第674話 出口なき迷宮
紅介が何の成果も上げられぬまま男を解放したその日の夕刻のこと。
巨塔ジェスティオーネの最上階にある
机に齧り付くように数多の書類とにらめっこをし、ペンを踊らせる。
そんな作業を数時間も繰り返し、いよいよ最後の一枚となった報告書にサインを行い、身体の一部となりつつあったペンをそっと机の上に置いた。
「ふぅ……」
疲労の色が濃い溜め息を吐き、酷使し続けた右手を軽く揉みほぐして自ら労る。
大公という立場柄、こういった業務には慣れ切っているはずのダミアーノだったが、ここ数日はわけが違った。
魔武道会、パオロ・ラフォレーゼ公爵と『銀の月光』の一件、エドガー・ド・ラバール暗殺未遂事件、ラバール王国に派遣した使者の失踪、そして――竜族。
ダミアーノの頭を悩ませるには十分過ぎるほどの問題が発生し、その対処のためにペンを走らせ、時には関係各所に出向いたこともある。
多忙を極める日々を送り、身も心もまさに満身創痍だった。
だが、休む時間はない。
数多の問題の中で解決の兆しが見えてきたのはパオロと『銀の月光』の件のみ。
とはいえ、またまだ兆しが見えてきただけで問題は残されている。
今、ダミアーノの中で厄介な存在となりつつあるのはリディオ・リオルディ男爵だった。
「イグニス殿が『銀の月光』とリオルディ男爵を引き合わせたのは裏付けが取れている。確証こそないが、イグニス殿の意図するところは『銀の月光』を……いや、ルミエール殿をラフォレーゼ公爵から引き剥がすことにあったのはほぼ間違いないだろう。そして、イグニス殿がリオルディ男爵に目を付けた理由もある程度推察できる。ルミエール殿の正体は我が国における機密事項の一つ……。その正体を知る者は上級貴族の中でも一握り。男爵位しか持たないリオルディ男爵が知り得る情報ではない。そこに目を付け、イグニス殿は何も知らないリオルディ男爵を利用したといったところだろう」
誰に語りかけるわけでもなく、思考をあえて口に出すことで頭の中を整理していく。
――リディオ・リオルディ。
正直に言ってしまえば、ダミアーノは今回の一件がなければその名を思い出すだけでも一苦労していたところだった。
有力な貴族でもなければ、特にこれといった印象もない、下級貴族の当主。それがダミアーノが持つリディオの率直な感想であった。
しかし今回の一件を機に、存在感が増した――否、それだけではない。無視できぬ存在へと変貌を遂げた。
ルミエールという制御不能の戦略級兵器を、本人が預かり知らぬところで手に入れてしまったからだ。
他の大国が竜族を引き入れ、時には共闘さえも可能とする中、ブルチャーレ公国が縋れる可能性が残されているのはルミエール唯一人。
とはいえ、ダミアーノはルミエールという個に頼るつもりは毛頭なかった。
あくまでも抑止力としてその効果を微かに期待しているだけであり、計算できない存在を戦力の一つとしてカウントすることの危険性をダミアーノは十分に理解していたのだ。
だが、ルミエールの正体を知る者全員がダミアーノと同じ考えを持っていると問われれば、答えは否だった。
突如として表舞台に現れた竜族。
その強さは皆が常識として持ち合わせている。
伝説や伝承、口伝や物語、時には歌などで竜族は超常の存在として現代まで語り継がれてきた。
まさしくその存在は力の化身。
そのような存在に畏怖を覚えるのは人間が持つ本能として当たり前とも言えるだろう。
故に、期待せずにはいられない。
他国に、そして自国にも竜族がいるのだ。
目には目を、竜族には竜族を。
そう考えてしまう者が現れるのは無理からぬこと。
心の平穏を保つためにもルミエールという存在がブルチャーレにいたことは僥倖と捉えることもできる。
しかし、その一方で竜族に依存する者が現れたのはダミアーノにとって頭痛の種であった。
パオロが引き起こした蛮行の数々も、ある種の依存とも言えるだろう。
力に怯え、力を求め、そして力に溺れる。
