第654話 兄竜の誘い

 敵意をまるで隠そうともしないオリヴィアの厳しい眼差しを受けてもなお、イグニスの態度は微塵も変わらない。


「剣筋は鋭かったですが、些か真っ直ぐ過ぎましたね。それに予備動作も大きい。それらを改善すれば、より強くなれるでしょう。――っと、これは失礼。自己紹介が遅れてしまいましたね。私めの名はイグニスと申します。以後、お見知りおきを」


 割れたガラス窓を跨ぎ通り、堂々と部屋の中に入り込んだイグニスは背筋を正し、優雅に一礼する。

 その間にも、オリヴィアとノーラは警戒心を緩めることはない。

 いつ如何なる時でも戦闘に入れるように、オリヴィアは剣を構え、ノーラは体内で魔力を練り続けて解放の瞬間をうかがう。


 一方、ルミエールだけは違った。

 頭の上から被っていた掛け布団を剥ぎ取ると、瞳孔を大きく開き、身体を硬直させる。

 呼吸は乱れに乱れ、上手く声を上げることもできない。

 状況がまるで掴めず、完全にパニックに陥っていたのだ。


 緊迫した空気が部屋中に張り詰める。

 まさに一触即発の雰囲気だった。

 イグニスが今の位置から少しでも動こうものなら、容赦なくオリヴィアとノーラの苛烈な攻撃がイグニスを襲うだろう。

 瞬き一つせず、二人は微笑を浮かべるイグニスをきつく睨みつける。


 だが、イグニスはそんな二人の視線を受けても意にも介さない。

 不思議そうに首を傾げ、オリヴィアとノーラから視線を外し、ソファの上で固まっているルミエールに視線を向けた。


「……なるほど、どうやら御二方は私めのことを教えられていなかったようですね。であれば、まずは誤解を解く必要がありますか」


「何の話をしている? それに誤解だと? 貴様は私たち『銀の月光』が泊まる部屋に侵入した不埓者……それ以外の何者でも――ないっ!」


 爪先に力を込め、床を踏みしめたオリヴィアが跳躍する。

 瞬く間にイグニスとの距離が縮んでいくその最中、オリヴィアは英雄級ヒーロースキル『多重幻影』を発動。

 二つの分身体を生み出し、イグニスの正面と左右から同時に攻撃を行う。


「誤解を解かせていただきたかったのですが、仕方ありません」


 分身したオリヴィアはその右手に握る剣にそれぞれ風を纏わせる。

 そして、斬撃に風刃を付与することで殺傷能力を高めたオリヴィアの渾身の斬撃がイグニスを襲う。

 が、オリヴィアの斬撃がイグニスに届くことはなかった。


「見事な幻影でした。ですが、所詮幻影は魔力の塊に過ぎません。たとえそこに仮初めの気配があろうと、見分ける方法などいくらでもございます」


 右方向から迫って来ていた剣を、手袋をつけた二本の指で軽々と掴むイグニス。

 正面と左方から迫っていたオリヴィアの幻影は、イグニスによって炎に包まれ、既に消し去られている。

 オリヴィアが剣に纏わせていた風もイグニスが生み出した炎の餌食となり、燃え尽きていた。


「くっ……!」


 奥歯を噛み締め、剣を握る手にいくら力を加えようとも微動だにしない。

 あまりにも格が違う。次元が違い過ぎた。

 圧倒的な力の差を見せ付けられたことで、オリヴィアはようやく剣に込めていた力を抜き、本当の意味でイグニスとの対話に応じる姿勢を見せる。


「……もう一度問おう。貴様は何者だ?」


「話をお聞きくださり、感謝申し上げます。私めのことでしたら、そこで情けなく固まっている軟弱者に訊くのが早いかと」


 仲間を『軟弱者』と謗られ、怒りが再沸騰しかけるが、そこでようやくオリヴィアはルミエールの様子がおかしいことに気付く。

 よくよく考えてみると、『おかしい』というレベルの話ではない。もはや異常とでも呼ぶべき状況だった。

 ルミエールの性格をよく知っているからこそわかる。

 いつもの彼女であれば、侵入者が現れた時点で誰よりも先に動き、侵入者をこっ酷く打ちのめしていたに違いない。


 しかし、ルミエールは動かなかった。

 動かないだけではなく、酷く怯えた素振りを見せていた。

 恐怖を知らないと思っていた彼女が声も上げられぬほど、酷く怯えていたのだ。


 異常としか言えぬ事態に気付き、オリヴィアとノーラはイグニスから視線を離し、未だに固まり続けているルミエールを見つめた。

 ルミエールは仲間たちの視線を受け、今さらながらに冷静さを取り戻し、彼女らしからぬ萎れた声を上げる。


「す、すまない……。我の兄上なんだ……」


「……兄上? ……そういえば、前に兄妹がいるみたいなことを言ってたっけ? ……なんだ、だったら早く言ってくれれば良かったのに。……ルミエールの様子がおかしくて少し心配したけど、それなら良かった」


