第655話 深淵迷宮へ

 リディオさんとの約束の日が訪れる。


 空は仄かに薄暗く、眠気がまだ完全に抜け切っていないのか、マリーは欠伸を噛み殺して瞳に涙を浮かべていた。

 だが、それはほんの数分前の話。

 ダンジョンの入り口であり、待ち合わせ場所でもある巨塔ジェスティオーネに近づくにつれ、マリーの瞳に活気が宿り、今となっては期待と好奇心で身体をソワソワさせている。


 そんなマリーとは対照的に、ナタリーさんの表情はどこかぎこちない。

 期待と不安の狭間で感情が揺れているのか、マリーとは違ったソワソワ感を見せている。


「緊張してる? もしダメそうだったらすぐに言ってね。無理をさせるつもりなんてないから」


 誰よりも先にナタリーさんを按じてディアが声を掛けると、徐々にナタリーさんの表情にいつもの柔らかさが戻っていく。


「ありがとう、ディアちゃん。でも大丈夫よ」


「お母さん、ダンジョンに行くの怖いです?」


「怖くないと言ったら嘘になっちゃうわね。でも、それ以上に楽しみにしてるの。ダンジョンってどんな場所なんだろうって。マリーだってそうでしょう?」


「はいですっ」


 ちょっとした会話のやり取りでナタリーさんは迷いを完全に吹っ切ったようだ。


 ダンジョンに危険は付き物。

 冒険者じゃなくても大人なら誰もが持っている認識だ。

 だからこそ俺は当初、ナタリーさんとマリーを連れて行くつもりなど毛頭なかった。

 旅行中ではあるが、今日一日だけは俺たちの我が儘を優先させてもらい、二人には留守番をしてもらうつもりだった。


 だが、ダンジョンの下見から帰ってきたイグニスの報告で大きく風向きが変わったのである。


 ――ダンジョンの低層に危険はない。


 そう報告を受けたことが、二人をダンジョンに連れて行く切っ掛けとなったのである。


 もう一度言うが、俺には二人をダンジョンに連れて行こうと思うことはなかった。

 二人は大事な家族だ。怪我をさせる可能性が僅かでもあるのなら、忌避感を持つのが普通だろう。

 それに当然のことながら、二人には戦う力がないのだ。コブリン単体を追い払うことだって二人にはできやしない。

 無論、低級の魔物に遅れを取る俺たちではないが、それでも俺は徹底的にリスクを排除する意思をその時までは固めていた――つもりだった。


 が、イグニスからの報告を宿のリビングで聞いていたところを偶然マリーに目撃されてしまったことで、流れが大きく変わってしまった。


 寝ぼけ眼を擦ったマリーから羨望の眼差しを受けてしまえば、俺の意思だって揺らいでしまうというもの。

 加えて、マリーの背中を後押しするように、その場に同席していたフラムから『連れていってあげればいいではないか。家族旅行なのだろう?』と言われてしまえば、もはやお手上げするしかなかった。


 そんなこんながあって、その後二人の意思を確認した結果、同行することに決まったのである。


「今回の目的は戦うことじゃない。リディオさんと一緒に冒険者たちを見定めることが目的だ。でも、もしかしたら戦わなきゃいけない場面が訪れるかもしれない。皆、気を引き締めていこう」


