第666話 《流浪》
パオロに《流浪》と呼ばれた男は、窓から差す星空の明かりを浴び、その顔を覗かせる。
エルフ特有の長く尖った耳。
新緑の若葉を想起させる鮮やかな長い髪は緩いウェーブがかかっている。
背丈は成人男性の平均よりも少し高く、ローブ越しでも手足がスラリと伸びていることがわかる。
年齢は不詳。外見だけを見れば、その男の年齢はパオロと然程変わらない。
パオロの不機嫌な声に対し、《流浪》はその端麗な容姿を柔らかな笑みに作り変え、首を左右に振って優しい声色で答えた。
「違うさ、パオロ君。決して君を馬鹿にしに来たわけではないよ。今日、君のもとを訪ねたのはこれを届けるためさ」
そう言って男は腰にぶら下げた鞄を優しく叩く。
その鞄はただの鞄ではない。容量が拡張されたアイテムボックスだった。
「……チッ、今月分の支払いをしに来たってわけか」
パオロがラフォレーゼ公爵家の当主となった時に突然、ふらりと接触してきた正体不明の男。
この男のこそがパオロの懐事情をより豊かにしてきた協力者だった。
しかし、協力者とは言ってもパオロは未だに男の名すら知らない。
《流浪》とはこの男の渾名のようなものに過ぎず、パオロがあらゆる手を使ってその正体を探ったこともあったが、結果は空振り。
それでもパオロが如何にも怪しい《流浪》と手を組んだのは、ひとえにラフォレーゼ公爵家に莫大な利益を齎しているからだ。
「で、今月は何を持ってきた? 鉱物か? 魔石か?」
「今回は君から借りている密林で採れた希少な植物と魔石とかかな。魔石の方はAランク相当の魔物の魔石が五つとその魔物から採れた素材も持ってきたんだ。たぶんそれなりのお金になるんじゃないかな?」
パオロと《流浪》は協力関係であり、共存関係だった。
魔物が跋扈する、人の手が全く入っていない危険な密林地帯を《流浪》が借り受け、その見返りとして一月に一回、このように土地代として多額の金になる物資をパオロに支払うという契約を二人は極秘裏に結んでいたのである。
毎月恒例のやり取りということもあり、慣れた手つきで《流浪》は納品を済ませていく。
パオロの寝室に設置してある宝箱状のアイテムボックスに次々と物資を仕舞い、その様子をパオロが確認をしながら見届ける。
ここまではいつも通りの光景だった。
特に会話をすることもなく淡々と済ませ、《流浪》は風のように屋敷から出ていく――そう思っていたのも束の間、ふと《流浪》は納品の手を止めると、背中越しにパオロに話し掛けた。
「それにしても今日は随分と機嫌が悪そうだ。何か嫌なことでもあったのかい?」
「……何もねえよ」
一瞬の間と、明らかに覇気のない声。
いくら虚勢を張っていても、その声は何かあったと明確に告げていた。
「相変わらず見栄っ張りだね、君は。さっき自分で『痛い目を見た俺を馬鹿にしに来たのか?』なんてことを僕に言ってきたじゃないか。で、どうなんだい? 君は竜族に手を出してしまったんだろう? 折角の機会だ、感想を聞かせてくれないかい?」
パオロが炎竜族を手駒に加えようとしていたことを《流浪》は知っていた。いや、直々に聞かされていた。
その際、《流浪》はパオロの愚行を止めるためにも忠告を行っていたのだ。
――『必ず、痛い目を見ることになる』と。
その忠告を無視してパオロはルミエールの確保に動いた。
協力者からの忠告だろうと、所詮は竜族のことを何も知らない者の戯言だと無視したのだ。
無論、後悔をしていないと言ったら嘘になる。
されども、全てを失わったわけではない。
大公になる夢は遥か彼方に遠ざかってしまったが、四大公爵家の当主という地位は微塵も揺らいではいない。
「もうやめだ。これ以上竜族に関わろうものなら、破滅への道に足を突っ込むことになるだろうからな」
今回の一件を機に、パオロは竜族に手を出すのはやめると心の中で誓っていた。
メリットとデメリットが釣り合わないからだ。
地位も名誉も権力も大切だが、それ以上に自分の命が優先されるのは当たり前のこと。
もしまたルミエールに手を出そうものなら、次こそは殺されると確信めいたものをイグニスから感じ取っていたのである。
すっかり改心したパオロの様子に、《流浪》は僅かに顔を綻ばせ、満足そうに頷く。
「ああ、それがいい。竜族を人の身で制御できるとは到底思えなかったからね。でも少し意外だったよ。野心家の君のことだ、何が何でも手に入れようと無理をするんじゃないかと心配していたのさ」
「知った口を……。邪魔さえ入らなければ丸め込めた可能性も十分にあった! イグニスと名乗る竜族の野郎さえいなければ……ッ!」