 ノーラはあやふやな過去の記憶を遡り、ルミエールの兄の存在を思い出す。

 その一方でオリヴィアは、腑に落ちたと言わんばかりに一度頷き、盛大なため息と共に全身の力を抜いた。


「ルミエールの兄上殿とは知らず、失礼なことをした。何とお詫びをすればいいか……」


「お詫びなど必要ございません。元より誤解を招くようなことをしてしまったのは私めの失態です。それに、日頃から愚妹の面倒を見てくださっている御二方には感謝しかございません」


 イグニスはそう言って『わざとではない』ことを遠回しに主張したが、真実は異なる。


 彼は試したのだ。

 己の妹と共に冒険者として活動する『銀の月光』の実力を。

 そこに邪な気持ちなどは微塵も含まれていない。彼の中にあったのは純粋な好奇心と、ルミエールを仲間に引き入れた二人の胸のうちだ。

 ルミエールが友として、仲間として認めた人間の実力がどの程度なのか。

 何故ルミエールが彼女たちと行動を共にするようになったのか。

 そして、彼女たちの中にルミエールを利用しようとする思惑があるのか。


(どうやら彼女たちの実力に惹かれたというわけではなかったようですね。であるならば、純粋に人柄を評価したと見るのが妥当でしょう)


 もしオリヴィアとノーラの中に、ルミエールに付随してくる竜族としての価値を利用しようという思惑が少しでも垣間見えたのなら、イグニスは容赦なく彼女たちに罰を与えただろう。

 だが、オリヴィアの性格を表すかのような真っ直ぐな剣筋や、ノーラのルミエールを思いやる言葉は、イグニスが合格点を与えるのに十分な言動を示していた。


 彼女たちの預かり知らぬところで、イグニスによる採点が終わる。

 二人からしてみれば、いい迷惑でしかなかったが、結果として失格の烙印を押されなかったことはまさに僥倖と言ってもいいだろう。


 張り詰めていた空気が弛緩したところで、オリヴィアが疲れ切った声音で、こう提案する。


「ひとまず部屋を片付けよう……」


 こうして、床に散らばっていた割れた窓ガラスや部屋に飾られていた調度品の片付けが始まったのであった。




 片付けが終わり、全員がテーブルに着く。

 未だにルミエールの顔色がやや青褪めたままであったが、誰も指摘することなく話し合いが進む。


「それでイグニス殿、わざわざ私たちの部屋を訪れたということは何か私たちに用件があるのだろうか? もしルミエールだけに用があるというならば、席を外させてもらうが」


 口下手なノーラでも、妹であるルミエールでもなく『銀の月光』のリーダーであるオリヴィアが代表してイグニスに問い掛ける。

 今となってはその眼差しに嫌悪感はない。ただし、若干の警戒心だけが残っていた。


「いえ、是非ともお残りください。この度は『銀の月光』の皆様の現状を打破するために、とあるご提案を致したく参上した次第でございますので」


「現状を打破? 一体何のことだか――」


 ラフォレーゼ公爵にちょっかいを掛けられていることをひた隠しにするために、オリヴィアは惚けようと試みるが、即座にイグニスによって遮られる。


「ラフォレーゼ公爵のことでございますよ。皆様が面倒事に巻き込まれていることは愚妹より聞き及んでいます。愚妹のせいで御二方にご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ございません」


 頭を下げることなく、そう謝罪をしたイグニスに対し、オリヴィアは険のある表情を面に出す。それはそれまで眠たげな表情をしていたノーラも同じだった。


「すまないが、イグニス殿。いくら兄妹とはいえ、私たちの仲間を愚妹と呼ぶのはやめていただきたい」


「……うん。……ちょっと許せないかも」


(人を見る目がないのではないかと疑っていましたが、どうやら良き仲間に巡り逢えたようですね)


 満足げな表情をイグニスが面に出すことはなかったが、その心の中では小さな笑みを浮かべていた。


「ご不快に思われたのでしたら、申し訳ございません。では、これからはルミエールと呼ぶことに致しましょう」


「ええ、そうしていただきたい。イグニス殿がルミエールから私たちの置かれた状況を耳にしたことまでは理解した。その上で私たちに提案――いや、解決案があると?」


「ご明察の通り、解決策を持参致しました。もちろん、今から話す解決案をお受けするかどうかは皆様にお任せ致します。ですが、これだけは覚えておいてください。この機を逃せば、皆様は未来永劫、籠に囚われたままになると。そして金輪際、私めが仕える方々が貴女方に手を差し伸べることはないと」


 もはやそれは提案ではなく、脅しだった。


 そしてイグニスは語り出す。

 『銀の月光』がラフォレーゼ公爵から逃れるための術を、常識破りの悪魔じみた強引な一手を、彼女たちが断れないよう言葉巧みに語っていった――。

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