第641話 一滴のシミ
ブルチャーレ公国首都ラビリント。
世界最大のダンジョンの真上に造られたこの都市は、どの貴族の領地にも属さず、国家単位で管理する独立した土地となっていた。
故に、ラビリントには有力貴族の別邸が多く建てられている。
それは四大公爵家とて同じ。屋敷の大小や立地に差異こそあれど、『四公会議』が開かれるこの地に別邸を所有していない公爵家はない。
中でも、パオロ・ラフォレーゼ公爵が所有する屋敷は別格。
敷地面積はもちろんのこと、屋敷の外装から内装、飾られている調度品の数々には贅の限りが尽くされており、今代の大公であるヴィドー公爵家の屋敷を遥かに超える造りとなっていた。
そんなラフォレーゼ公爵家の屋敷で今日、他の四大公爵家を除く有力貴族や大商人、はたまた有望な冒険者を集め、盛大な晩餐会が催されることになっている。
その晩餐会に『銀の月光』は嫌々ながらも断り切れず、仕方無しに参加することに決めていた。
「ノーラ、ルミエール、着替えは済んだか? もうあまり時間はないぞ」
「ご丁寧なことに、こんなドレスまで貰えるなんてね……。ほんとにありがた迷惑だよ……」
パオロから一方的に届いた数々の贈り物の中に、晩餐会のために用意したのであろうドレスが混ざっていたのだ。
気味が悪いことに届いた三着のドレスはどれもサイズがピッタリ。
オリヴィアには銀の髪が良く映える漆黒のドレスが。
ノーラにはスカイブルーの髪色に合わせた淡い青色のドレスが。
そしてルミエールには炎を想起させる真紅のドレスが届けられていたのであった。
「ドレスというものを初めて着たのだが、かなり動きにくいのだな。これでは戦闘に支障をきたしてしまいそうだ」
「晩餐会は戦う場所じゃないし、戦うような場面も訪れないからね……?」
「ノーラの言う通りだ。今回、私たちは招待客。むしろ守られる立場にあるんだ。粗相のないように黙って時が過ぎるのを待っていればいい」
オリヴィアは涼やかな顔をして、遠回しにルミエールへ忠告を行う。
人間の世界の常識は粗方ルミエールに叩き込んである。
しかし、その内心は不安で満たされていた。
何せ、相手は貴族や大商人など、この国を牛耳っていると言っても過言ではない大物ばかり。もし粗相があろうものなら、この国での冒険者活動を妨害されかねない不安があるからだ。
不安はそれだけではない。
これまでの動向からパオロがルミエールを狙っていることはオリヴィアの目から見ても明らか。
ルミエールを取り込もうと強引な手段に出て来る可能性をオリヴィアは心の底から危惧していたのだ。
(大丈夫なはずだ……。ルミエールなら金で靡くことも暴力に屈するもない。私たちが大人しくしていれば、きっと……)
迎えの馬車に揺られ、『銀の月光』はラビリントの北の一画にやってきていた。
高級住宅街と言うべきこの一画には、ほんの一握りの金持ちだけが住まうことの許される巨大な屋敷が建ち並んでいる。
だが、そんな中でもラフォレーゼ公爵家の屋敷は別格だった。一線を画していた。
高く厳重な鉄柵に囲まれた広すぎる庭。
そこには魔道具の光によって照らされた噴水が存在感を主張し、その周囲には様々な形を模した彫像がいくつも設置されている。
そして、広大な庭の先にあったのは黄金の館。
文字通り建物全体が金色によって染められており、見た者を圧倒する。
ここまで来ると、もはや成金趣味だと馬鹿にすることすらもできない。
ラフォレーゼ公爵家には途方もない財力と、黄金の館に住まうのに相応しいと自然に思わせる格式を備えていたのだ。
馬車から降りた『銀の月光』は、出迎えに来た老執事に案内されるがままに中へと通され、巨大なニ枚扉の前に立たされる。
「今宵はご満足のゆくまま、お楽しみ下さいませ」
その言葉が合図になっていたのか、巨大なニ枚扉が音を立てずにゆっくりと開かれていく。
扉の隙間から眩い照明の光が漏れると、そのすぐ後から複数の笑い声が彼女たちの耳に飛び込んで来る。
「これは……すごいな……」
目の前に広がる光景にオリヴィアは語彙力を失い、思わず感嘆の声を漏らす。
広く豪奢な晩餐会の会場。
そこではブルチャーレ公国に限らず世界中で名を轟かせている多くの著名人が、軽食やワイングラスを片手に談笑を繰り広げていたのだ。
(かの有名な歌劇団のスターに、天才と謳われる画家まで……。一体、ここにはどれだけの著名人が集まっているんだ?)
