第668話 逃した影

 宿の前で待っていたイグニスと合流し、一度部屋の中へ。

 マリーとナタリーさんには別室で待ってもらっている。二人に聞かせるような話ではないからだ。

 二人には別室で待機してもらい、それからリディオさんの周囲を見張っていたイグニスから話の詳細を訊く流れとなった。


「それでイグニス、怪しげな者たちが現れたって話だけど、何か被害は?」


 イグニスがリディオさんのもとから離れて報告に来たということは、まだ大きな危険が迫ってきているわけではないのだろう。

 そうは思いつつも、俺は心の中で僅かな焦燥感に駆られながらイグニスに質問をしていた。


「現状被害はございません。私めが思うに、今はまだ下調べの段階なのでしょう。相手は一定の距離を保ちつつ、リオルディ男爵のお屋敷の周辺を探っていただけで、すぐさま立ち去っていきましたので」


 優秀なイグニスのことだ。

 偶然や勘違いということはまず考え難い。

 となると、やはり何者かがリディオさんのことを付け狙っていると考えておくべきだろう。


 では、その者たちの狙いはというと、考えられるのは十中八九『銀の月光』に関係しているに違いない。

 リディオさんと『銀の月光』が契約を結んだことは、情報通なら既に聞き及んでいるはずだ。

 特にルミエールの正体を知っている者なら『銀の月光』の動向を逐一把握していてもおかしくはない。


 情報は既に広まりつつある。

 リディオさんに探りを入れてくる者がいても不思議ではない。

 わかりきっていたことだが、それほどまでにこの国におけるルミエールの存在は大きいということなのだろう。

 裏を返せば、ブルチャーレ公国はルミエールという竜族の存在に依存し過ぎている。


 別に彼女がブルチャーレ公国のために何かをしてくれるわけでもないのだ。

 にもかかわらず、ルミエールに執着しているのは単に竜族が自国にいるという安心感を得るためでしかない。


 謂わば、それは抑止力。

 ブルチャーレ公国はルミエールに抑止力として価値を見出しているのだ。

 そんなルミエールをリディオさんが独占しているように見えている今、ルミエールの正体を知る者たちはきっと面白くないと思っているはずだ。


 だが、一つだけ腑に落ちない点があった。

 ディアも俺と全く同じ結論に辿り着いたのか、僅かに首を傾げて口を開く。


「何でそんな回りくどいことを? もし知りたいことや聞きたいことがあるのなら、リディオさんを直接呼び出せばいいだけなのに」


 まさしくその通りだ。

 リディオさんは男爵。男爵が故に、まだルミエールの正体を知らされていなかった。

 そして、ルミエールの正体を知る者は極一部の上級貴族だけのはず。

 ならば、上級貴族としてリディオさんに招集をかければ、きっと断り切れずに招集に応じざるを得ない状況に追い込むことなど容易い。

 あとは簡単だ。招集に応じたリディオさんから根掘り葉掘り情報を聞き出せばそれで終わる。

 必要ならば、『ルミエールから手を引け』と要請という名の圧をかけてもいいだろう。

 いくら投資に熱心なリディオさんとて、流石に上からの要請を無下にすること考え難い。あっさりと手を引き、平穏な日常へと戻ろうと考えるだろう。


 しかし、そうはしてこなかった。

 わざわざ手間をかけて人員を送り込んできた。


 そこから導き出される現実味のある答えは一つ。

 いや、本当はもっと多くの答えがあるのかもしれないが、今俺がパッと思いついたのは一つしかなった。


「……呼び出したくても呼び出せない。呼び出したことが露呈することを恐れているんじゃないかな?」


 露呈することを恐れている理由まではわからない。

 けれども、俺の中でこの答えが一番しっくりきていた。


「うむ、それが妥当だと私も思うぞ。だが、犯人が誰なのかは全く見当がつかないが」


「わたしも全然。でも、ラフォレーゼ公爵って人じゃない気がするけど……」


 あれだけイグニスに絞られたのだ。

