第686話 変わりゆく潮目

 紅介たちが座るVIP席のちょうどその正面――闘技場において最上級の席である特等室内でも、大混乱が生じていた。


「何が……一体何が起きているっ!」


 眼下に広がる観客席から沸き上がる悲鳴と疑惑の声。

 ダミアーノ・ヴィドーは鼓膜を破らんばかりの観客たちの大声量に顔を大きく歪ませ、怒声を上げる。


 何故こうなってしまったのか。

 魔武道会は順調に進んでいた。熱戦に次ぐ熱戦に、すっかりダミアーノは国家間の勝負であることを忘れ、完全に目を奪われていた。


 しかし、ブルチャーレ公国の代表である仮面の男が吹き飛ばされてからというもの、風向きが一転。

 爆発音と共に闘技場全体が大混乱に陥り、魔武道会が台無しになってしまった挙げ句、そこに追い討ちをかけるかのように竜族に関する秘匿すべき情報が噂という形で漏洩してしまっている。


 ここまでの騒ぎに発展してしまったのだ。もはや、噂を完全に断ち切る術はない。

 しかも、たちが悪いことにダミアーノの耳まで届いてくる噂の内容のほとんどは虚言ではなく真実だった。

 加えて、衆目が集まる先にフラムとイグニス――炎竜王ファイア・ロードとその右腕がいることは曲げようのない事実。

 いくらここで否定の声を上げたところで、観客全員の疑念を完璧に拭い切ることなど誰にもできはしない。


 もし仮にフラムとイグニスが竜族ではなかったとしても、そのことを証明すること自体が困難を極める。


 まさしく悪魔の証明だと言えよう。

 そもそものところ、人と竜族の違いが何処にあるのかさえ、ダミアーノにもわかっていないのだ。

 ただ漠然と竜と人の姿を取ることができ、人間とは一線を画する力を有していると思っているだけで、それ以外の違いを説明する知識をダミアーノは持っていなかった。


「ヴィドー大公」


 思考の海に沈み切っていたダミアーノの意識を浮上させたのは、隣に座るエドガー・ド・ラバールだった。

 何時になく真剣な声色で『ダミアーノ』ではなく、国王と大公という立場で『ヴィドー大公』と呼び掛け、言葉を続ける。


「諦めるにはまだ早い。この場を鎮められるのは貴殿だけだ」


 エドガーは諦めていなかった。

 小さな火から大炎となりつつある中、エドガーは鎮火を目指す。

 人の口に戸は立てられないが、竜族の噂が広がっているのはまだ闘技場の中だけ。それにまだフラムとイグニスが竜族である証拠を掴まれたわけではない。

 何より、今ここで真偽を問わず噂を否定しなければ観客たちは噂を真実だと捉えてしまうことは目に見えている。

 だからこそ、民衆が半信半疑であるうちに手を打つべきだとダミアーノに訴えかけたのであった。


 諦念の色に染まりかけていたダミアーノの心に火が灯る。

 事態が急転したことで思考がマイナスに引っ張られ過ぎていたことに今さらながらに気付いたのだ。


「……そうであるな。感謝する、エドガー国王」


 開会の挨拶の際に使用した拡声の魔道具を手に取り、ダミアーノは席を立つ。


 観客の視線は未だに紅介たちに釘付け。大公であるダミアーノが席から立ち上がったというのに、その姿に気付く者は眼下には誰一人といない。


 手のひら大の魔道具を口元へ移動させる。

 後は極小の魔力を流し、声を出すだけ。


 肺を大きく膨らませ、眼下で騒ぎ続ける観客に向けて第一声を送る――その時だった。

 覚悟を決めたダミアーノに、一人の老婆が――公爵家当主マファルダ・スカルパが横槍を入れる。


「――愛すべき民に嘘を吐く気かい?」


 酷くしゃがれた声だった。

 だが、不思議とその声は観客の声に掻き消されることなく、ダミアーノの耳に届く。


「何が言いたい、スカルパ公爵」


 ダミアーノは口元まで持っていった拡声の魔道具を下ろすと、背後を振り返り、皺だらけのマファルダの顔をきつく睨みつける。


「そのままの意味じゃよ。竜族は人の世に降りた。それはラバール王国やブルチャーレ公国に限った話ではない。マギア王国にも、そしてシュタルク帝国にもじゃ。こうなってしまった今、もはや竜族の存在を隠すことに何の意味がある? 民に竜族の存在を秘匿したまま、シュタルク帝国についた地竜族と戦わせるつもりかい?」


「逆に問おう。無用な不安を抱かせて何の意味があるというのだ? 包み隠さず真実を告げてしまえば兵たちの士気を削ぐだけだ。それこそシュタルク帝国の思う壺であろう」


 ダミアーノの反論に、首を大きく縦に振って賛同を示したのは、ブルチャーレ公国の軍事を預かるウーゴ・バルトローネ公爵だった。

 野獣のような赤い剛毛の髭を撫でつつ、腹の底に響くほどの声量でマファルダに持論を述べる。


「全くもってその通りである! 士気の低下はそのまま敗北に繋がってしまいかねない! 指揮をする我らが真実を知っていれば十分であろう!」


 暑苦しく熱弁を振るうウーゴに嫌そうな顔を向けながらも、竜族関連で一度痛い目を見たパオロ・ラフォレーぜ公爵が同意を示す。


「知った方がいいことと知らねえ方がいいことがこの世にはある。で、今回に関しちゃあ、どう考えても後者だろうが。いよいよボケちまったか? スカルパの婆さん」


 これにて三対一。

 四大公爵家の当主による結論は、多数決によってダミアーノの意見が採用された。

 通例ならば、ここで引き下がらなければならない。

 だが、マファルダは引き下がることなく、己の意思を貫き続ける。


「やれやれ、困ったのう。お前さんたちも見たじゃろうに。まるで赤子の手をひねるかのように我が国の代表選手を炎竜王が爆殺した光景を。あれを見てもまだ炎竜王を庇う気かい? 好き勝手する炎竜王を許す気かい?」


「――聞き捨てならないな、スカルパ公爵」


「何のことかね? ラバール国王」


 エドガーは立ち上がり、椅子に座ったままのマファルダのもとまで近寄り、見下ろす。その眼差しには明確な怒りが宿っていた。


「好き勝手に物事を決めつけているのはスカルパ公爵、貴女だ。フラムが殺したという証拠がどこにある? もし仮に殺していたとしても、あれは自衛の範囲内だ」


「はて、自衛にしては過剰に見えたがのう? まあ、よいか。それを決めるのはラバール国王でも我ら四大公爵家でもない。あの無惨な光景を見た者たちがそれぞれ決めることじゃ。ああ……間近で見た者たちは、さぞ怖い思いをしたことじゃろう。魔武道会の代表ともあろう傑物が、ああも容易く葬り去られたのじゃ。あのような真似ができるのは竜族だと考えても何ら不思議ではないのう」


「戯言――……ちっ」


 切り捨てるはずだったマファルダの言葉。

 しかし、エドガーは眼下に広がる現実を直視し、自分の言葉を引っ込めざるを得なかった。


「ええ! 間違いないわ! あの強さは竜族よっ!」


「……おいおい、俺たちも殺されちまうんじゃねえか!? ここにいて大丈夫なのかよ!?」


「嫌よ! こんなところで死ぬなんて嫌っ!」


 至るところからフラムを竜族だと信じ、恐れる声が聞こえてくる。


 時間を浪費し過ぎてしまった。

 半信半疑だった声が、今となっては確信に近い声へと変わりつつあった。


「ダミアーノよ、これはもう手遅れじゃないかのう?」


「スカルパ……!」


 証拠は何一つとしてない。

 しかしこの瞬間、ダミアーノはマファルダに謀られたと確信めいたものを抱き、怒りの感情を発露させる。


「――皆の者、良く訊け!!」


 ダミアーノはマファルダに感情をぶつける寸前に自分の為すべき仕事を思い出し、拡声の魔道具を握り、叫んでいた。


 その声に呼応して観客が振り返り、そして見上げる。

 あくまでも一時的なものだが、静けさが闘技場を包み込んだ。


「ダミアーノ・ヴィドーの名に於いて皆の安全を保証する! 危険はない。落ち着き、席に座るのだ」


 有象無象の無責任な言葉ではない。

 大国ブルチャーレ公国の大公であるダミアーノの言葉ということもあり、大多数の人間は戸惑いを隠し切れないままではあったが、その言葉に従って席に戻っていく。


 だが、闘技場にはブルチャーレ公国民だけではなく、数多の観光客や冒険者が集っている。

 中でも、ダミアーノに向ける一部の冒険者の視線は厳しかった。

 静寂を破り、堂々とダミアーノに疑念を投げ掛ける冒険者が現れたのである。


「何故、竜族ではないと否定なされないのでしょう! 私は自分ので視たものしか信じられません! ヴィドー大公、ご返答を! かの女性に情報隠蔽能力を解除するよう、ご命令を!」


 一流の装備に、鍛え上げられた肉体。

 二十代半ばと思しき若い男の姿は、冒険者に疎いダミアーノの目からして見ても、上級冒険者だと一目でわかった。


「……」


 潮目が変わる。

 それも不都合な方へと変わっていく。


 観客たちの不安が膨らんでいく様が、手に取るようにわかってしまう。


(……良くない。あまりにも良くない流れだ)


 ダミアーノは逃げ場のない窮地に追い込まれる。

 だが、そんなダミアーノに――いや、紅介たちに、突如として救世主が現れる――。

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