怒りの矛先を《流浪》に向けるパオロだったか、当の本人はどこ吹く風とばかりに一切気にした素振りを見せない。
そればかりか、『イグニス』という名を訊いた途端、翡翠色の瞳を丸くさせていた。
「……イグニス。君は今、イグニスと言ったのかい?」
「あん? それがどうしたっつうんだ?」
パオロの問い掛けに《流浪》は何も答えずに、独り言をぶつくさと呟く。
「……《
「おい、何一人でごちゃごちゃ言ってやがる」
「ああ、ごめんごめん、ちょっと考え事をさ。それにしても君は運が悪かった……いや、むしろこうしてまだ生きているんだ、運が良かったと言うべきかな? 君は竜族の中でも、とりわけ手を出してはならない者に手を出してしまっていたのさ。今生きている幸運をしっかりと噛み締めた方がいい」
訳知り顔をまるで隠そうともしない《流浪》。
まるで全てを知っていると言わんばかりの数々の言葉に、パオロはついに強い強い疑問を抱く。
「……《流浪》。テメエ、何を知ってやがる。何を隠してやがる」
嘘を許さぬ真っ直ぐな眼差しに、《流浪》は爽やかな微笑を見せ、わざとらしいほどに肩を竦めた。
「君も知っての通り、僕は森のエルフたちと共にこの世界を謳歌したいだけのただの流浪の民さ。でも……君よりも少しだけ竜族のことを知っているのかもしれないね」
「それは世界中を旅していたからっつう意味か?」
「どう解釈するのも君の自由さ。ああ、そう言えば君に聞きたいことがあるんだ」
途中で話をはぐらかされてしまったものの、パオロは奥歯を噛み締め、それ以上の言及を避ける。
それは直感だった。
スキルに由来するものではなく、二十年という短い人生の中で得てきた経験による直感だ。
これ以上踏み込めば、ただでは済まない。
敵意も害意も見せていないにもかかわらず、《流浪》から放たれる謎めいた雰囲気から直感が働いたのである。
「……聞かせてみろ」
故に、パオロは柄にもなく素直に《流浪》の問いに応じた。
「風の噂で聞いた話なんだけど、どうやらラバール王国の国王に何度か暗殺者が差し向けられたそうだね。もしかして――犯人は君かい?」
あまりにも直球過ぎる物言いに、パオロは無意識下で瞬きを繰り返していた。
四大公爵家の当主である自分に対し、無礼にも容疑をかけてきたのだ。
これまで《流浪》とは対等に近い関係を築いてきたとはいえ、その衝撃は計り知れないものがあった。
もはや怒りの感情すら湧いてこない。
ズキリと痛み出した頭を押さえ、パオロは酷く疲れ切った声で返事をする。
「……意味が分からねえ。どうして俺がラバールの国王を殺す必要がある? ラバール王国はシュタルク帝国に対抗するために必要な
「あはは……疑って悪かった、すまない。僕はてっきり君が暴走でもしたのかと疑ってしまったよ。うんうん、そうか……。君は王になりたいと願っていた。そんな君が、シュタルク帝国が世界の覇権を狙う今、ラバール王国との亀裂を望むわけがないか」
勝手に疑い、勝手に納得する《流浪》に、パオロは苛立ちをぶつけはしなかった。その代わりに、パオロは強かに情報を迫る。
「俺はテメエに正直に答えてやったんだ。次はテメエが俺の質問に答えるのが筋なんじゃねえか?」
「うーん……そうかもしれないね。良いよ、僕が答えられる質問なら答えてあげるよ」
「なら、遠慮なく訊かせてもらうぜ? やけに竜族について詳しいようだが――テメエは何者だ? テメエは一体、何を企んでやがる」
途端、《流浪》の双眸に怪しげな炎が灯る。
柔らかな表情はそのままに、それでいて何処となく不気味さを漂わせ始めた。
「まずは後者の質問に答えてあげるよ。僕は何も企んでいないよ。ただこの世界の平穏を望んでいるだけさ」
そう《流浪》が答えるや否や、寝室の中にそよ風が流れ始める。
全てを優しく包んでくれる暖かな風。
否応なく眠気を誘う魔性の風だった。
急速にパオロの意識が霞み始める。
ベッドに腰を掛けながら頭を前後にゆっくりと動かし、船を漕ぎ始める。
そして、パオロの意識が途絶えるその刹那、《流浪》の声が鼓膜を優しく打った。
「――僕の正体がそんなに気になるのかい? そうだね……風の一族とでも言っておこうかな。君が望ん……いた……族の……」
その声を全て聞き届ける前に、パオロの意識は深い深い暗闇の中に落ちたのであった。
ベッドで横になったパオロを尻目に、《流浪》は屋敷を去ろうと踵を返し、最後に誰も聞いていない別れの言葉を残す。
「すまないね、パオロ君。今宵の記憶の一部を
申し訳なさそうにそう言い残すと、《流浪》は風と共にその姿を消したのであった――。
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