 肉体的なダメージこそ与えていなかったが、精神的にはかなり追い込まれたはず。

 しかも俺たちに顔を覚えられたともなれば、少なくともこの短期間でルミエールに再びちょっかいを掛けようとは思わないだろう。

 無論、ラフォレーゼ公爵が犯人である可能性はゼロとは言い切れないが、頭の片隅に置いておくくらいで問題はない。


 ともなると、犯人は別であると考えるべきだ。

 しかし、現状では特定することは難しいと言わざるを得ない。

 そもそも俺たちが知っている人物は極端に限られているのだ。見知らぬ人物が犯人である可能性が高い以上、見当などつくはずがない。


 と、ここでフラムがふとした疑問をイグニスに投げ掛ける。


「……む? イグニスよ、そう言えば何故その者たちを捕らえなかったのだ? 最悪でもその者共のねぐらを見つけることくらいお前ならできるだろうに」


 言われてみれば確かにそうだ。

 あのイグニスが怪しい人間を見つけておきながら、そうやすやす見逃すとは思えない。


 であれば、リディオさんの身の安全を優先したのだろう――そう思っていたのだが、イグニスから出てきた言葉は俺の想像とは全く異なる衝撃的なものだった。


「申し訳ございません。私めが不甲斐ないばかりに取り逃してしまいました」


「えっ?」


 思わず声が漏れ出てしまう。

 イグニスの性格を考えると、油断をしたなんてことはあり得ないからだ。

 無論、慢心もなければ、実力が不足していることもない。


 そんなイグニスから逃げ切れる者がいるとすれば、俺と近しいスキルを持った者か、想像もつかないほどの実力者となる。


 しかもそれが複数人。

 正直、俄には信じられない話だった。


 が、続くイグニスの言葉で俺は一定の納得感を抱くことになる。


「最初に発見した者たちは薄汚れた服を着た八人の男たちでした。リオルディ男爵のお屋敷の周辺をうろつくだけの金で雇われたであろう素人の集まりでしたので脅威度は低いと判断致し、無視を決め込んだのです。私めの存在がリオルディ男爵に気付かれてしまうことの方がデメリットが大きいとその時は判断致しました」


「ふむ。大方、貧民街に住む人間に金でも握らせて探りを入れて来いとでも言われただけだろう。何人何十人もの人間を介せば上に辿り着くことは難しいだろうからな」


「ええ。ですので、直接的な被害が及ばないのであれば、放置するのが最善だと愚考したのです。ですが、その後に現れた者が……」


 余程プライドを傷つけられたのか、イグニスの表情が僅かに歪む。

 後悔や羞恥の感情ではない。それは明確な怒りの感情だった。


「ふむ。ならば、その者に逃げられたというわけか。数は?」


「一人でございます。全身をローブで覆っており、後ろ姿しか確認できていないため、容姿は不明。背丈や体格からしておそらく男であることだけは間違いないかと」


「らしからぬミスをしたな、イグニスよ。ローブを羽織っていたなら燃やせばいい。振り向かないなら頭を掴み、首を捻ればいい。たったそれだけのこともできないお前ではないだろう」


「反論の余地もございません」


 臣下の失態に、珍しくフラムが辛辣な言葉を浴びせる。

 信頼しているが故の言葉なのだろうが、それにしてもフラムがここまでイグニスに対して叱責をしているところは見たことがなかった。


 だが、その言葉だけで心が折れるほどイグニスは弱くはない。

 ミスの中で得た僅かな情報をフラムとそして俺たちに伝える。


「その男には妙な点が一つございました」


「妙な点って?」


 イグニスとフラムの緩衝材となるためにディアが口を挟んで尋ねる。

 すると、イグニスは丁重にディアに頭を下げた後、こう言ったのであった。


「――その者から一切の臭いがしなかったのです。体臭も汗の臭いも何もかも。まるでそこに何者もいなかったかのように」

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