オリヴィアを先頭に、恐る恐る会場の中に足を踏み入れた。
曲がりなりにも『銀の月光』はSランク冒険者。当然のことながら、顔も名もそれなりに知れ渡っている。
にもかかわらず、会場に姿を見せた彼女たち三人に視線が集まることはない。
それが示す意味は、Sランク冒険者パーティー『銀の月光』の彼女たちでさえも、この場に於いては有象無象の一人でしかないということに他ならない。
だが、そんなことでオリヴィアが肩を落とすことはなかった。
むしろ注目されない分、心に余裕が生まれ始める。
狭窄していた視野が広がったことで、招待客一人ひとりの顔を確認できるようになっていた。
「冒険者だけでも錚々たる顔ぶれが並んでいるな」
ぽっかりと空いていた場所に移動した三人は、周囲に合わせるように見様見真似でワイングラスを片手に語り合う。
「私たち以外のSランク冒険者パーティーが二組、後の五組はAランクだったはず……」
「よく顔なんて覚えていられるな。我にはさっぱりだ」
そう興味なさそうに言ったルミエールは、グラスに入った赤い液体をぐびりと一気に飲み干す。
すると、ワイングラスを乗せたトレーを片手に、その姿を見ていたメイド服を着た給仕がルミエールに近付く。
と、その時だった。
「――きゃっ!」
足をもつれさせたメイドが悲鳴を上げ、大きくバランスを崩す。
そして、ガシャンと大きな音を立てて、床にグラスの破片とその中身をぶちまけてしまう。
「ん? 大丈夫か?」
音を聞きつけ、多くの視線が集まる中、ルミエールはそれらをまるで気にすることなく、自分のすぐ後ろで青褪めた顔をして立ち尽くしていたメイドに声を掛けた。
「も、申し訳ございませんっ!!」
「謝られるほどのことではないが……」
身体を大きく震わせ、ルミエールに深々とメイドは頭を下げ、謝罪する。
顔から完全に血の気が引いており、明らかに恐怖によってその小さな身体を震わせていた。
「い、いえ……おっ、お召し物にシミが……」
ルミエールが着ている真紅のドレスの裾には、床に落ちた衝撃で飛び散った一滴の赤いシミができていた。
「シミ? ああ、別にこの程度であれば目立たんし、気にすることはない」
ワインと同系色のドレスだったことあり、目を凝らして見なければ気付かない程度の小さなシミ。
おしゃれに無頓着なルミエールにとっては、どうでもいいことでしかなかった。
だが、客人のドレスを汚してしまったメイドからしてみれば、そのままにすることは許されない。
今宵の晩餐会の主催者であり、主人であるパオロの顔を汚すことにもなりかねない大惨事を起こしてしまったのだ。
決して比喩などではなく、首が飛ぶことになってもおかしくはなかった。
「すぐに替わりのドレスをご用意致しますので、どうぞこちらに」
「いや、だからだな――」
面倒事を嫌ったルミエールが断りを入れようとするが、それにオリヴィアが待ったを掛ける。
「ルミエール、面倒かもしれないが、行ってあげてくれ。それが彼女のためになるはずだ」
メイドの必死の形相で事情を察したオリヴィアがルミエールを諭し、着替えに行くことを勧める。
その後、盛大なため息を吐きつつも、ルミエールは大人しくメイドに連れて行かれ、一時的に会場を後にしたのであった。
「……やれやれ。ルミエールにとっても、メイドの女性にとっても、とんだ災難に遭ってしまったな」
「メイドの人は自業自得な気もするけど……。それよりもルミエールを一人にして良かったの……? 私たちもついていった方がよかったんじゃない……?」
のんびりとした口調で辛辣な意見を口にしたノーラに、オリヴィアは苦笑いを向ける。
「着替えるだけだ。それにルミエールだって日々成長している。すぐに帰ってくるさ」
この時、オリヴィアは油断してしまった。
この場の雰囲気に慣れてきていたが故に、致命的な隙を晒してしまった。
それから約三十分後。
オリヴィアはあの時の判断を大きく悔やんだ。
「……やられたっ。あのメイドの失態は仕組まれた罠だったとでも言うのか」
会場の最奥に設置された螺旋状の階段から主催者であり、金色の館の主人であるパオロ・ラフォレーゼが盛大な拍手に迎えられながら姿を現す。
――その傍らに戸惑うルミエールを連れて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます