第687話 ほのかに
俺たちに集まっていた視線が、突如として演説を始めたヴィドー大公に集まる。
助け舟を出してくれたのであろうことは明白。
フラムの、そしてイグニスの正体を観客に明すまいと立ち上がってくれたことには感謝の気持ちしかないが、どうやら旗色が悪そうだ。
「ふむ、どうやら一部の冒険者が騒ぎ立てているみたいだな」
俺の耳では聞こえていなかった観客の声をフラムはその優れた聴覚によって拾っていたらしい。
「騒ぎ立てているの? どうして? わたしには全然聞こえてこなかったけど……」
「聞こえた感じだと、私に情報隠蔽能力を解けと命令しろとのことらしいぞ。……まったく、自分の無力さを嘆いていればいいものを。仮に私がスキルを解除したところで『心眼』程度の力で視えるスキルなど片手にも満たないというのに、何の意味があるというんだ」
怒り……というよりも呆れが先行しているようだ。
フラムらしいと言えばフラムらしいが、彼女の言い分もわからないでもない。
全ての情報看破系統スキルに言えることだが、例えば
それ以外の情報を覗き見るとなると、他には名前くらいのものだが、フラムという名が仮に漏洩してしまったとしても、噂を裏付ける証拠としてはかなり弱いだろう。
そもそもの話、観客に紛れ込んでいるサクラがフラムの名を喧伝したところで、
無論、それだけではない。
フラムが炎竜王であることを俺は疑っていないが、一年という時を共にしておきながら、俺ですらフラムが炎竜王である証拠を見せてもらっていないのだ。
人間の国家であれば、王族なり貴族なりはその身分の証明するための書類やら何やらを色々と持っている。
しかし、竜族は違う。
竜族の文明レベルがどの程度あるのか俺は知らないが、おそらく炎竜王であることを証明するものなど、フラムは持っていないんじゃないだろうか。
仮に訊いて見たとしても、フラムのことだ。『私の強さがその証明だぞ』なんて言ってくる未来が容易に想像がつく。
そして何より、冒険者の主張はかなり無茶苦茶だ。
フラムを疑い、恐れる気持ちは理解できなくもない。
だが、これだけの衆人環視の中で他者の情報を全て曝け出せというのは無茶を通り越して無礼にもほどがある。
冒険者ならば、わかっているに違いない。
自分の情報を曝け出すことの危険性を冒険者ギルドで最初に習っているはずだ。
にもかかわらず、件の冒険者はフラムの情報開示を請求してきた。
安心のためという大義名分を掲げ、正義感に自己陶酔する。
これを厚顔無恥と言わずに何と表現すれば良いのかわからない。
これではまるでフラムが悪者のようだ。
想像するだけでも吐き気がしてくる。
憎悪に近い感情がじわりじわりと心を蝕んでくる。
その冒険者の声が、俺の耳まで届いて来なかったことだけが唯一の救いだ。
もし聞こえていたら……。
頭を振って、嫌な妄想を追い払う。
今はそれどころではないということを思い出し、俺らがすべきことを考えなければならない。
観客全員にフラムの名と、ここに二人の炎竜族がいることが知れ渡ってしまった。
確証はまだ持っていないはずだ。だが、噂が噂を呼び、人々の心は疑心に満ちてしまっている。
今さらなかったことにすることは不可能とまでは言わないが、困難を極めることには変わりない。
唯一の解決方法を挙げるとするならば、それは俺が常日頃から忌み嫌っている『
その能力の一つである他者の精神を弄り、一部の記憶を消し去るという方法だ。
もちろん、問題は山積みだ。
人の記憶を、精神を操るという罪の意識。
マギア王国で目の当たりにした『精神の支配者』の犠牲者のことを思い出すと、とてもじゃないが、この力を使うことに非常に強い抵抗感を覚えてしまう。
ただし、これに関しては俺自身の問題――倫理観の問題でしかない。
これまで散々罪を重ねて来たのだ。
俺は俺の正義を貫くために何人もの敵をこの手で殺して来た。とはいえ、その罪は未来永劫消えることはないだろう。
