者を除いて眠っていたのだ。

 数万を超える人たちを一瞬で眠らせてしまうほどの強烈な催眠。

 その力は、まさに人智を超えていると言っても過言ではない。


 強力無比なスキル、そして闘技場全体に作用させられるほどの膨大な魔力。この二つがなければ、決して成し遂げられない力だ。


 だからこそ、イグニスは即座に確信に至ったのだろう。

 この状況を作り出した者が――風竜王ウィンド・ロードルヴァンであると。


 と、次の瞬間、闘技場の中央にある舞台に六つの影が何処からともなく降り立つ。


 若草色のローブを纏う六人の男女。

 誰も彼も皆、端正な顔立ちをしており、そして特徴的な長く尖った耳を持っている。

 五人のエルフの女性に護られるように中央に立つのは、一際目を引く背の高い長髪の男だった。

 若葉の色をした長く緩いウェーブのかかった髪を靡かせ、ローブでも隠し切れないほどの細くスラリと伸びた手足を見る限り、戦闘を苦手としているように思えてしまう。


 しかし、それは大きな間違いだ。

 俺の中の生存本能が、その男を目にした途端に激しい警鐘を鳴らしている。

 決して目を離すなと訴えかけてくる。


 俺は紅蓮を虚空から取り出し、警戒心を剥き出しに。

 ディアも俺に倣ってか、いつでも魔法が撃てるように身構える。


 静寂の中でも、ひりつく空気。

 そんな空気を打ち消したのは、風竜王ルヴァンを最も知るであろうフラムだった。


「主よ、ディアよ、そう身構える必要はないぞ。奴は荒事を起こすような性格ではないからな。それと、イグニス。お前はその荒々しい殺気を少しは抑えろ」


「……畏まりました」


 イグニスにしては珍しく、不承不承といった雰囲気を醸し出しつつ、禍々しいほどの殺気を一瞬にして抑えてみせる。


 すると、それまでこちらを一切見ようとしてこなかったルヴァンが、思わず吸い込まれそうになる翡翠色の瞳をこちらに向ける。

 そして、数秒ほどの間を置いてから、人差し指で頬を掻きつつ小さな苦笑いを浮かべると、何を思ったのか俺たちに向かって手招きをしてきたのであった。


「……こっちに来い、ってこと?」


 俺と同様に、未だに警戒心を解いていないのか、ディアはやや強張った声色で疑問を投げかけてくる。


「ああ、そうみたいだ。でも、どうする? もしかしたら罠なんて可能性も……」


 フラムの言葉を信じていないわけではない。

 だが、だからといって相手の間合いに飛び込めるかどうかと問われれば、それとこれとは別問題だ。


 相手は風を司る竜族の王。

 フラムから話を訊いた限り、風竜王ルヴァンはエルフをこよなく愛し、それでいて非常に穏やかな性格の持ち主とのことだが、もし俺たちを敵と見做していたらと思うと、この一歩を踏み出すには、かなりの勇気が必要となってくる。