今はまだパオロの一件しか事は表面化してないが、水面下でルミエールの力を求める者がいても何ら不思議ではない。
そのような者たちが現れた際に、真っ先に狙われるのは誰か。
答えはそう難しくはない。『銀の月光』の、ルミエールの後ろ楯となったリディオだ。
リディオが狙われるだけならば、対処法はいくらでもある。
本当に厄介なのは、リディオごと手駒に加えようと動かれた場合だ。
幸いなことに今はリディオ個人としても、またリオルディ男爵家としてもどこの派閥にも属していない。
これが仮にもし、ヴィドー公爵家を除く四大公爵家のいずれかの派閥に属していた場合、大問題に発展していただろう。
ブルチャーレ公国の根幹でもある大公交代制度が揺らぎ、権力の一極集中が生じかねない。
そうなればダミアーノの命だけではなく、ブルチャーレ公国そのものが崩壊してしまう。
想像するのも恐ろしい、絶対に避けなければならない未来だった。
自分自身のためにも、そしてブルチャーレ公国のためにも、ダミアーノはリディオの今後の扱いを慎重に見極めていかなければならない。
「すぐにでもリオルディ男爵にルミエール殿の正体とその重要性を説くべきだろうか……? いや、もしリオルディ男爵に内なる野望があったとしたら? いやいや、それこそあり得ない話だろうに。ルミエールの兄君であるイグニス殿がそのような思想を持つ者を選ぶとは考えられない。ここはやはり、ルミエール殿の正体が公になる前にリオルディ男爵に打ち明けるべきだ。そうだ、それが最善のはず……」
幾度と自問自答を繰り返し、ダミアーノはようやく一つの問題に対する結論を導き出す。
出口のない迷宮に迷い込んだかのような錯覚に陥っていたが、覚悟を決めた途端に霧がかっていた目の前の道が切り開かれていく。
だが、迷宮の出口まではまだまだ遠い。むしろ、ここからが本番と言っても過言ではなかった。
明日開かれる魔武道は、ただ平穏無事に閉幕するその時を待つ他にダミアーノにできることはない。
エドガー・ド・ラバール暗殺未遂事件、ラバール王国に派遣した使者の失踪、そして竜族。
これらの問題に関しては完全に暗礁に乗り上げていた。
大公であるダミアーノの権限をもってしても、未だに解決の糸口すら見つけられていない。
だが、その結果にこそヒントが隠されていた。
「異常とも言えるほどの徹底した情報の隠蔽……。やはり疑うべきは……ん?」
窓から吹き込んで来た涼しい夜風が、机の上に山積みになって置かれていた書類を数枚床へと落とした。
ペンを置いてから、かなりの時間が経っていたことに今さらになって気付く。
ふと、窓から外の景色を見ると、茜色に染まっていたはずの空は既にその色を変え、夜の闇に完全に呑み込まれていた。
「……窓を開けたままにしていたか?」
床に落ちた書類を拾い上げ、そのついでに窓を閉める。
そして、席に戻って再び思考の海の中へと戻ろうとしたダミアーノだったが、椅子に腰を下ろした途端、目がかすみ視界が歪み出す。
「……っ、だいぶ疲れが溜まっていたようだ」
目頭を強く押し込み何度か揉みほぐしてやると、徐々に視界がもとに戻っていく。
しかし視界が戻るや否や、強烈な眠気がダミアーノに襲い掛かる。
「……」
完全に眠りにつくまで十秒も必要なかった。
上半身を書類でいっぱいになった机の上に放り投げ、うつ伏せの状態で深い深い眠りにつく。
ダミアーノの寝息だけが響き渡るはずの会議室。
が、会議室には寝息とは別の音が、声が、静寂を破った。
「ずっと盗み聞きをさせてもらっていたけど……ダミアーノ・ヴィドー、どうやら犯人は君じゃなさそうだね。……さて、と。正直、あまり気が進まないけど、次を当たるとしようか。――っと、その前に窓を閉めた記憶を風化させてもらうよ。君には本当に悪いことをしたと思っている。……すまない」
そう言って《流浪》は閉じた窓を再度開け放ち、風となって会議室から去っていったのだった。
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