今さら善人ぶったところで、それに一体何の意味があるというのか。
己の心を殺し、仲間を守る。
そう、俺にできることはそれだけだ。俺の手の中に収まる者しか救えないことなど、この世界に来てから散々痛感し、そして仲間たちに教えてもらってきたではないか。
胸の奥が軽くなることはない。それでも覚悟だけはできている。
だが、問題はそれだけではないのだ。
思考誘導程度なら、闘技場に張られている結界を無視して観客たちを催眠状態にすることはできるかもしれない。
しかし、記憶の消去ともなれば、話は別だ。
俺の力を脳に浸透させるために近距離かつ、確実性を求めるのならば接触も必要となってくる。
耐性の有無や大人か子供かによって効果の強弱も変わってしまうことからも、もし力づくで強引に記憶の消去を行ってしまえば、思わぬ被害が出てくるかもわからない。
下手をすれば一日どころか、これまでの人生の記憶が消えてしまうかもしれないのだ。
「どうすれば……」
ヴィドー大公の声が聞こえて来ないことから察するに相当返答に困っているみたいだが、それは俺も同じだった。
この窮地から脱するにはどうするべきか。
いくら考えても、いくら思考が声になってだだ漏れになっていようが、答えに辿り着くことはない。
そんな俺を見兼ねてか、フラムはあっけらかんと、こう言い放つ。
「主よ、別にどうこうする必要はないぞ。エドガーだってダミアーノだって私が仮面の男を殺したとは思っていないだろうし、罪に問われることもないだろうしな。それに、別に私は正体が知られたとしても困ることはないし、気にもしないぞ? 私がこれまで公言してこなかったのは、出逢ったばかりの頃、主に正体を隠すように言われていたからだしな。イグニスよ、お前も別に気にしないだろう?」
「何一つ問題はございません。人間の見世物になるのはご勘弁願いたいですがね」
イグニスが珍しく冗談めかすように、俺に微笑を浮かべて見せる。
「と、まあイグニスが言った通り、私もそんなところだ。見世物になるつもりはないが、主が身を切るほどのことでもないぞ。無論、私にちょっかいを出すような愚か者には容赦はしないがな」
「フラムは本当に容赦しなさそう……」
ディアもディアで場の空気を読み、ジト目でフラムを見つめながら冗談を口にする。
「ディアよ、何だその目は……」
「ううん、気にしな――何か来るっ! こうすけ、魔力阻害の結界を!」
その時だった。
ディアの声色が途端に危機感を抱かせるものへと変わる。
「――ああ!」
俺はディアの声に咄嗟に反応し、『
「リディオさん、念のために奥の部屋に! マリーたちを任せます」
「は、はいっ!」
何が起こるかわからない。
万が一に備えてリディオさんを即時に避難させ、来たる時に備える。
同時に俺は『魔力の支配者』の力で周囲の魔力を知覚しようと反応を探るが、観客席を埋め尽くす人々から漏れる微かな魔力を知覚してしまい、ディアが危機感を募らせた原因を特定することができなかった。
一秒、二秒と緊張の時を過ごす。
ヴィドー大公の言葉が詰まっていることもあってか、観客席から徐々に不満の声が漏れ聞こえてきていたが、それらを無視し、虚空に手を突っ込み、いつでも紅蓮を抜ける状態で待機する。
そして、ついにその時が訪れた。
ほのかに香る新緑の匂いが鼻腔をくすぐる。
優しく、それでいてどこか虚しさを感じさせる柔らかな風が頬を撫でる。
「……なるほどな。最初からこの場に紛れ込んでいたのか」
そう呟きを零したフラムは、涼やかな顔をして、平静を保っている。
その一方で、俺たちの後ろに立っていたイグニスからは歯軋りの音が聞こえ、それからすぐにイグニスは苛立ち混じりの声でこう言った。
「――……
数秒後、闘技場は嘘のような静けさに包み込まれたのであった。
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