「うん。何があっても二人のことは絶対に守るから」


「なあに、私がついているのだ。何者にも触れさせはしないぞ」


 そう言って皆の気を引き締め、俺たちは巨塔ジェスティオーネの中へと入っていったのだった。




 待ち合わせの時刻まで後三十分以上残っている。

 にもかかわらず、リディオさんは俺たちよりも先に到着していた。


「コースケさん、ディアさん、イグニスさん!」


 爽やかな笑みを見せ、俺たちに向かって大きく手を振るリディオさん。

 そんな彼の格好は貴族のそれとは大きくかけ離れていた。

 腰には一本の剣を、肩と胸は使い込まれていながらも美しく磨き上げられた鎧で守られており、その格好は歴戦の上級冒険者を想起させる。


 手を振り返しながらリディオさんの周囲に目を向ける。

 やはりと言うべきか、リディオさんにも俺たちと同じく同伴者がいるようだ。

 ただし、同伴者と言っても俺たちとは趣旨が大きく異なる。

 観光を兼ねてナタリーさんたちを連れてきた俺たちに対し、リディオさんの同伴者は戦力として連れて来られたようだ。男爵という身である以上、護衛がいるのは当然だろう。

 数は三人。二十代半ばの男性が三人だ。

 統一感のない格好からして騎士や私兵といった感じではなく、まず間違いなく冒険者だろうことがすぐにわかった。

 三人の男性は無言で俺たちに会釈し、リディオさんの左右・後方にそれぞれ配置につく。


「おはようございます、リディオさん。今日という日を待ち侘びていました」


「私こそこの日をどれだけ待ち侘びていたことか。早速ですが、ダンジョンに入る前に、まずは簡単な自己紹介を済ませてしまいましょう」


 その後、リディオさんから護衛として連れてきた三人組の護衛を紹介してもらう。

 彼らは俺の予想通り冒険者だった。

 ランクはC。リディオさんが支援という名の投資を行っている冒険者パーティーの一つとのことだ。

 今日のためにわざわざ予定を空けてもらって、依頼料を支払って護衛として連れてきたらしい。


 リディオさん側の紹介が終わり、俺たちの番に。


「イグニスではなく、わ・た・しが『紅』のフラムだ。よろしく頼む」


 イグニスが俺とディアのパーティーメンバーだと思われることを嫌ってか、妙に強めの自己主張を行うフラム。

 その感情は嫉妬に近い。フラムからしてみれば、自分の臣下に立場を奪われてたまるかという想いがあったに違いない。


「お話はコースケさんから伺っていましたが、やはりフラムさんもお強いようで」


「当然だ。私は最強だからな」


「それは心強いですね」


 おそらくリディオさんは冗談半分に捉えていることだろう。

 自分で自分のことを最強と呼ぶなど余程の自信家か自惚れ屋のどちらかだ。フラムの言葉を鵜呑みにする人なんてまずいるはずがない。


 だからこそ、余計にたちが悪い。

 もしここでフラムに嘲笑を向けていれば、どうなることかわかったものでないからだ。

 その点、リディオさんの返答は満点だと言えよう。

 本人の預かり知らぬところで、リディオさんは窮地を脱したのであった。


 ナタリーさん、マリーと自己紹介を終え、いよいよ俺たちはダンジョンへ続く列に並んだ。

 まだ夜が明けて間もない時間だというのに、ダンジョンの入口前では多くの人が列を成している。


「これは……すごい人の数ですね」


「ええ。『深淵迷宮』は世界最大のダンジョンとして有名ですから、毎日のように多くの冒険者で賑わっているのですよ」


「これだけ多くの冒険者がいるなら、一人くらい眼鏡にかなう冒険者を見つけられるかもしれません」


「だと良いのですが、この数を一人ひとり確認していくのは流石に骨が折れますので、まずは十階層にあるボス部屋まで向かいましょう。それだけでもある程度の冒険者をふるいにかけられますから」


 そんな他愛もない話をしながらも、俺は『観測演算オブザーバー』を断続的に使用。『銀の月光』が巨塔ジェスティオーネの中にいるのか確認を繰り返していた。


 ここまでは大方、予定通りの流れだ。

 あとはダンジョンの十階層にあるボス部屋の前で偶然を装い、リディオさんに『銀の月光』へ声を掛けるように仕向けるだけ。もちろん、このことはイグニスを通して『銀の月光』に伝えてある。


 が、今のところ『銀の月光』の気配がどこにも見当たらない。

 予定している時刻は今からおおよそ二時間後。

 イグニス曰く、一時間もあれば簡単に十階層まで辿り着けるとのことで、少し余裕をもたせて二時間後に設定したとのことだ。


 未だ『銀の月光』の姿は確認できないが、まあ心配はいらないだろう。

 Sランク冒険者であり、かつルミエールまでいるのだから、多少出発が遅れたところで容易に時間を取り戻せるはずだ。

 そう自分に言い聞かせながら話を続けていると、その直後、リディオさんから予想だにしない発言が飛び出す。


「他のダンジョンとは比較にもならないほど広いダンジョンとはいえ、既にマッピングは済ませてありますから、十階層と言ってもそう時間は掛かりませんので、ご安心をください。そうですね……ざっと三時間程度でしょうか」


「……えっ? さ、三時間!?」


「ははっ、大船に乗ったつもりでいてください。最短最速で皆さんを十階層までご案内致しますので」


 リディオさんの笑顔からは自信のようなものが満ち溢れていた。

 その様子からして間違いない。

 リディオさんは俺がもっと到着まで時間が掛かると思っている、そう勘違いしているのだ。


 予定の時刻まで約二時間。

 俺は心の中で未だに姿が見えない『銀の月光』に深い深い謝罪をしたのであった。

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