第629話 動乱の時代へ

「反乱の兆しもないようだし、戦果としては上々ね」


 上がってきた報告書に目を通し終えたアーテが艶やかな微笑みを浮かべ、テーブルの上に置いてあったワイングラスに付着していた紅を指先で優しく拭う。


 此度の戦争により、シュタルク帝国はマギア王国の実に三分の二の領土を奪うことに成功した。

 都市や街などの占領は既に完了しており、残すは僻地のみ。現時点で約七割の支配が完了したと言える状況まできていた。


 大きな反抗も反乱もなく、ここまでスムーズに占領が行えていたことには、シュタルク帝国軍に厳命したアーテの掌握術があってこそだった。


 その命令内容は、大きく分けて二つ。


 一つは、一般市民への略奪及び殺生の禁止。

 アーテは恐怖による支配を良しとしなかったのである。

 恐怖で人の心と身体を縛るのは簡単だ。軍事力に長けているシュタルク帝国ならば、最も確実で手っ取り早い方法だと言えるだろう。

 しかし、此度の戦争でシュタルク帝国はその版図を大幅に拡大した。監視の目が全域に行き届かないほどに。


 いくらシュタルク帝国が大多数の兵を抱えているとはいえ、その数には限りがある。

 反乱を収められるだけの実力を持った個人に限れば、その数は極少数限られてきてしまう。

 そうなると必然的に反乱が起きた場合には軍もしくは部隊単位での対処が必須。

 すると、ここで版図を拡大した弊害が生まれてしまう。

 軍を動かすだけでも一苦労。新たに得た領土の端から端まで軍を移動させるのに数週間もの時間を要してしまうことになる。


 他国とは比べ物にならないほどの潤沢な資金がある故に、軍費に関しては然程苦にはならない。

 だが、軍を動かす手間や長期的な統治の面を考えると、恐怖による支配は不満が爆発するリスク等を踏まえ、割に合わないとアーテは考えていたのである。


 よって、アーテはシュタルク帝国軍にもう一つの命を与えることにした。

 その命とは、マギア王国民に極上の飴を与えること。

 鞭ではなく飴を与えることで、大なり小なり貴族に対する不満を抱えてきたマギア王国民を手懐ける方策を取ったのである。


 つまり、アーテはマギア王国民に選択を迫ったのだ。

 マギア王国民として有り続けるか、裕福なシュタルク帝国民として生きていくのか、と。


 帰属意識を持つ者の意思を変えることは当然難しい。

 しかし、そこで飴を与えるとどうなるか。

 食糧を与え、安全を与え、職を与え、税を減らし、蜜の味を覚えさせる。

 その蜜の味を知ってしまえば、元に戻れるはずがない。

 より良い暮らしを望まぬ者などいるはずがない。


 人間が欲深い生き物であることを誰よりもアーテは知っている。そうなるように人間を創った神の一柱だったのだから。


「甘い甘い蜜に引き寄せられるひと。ふふふ……なんて愚かで、なんて愛おしいのかしら。でも、それでいいのよ。敗者には退場をしてもらわないと、せっかくの遊戯ゲームが台無しになってしまうもの。――ああ……本当に楽しくなってきたわ。これでようやく世界がまた一歩動き出した。私が手塩にかけたシュタルク帝国がこの世界の覇権を握るのか、それとも人の飽くなき欲が帝国わたしを打ち破るのか。ああ……待ちきれないわ」


 恍惚な顔をそのか細い両手で覆い隠しながら、アーテは愉悦に浸ったのであった。


 ―――――――――


 ――マギア王国侵攻計画。


 十年以上の準備期間を費やし、実行に移されたこの計画は当初の予定通りに事が進み、アーテを満足させるのに十分な成果を挙げていた。


 しかし、現場にいた《四武神アレーズ》は違う。

 アーテとは異なる感情を抱いていた。

 とりわけ、総指揮官に任命されていたセレーメは腸が煮えくり返るほどの憤怒・憎悪・恥辱の感情をマギア王国に、シュタルク帝国軍に、そして自分自身に抱いていた。


 元より本計画の目的は、国王アウグストの殺害、人的資材並びに研究成果の確保、それからマギア王国王都ヴィンテルより東の領土の掌握にあったことはセレーメも理解している。


 つまるところ、目的は達せられているのだ。

 むしろ、王都ヴィンテルより西の領土まで占領できたことを考えると、目標以上の成果を手にしたとも言えるだろう。


 だが、それでもセレーメの怒りは鎮まらない。

 半焼し、その美しさに影を落とした白銀の城のとある一角で戦後処理に追われながらも、セレーメは今もなお、成果以上の失態を犯したと自分自身を責め続けていた。


「クソがクソがクソがクソが……」


 ディアに敗北を喫したこと、水竜族の介入もあり、追撃の手が及ばずカタリーナを逃したことなど、失態を挙げるときりがない。


 整えられた戦場で確実な成果を挙げるだけのはずだった。

 容易に名声や名誉を得られるはずだった。

 だが、最終的に彼女の手の中に残ったのは汚名のみ。

 たとえ敬愛する主神が失態に対して何の感情も抱いてなかろうが、セレーメは己を許すことができなかった。


 この汚名を、この屈辱を晴らす方法は一つしかない。


「あのクソ共だけは必ず私の手で殺してやる」


 セレーメは誓う。

 募りに募ったありったけの憎悪を、ありとあらゆる手段を用いて彼の者たちコースケたちにぶつけ、晴らすことを。


 だが今はまだその時ではない。

 来るべき時まで我慢しなければならない。


 マギア王国との戦争で勝利することは始まりに過ぎず、この国に於ける彼女の仕事はまだまだ残されているのだから。


「水竜族の動向調査に、アレの破壊もやらなきゃならねぇ。チッ……クソ鼠共が。クソ面倒なものを残しやがって」


 全く意図せずに『七賢人セブン・ウィザーズ』はシュタルク帝国にとって決して放置することのできない厄介な置き土産を残していたのだ。


 その置き土産こそが、各地に設置されている転移門である。

 警戒の目を掻い潜り、軍すらも移動させることのできる転移門。

 如何にシュタルク帝国軍が屈強とはいえ、不意を突かれれば致命傷を負いかねない危険性を孕んでいる。

 その存在を知っていながら、無視することなど到底できるはずがなかった。


 しかし、その設置場所は謎に包まれたまま。

 水竜族が渓谷を見張っている以上、しらみつぶしに探していくしか転移門の位置を特定する方法はない。


 占領、統治、そして水竜族の動向。

 マギア王国との戦争に圧倒的な勝利を収めたシュタルク帝国だが、次のアクションを起こすまでに暫しの時間を要することになる。


 その間に、世界は動く。


 ――対シュタルク帝国。


 シュタルク帝国の脅威が増したことで、いよいよ二つの大国――ラバール王国とブルチャーレ公国が本格的に動き出そうとしていた。


 そして、世界は動乱の時代に突入する――。

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