第669話 《万能者》と《流浪》
時は数時間前に遡る。
リディオの屋敷の屋上に潜伏し、警戒を行っていたイグニスの警戒網に、また新たな怪しい影が引っ掛かる。
怪しい影は今日だけで二度目。
最初に現れたのは取るにも足らない素人の集まりだった。
装備に統一性はなく、髪はボサボサ、服はボロボロで目立ったスキルを持つ者もいない、明らかに貧民街辺りで雇われたであろう者たち。
殺されたり捕らえられたりしても身元が掴めない偵察要員として派遣されたのだと簡単に推測できた。
だからイグニスは彼らを見逃すことにした。
下手に騒がれてしまえば、リディオに気付かれてしまう。
そちらの方が余程面倒になると判断を下したのだ。
結局、その判断は正しかったと言えるだろう。
偵察に来た八人は屋敷の様子を遠目から観察するだけで帰っていた。
危害を加えられたわけでもなければ、特にこれといった実害もなし。
概ねイグニスが想定していた通りの流れだった。
しかし、これは序章に過ぎなかった。
八人組の男たちが去ってから一時間もしないうちに
単独で警戒網を張り巡らせていたイグニスに、奇妙な違和感が襲う。
頭の中に一瞬ノイズが走ったかのような感覚。
だが、イグニスの探知系統スキルにこれといった怪しげな気配は映し出されていない。
(気のせいでしょうか? いや……)
索敵をスキルに頼ることをやめ、己の目に切り替える。
東西南北、全方位を目視で確認していき、そしてイグニスはようやく違和感の正体に辿り着いた。
屋敷の裏に植えられていた樹木が風に靡かれ、微かに揺れ動く。
ただし、それはただの風ではなかった。
屋上に立っていたイグニスには届かない局所的に吹いた風。人為的に生み出された紛い物の風だったのだ。
しかしこの時、イグニスはその風が人為的なものであるとは気付けなかった。
イグニスは紅介やディアとは違い、魔力そのものを知覚することができないからだ。
とはいえ、もしその風がスキル特有の薄緑色をしていたのなら、イグニスは即座にスキルによる風だったと見抜いていただろう。
だが、その風には色がなかった。
スキルであることを疑わせないほど自然な風だった。
イグニスが違和感の正体に辿り着けたのは偶然だったと言えるだろう。
草木が揺れる瞬間を偶然目にしていなければ、気付けなかったに違いない。
(ロザリー様の隠密能力に匹敵するスキルを持っていると考えるべきでしょうか。無視するには少し危険ですね)
イグニスの脳裏に浮かんだのは『確保』の二文字。
即断即決で行動に移したイグニスは屋敷の屋上から軽快に飛び降り、違和感のもとへと向かう。
が、既にそこには誰もいなかった。
まるで夢幻でも見せられていたかのように、何一つ形跡が残っていなかったのである。
(何も臭いがしない……?)
イグニスは優れた嗅覚を持つ。
たとえそこから人が離れても、数分程度であればイグニスの嗅覚は残留する臭いを嗅ぎ分けられるほどの鋭い感覚を持っている。
にもかかわらず、違和感が消えた箇所には草木の香りしか残っていなかった。
この瞬間から、イグニスの警戒心がより一層高まる。
すぐさまイグニスは周囲を見渡し、景色の変化を探る。
探知系統スキルが機能しない以上、頼れるのは目だけ。
音も臭いも探知系統スキルの反応もない。
それでもイグニスは標的を再び見つけ出すことに成功する。
その手掛かりとなったのは『影』だった。
(――そこですか。どうやらロザリー様のスキルに匹敵するというのは私めの勘違いだったようですね)
ロザリーの『
それに対して、イグニスが発見した不審者は姿も影も消すことができていない。
イグニスの探知系統スキルを掻い潜るだけでも相当なことだが、やはりロザリーと比べてしまうと幾分か劣っていた。
屋敷の裏手に植えられていた針葉樹の影で身を潜める不審者との距離をイグニスは瞬く間に詰めていく。
忍び寄るという選択肢もあったが、生憎とイグニスには気配を消す術を持ち合わせていない。
故にイグニスは短期決戦を選んだ。
逃げられても自分なら追いつけると確信していたからだ。
そこに油断も慢心もない。
客観的に自分の実力を評価した上で導き出した結論だった。
が、不審者の実力はイグニスの想定を遥かに上回っていた。
ローブを頭の上から被った後ろ姿に急接近したその刹那、一迅の風がイグニスの真横から襲い掛かってきたのだ。
(……面倒な)
極めて冷静な思考のままイグニスは後方に跳び下がる。
風と火の相性だけで言えばその性質上、圧倒的に火が有利。それがイグニスが操るものともなれば、負ける道理など有りはしなかった。
しかし、イグニスは風を避けることを選んだ。
理由は一つ。
風を呑み込んだ大炎がリディオの裏庭を焼き尽くしてしまうことを危惧したためだ。
炎を自由自在に操れるイグニスでも他者の魔力が混ざった炎を完璧に制御することは難しい。
相手が実力者ともなれば、より困難を極める。
だからこそイグニスは炎で迎撃せずに、後方に跳び下がったのであった。
その僅かな隙に、風でローブをはためかせた背中を見せながら、標的がイグニスから瞬く間に離れていく。
逃げ足の速さはイグニスからしてみても驚異的だった。
その速度は炎竜族の特性である『加速』を用いたとしても追いつけるかどうか。
まるで風と一体化でもしたかのようにふわりと宙に浮び、あっという間に青く晴れた空の上へとその姿を消し去っていったのだった。
イグニスを振り切るほどの逃げ足の速さも驚愕すべきことだったが、もう一つ驚くべき事実がこの僅かな時間の中に隠されていた。
(私めの『眼』ではあの者の情報を看破できませんか。――あれは何者だ?)
眩い日の光を物ともせずにイグニスはローブ姿の男が消え去った空を暫くの間、眺め続けた――。
―――――――――――
「……ふう、危なかった危なかった。まさかあんなところに《
風に流されるまま首都ラビリントの外に着地したローブ姿の男――《流浪》は、額に滲んだ冷や汗を腕で拭って一息吐く。
イグニスから逃げ切れたのはまさに偶然と幸運が重なった結果だった。
炎竜族特有の焼け焦げた臭いを先に気付けていなかったら、と思うと今でも冷や汗が止まらない。
それほどまでに間一髪だった。いや、もしあそこでイグニスが後先考えずに動いていたら少なからず《流浪》はその正体を明かすことになってしまっていただろう。
それを踏まえると、イグニスの聡明さと冷静さに助けられたと言っても過言ではなかった。
イグニスと出会してしまったのは不幸だったという他にない。
しかも到着早々に発見され、追い払われてしまった。
だが、それでも収穫はあった。
「イグニス君があの屋敷の主を陰ながら守っていたということは、少なくともリディオ・リオルディは
そう独り言を呟いた《流浪》は全身に砂埃を含んだ風を纏うと、その場から颯爽と姿を消し、首都ラビリントを越えて北部にある森へと戻ったのであった。
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