 近付いた途端にバッサリ、なんていう最悪の未来がどうしても脳裏をチラついてしまう。


 実力を知っておきたい。

 その一心で『始神の眼ザ・ファースト』を使用してみるが、案の定と言うべきか俺の眼に風竜王ルヴァンの情報が表示されることはなかった。


 薄々わかっていたことだった。

 これはフラムにもイグニスにもルミエールにも言えることだが、どうやら竜族の情報隠蔽能力の高さは、スキルという理の中から外れているらしい。

 何か俺が知らないカラクリがあるのかもしれないが、どちらにせよ俺の眼ではルヴァンの情報を覗き見ることはできなかった。


「ん? どうした? 二人は行かないつもりなのか? だったら私は先に行かせてもらうぞ――とうっ」


 そう言い残したフラムは観客席の淵に足をかけ、驚異的な跳躍力であっさりと闘技場の舞台に跳んでいってしまう。


「行っちゃったね……」


「仕方ない……俺たちも行こうか」


 フラムが行ってしまった以上、俺たちもうかうかしてはいられない。

 慎重に慎重を重ねていた自分が馬鹿らしくなりつつも、俺たちは転移を使用し、舞台の上に立った。


 転移するや否や、既にフラムがルヴァンとの対話を試みよとしていた。

 だが、どういうわけか険悪な空気が流れている。

 とはいえ、この険悪な空気を作り出したのはフラムとルヴァンではない。ルヴァンを護るように取り囲むエルフたちが原因だった。


 エルフたちの警戒心が籠められた険しい眼差しがフラムを突き刺す。

 その眼差しには明らかにルヴァンにフラムを近付けさせないという強い決意が宿っていた。

 その様相からは今にもローブの中に隠しているのであろう武器を取り出し、フラムに襲い掛かりそうな雰囲気を感じる。

 だが、フラムはエルフたちからそんな眼差しを受けていながらも、まるで気にする素振りを見せずにルヴァンへと話し掛けた。


「久しいな、ルヴァン。今もこうしてエルフを侍らせているあたり、昔と何も変わっていないようだな」


 腕を組み、堂々たる態度でそう語り掛けたフラムに対し、ルヴァンは整った眉を下げ、乾いた笑い声を上げながら困惑の表情を浮かべる。


「あははは……。僕は何も変わっていないよ、見ての通りさ。でも、どうやら君は違うみたいだ。だいぶ変わったようだね」


 そう言ったルヴァンは俺とディアにほんの一瞬目をやり、小さく微笑んだ。


「ほう? 私が変わったと? どの辺りが変わったのか訊かせてみろ」


「そうだね、良い意味で丸くなったんじゃないかな? 昔の君だったら……ほら、今エルフたちが向けている視線に我慢できていなかったと思うんだ」


 優しい口調に、柔らかな表情。

 だが、自分が連れてきたエルフたちが、フラムにどのような視線を向けているのかわかっているあたり、食えない相手だと思うべきだろう。


 フラムが以前、ルヴァンのことを『掴みどころがない、かなりの変わり者』と言っていた部分は、まさにこういった部分を指していたのかもしれない。


「風竜王よ、今すぐに貴方のエルフたちに態度を改めるよう伝えなさい。――我が王がお許しになっても、私めが許せそうにありませんから」


 と、ここでイグニスが二人の間に割って入る。

 涼やかな顔をしていながらも、その声には明確な怒りが含まれていた。


「気分を悪くさせてしまったようだね。イグニス君の言う通りだ。皆、警戒を解いてくれないか? 彼女たちは僕の友人なんだ、安心してほしい」


 エルフたちはルヴァンの言葉を訊いた途端、姿勢を正してフラムに深く頭を下げた。


 そのあまりの変わりように、俺は思わず口を大きく開けて言葉を失いそうになる。

 ルヴァンとエルフたちの関係性は、まるで王と臣下――いや、神と信者のような隔絶した関係のように俺の目には映っていた。


「やれやれ、イグニスには困ったものだ。少しは私を見倣って『我慢』というものを覚えた方がいいんじゃないか?」


「「……」」


 反応をしたら負けだ。

 そう思った俺とディアは、目をまん丸にしながら顔を突き合わせ、沈黙という最適解を導き出す。


「そ、そうだね……。うん、我慢強さは大切なことだ」


 流石にルヴァンもどう反応したら良いのかわからなかったのか、曖昧な返答に留める。

 ただし、フラムへの対応を誤らなかったあたり、ルヴァンはフラムのことを相当理解しているとみて間違いなさそうだ。

 対応を誤った時のフラムの凶悪さを理解しているとも言えるだろう。


 短い閑談を経て、ようやくフラムがルヴァンがここに現れた目的を聞き出そうと問いかける。


「で、森の中にずっと引き籠もっていた奴が、一体こんなところに何の用あって現れたのだ? 最近、私たちの周りを嗅ぎ回っていたことも含めて、じっくりと訊かせてもらおうか」


「少し誤解があるようだから言わせてもらうけど、僕は君たちに姿を見せるつもりはなかったさ。逆に訊くけど、好き好んで君に会いたいなんて言う竜族がいると思うかい?」


「炎竜族にはたくさんいるぞ?」


「……いや、そうだね。うん、この話はもうやめにしよう。それより、僕が君の前にこうして姿を見せた理由を説明するとしよう」


 そこでルヴァンは言葉を区切ると、それまでの困惑した表情を一変させ、真剣味を帯びた厳しい表情を作り、言葉を続けた。


「悪意を持った者たちによって、人々の恐怖を煽るかのように竜族の存在を公にされるのは困ると思ったからさ。だからこうして皆の記憶を風化させてもらった。一部の人間を除いてね」

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