第624話 氷零の魔女

 吹雪がやみ、黒雲に覆われていた空が割れる。

 春の暖かな空が顔を覗かせ、静まり返った戦場に光が射す。


 一変した景色に気を取られ、戦場にいた者全てが空を見上げていた。

 戦いを忘れさせてしまう長閑で陽気な空。

 しかし、そこには竜族がいた。ドラゴンがいた。

 そして、ロブネル侯爵軍とシュタルク帝国軍を分断していた渓谷にはどこまでも続く高く長い氷壁が立てられていたのだ。


 高さだけでも優に二百メートルを超えているだろう。

 長さに関しては、見ただけではわからない。北の果てまで続いているのではないかと思わせるほど、どこまでも続いている。


「……うむ、流石はシレーヌだ。伊達に水竜族最強とは言われていないようだな」


 他者の実力を滅多に認めないあのフラムが珍しく感嘆の声を漏らし、シレーヌさんを絶賛する。

 その言葉からわかるように、どうやら水竜族一の実力者はプリュイでも水竜王ウォーター・ロードであるヴァーグさんでもなく、シレーヌさんのようだ。

 もしかしたらシレーヌさんが水竜王の妃に選ばれたのも、その実力を買われたからなのかもしれない。


 それにしても、物凄い力だ。

 人の域を超え、竜族の域を超え、まさにその力は神にも等しいと言っても過言ではない。


 冷気を帯びた氷壁まで近寄り、まじまじと観察する。

 透き通った氷壁は渓谷の向こう側の光景をぼんやりと映し出している。

 融け出すような気配はなく、それどころか禍々しいほどの大量の魔力を放ち、氷壁に近付く者に対して警告を発しているのではないかと俺には感じられた。


「おーい、主よ。気をつけた方がいいぞ。下手に触ると氷漬けになるぞ」


 元々触るつもりはなかったが、それでも僅かに肝を冷やしてしまう。

 ただの氷壁ではないことは想像がついていたが、まさかそこまで凶悪な防衛機能が備わっていたとは思ってもいなかったからだ。


 危険物から離れるかのように慎重に一歩、二歩と氷壁から離れていく。その最中、フラムたちがいる方から不穏な声が聞こえてきた。


「……ん? 主?」


 声の主は確認するまでもなくヴァーグさんだ。

 不機嫌そうに聞こえた声は元々の声質のせいだろう。そう自分を信じ込ませながら聞き耳を立てる。


「む? ……ああ、そう言えばすっかり忘れていたな。紹介しよう、ヴァーグ。あれが私の主だ」


「あの人間が其方の主だと? どういうことだ?」


 『あれ』呼ばわりされたことをつっこむ余裕は今の俺には当然のようになかった。

 家族のように身近な存在のフラムが竜王であるからといって、俺とヴァーグさんは対等ではないのだ。

 文字通り、竜の逆鱗に触れないためにも謙虚かつ慎重に接する必要があるだろう。


 振り返り、まずは軽く頭を下げる。

 その際にちらりとヴァーグさんの様子を窺ってみると、初めてその顔を見た時と全く同じ強面がそこにはあった。


「自己紹介が遅れてしまいました。コースケと申します」


「……」


 返ってきたのは視線だけだった。嫌な汗が背中を流れていく。

 何とも気まずい空気の中、俺は勇気を振り絞って会話を試みる。


「経緯を話すと長くなりますが――」


 そう切り出し、俺は痛覚無効を貫通する謎の胃の痛みに苦しみながらも、フラムとの出会いからディアのこと、それからイグニスとのことなどを端的にヴァーグさんに説明していった。


 ―――――――――


「あー……これはたぶん完全に詰んじゃったかもしれないですね。まさかこのタイミングで水竜族が出しゃばってくるとは……。それで、ここからどうします? セレーメ様」


 両軍を分断するように渓谷に突如として現れた巨大な氷壁を見上げたドレックが、隣で額に青筋を立てているセレーメにそう声を掛けた。


「どうもこうもねぇんだよ、クソが。所詮はデケエ氷の塊だ。壊すなり溶かすなりすればどうにでもなるだろうが。それに、水系統魔法はテメエら地竜族にとって相性がいい系統だ。うだうだ言ってねぇでどうにかしてこいや」


「いやいや、一般的な相性の良し悪しだけで無茶っていうか無理を言わないでくださいよ。正直に言わせてもらいますけど、王がいるならまだしも俺らだけじゃ無理ですよ。しかも、あの氷壁を造ったのはそんじょそこらの水竜族ザコじゃない。あれを造ったのは水竜族最強と呼ばれている《氷零の魔女》なんですから」


 ――《氷零の魔女》。

 それが水竜族を統べる王の妃であり、水竜族最強と名高いシレーヌの二つ名だった。


「《氷零の魔女》だと? 大層な二つ名を持っていやがるみてぇだが、知ったこっちゃねぇな。――あのクソ邪魔な壁を絶対にぶち壊してやる」


 ドレックがどう説明しても、視線だけで人を殺さんとばかりに怒り心頭に発したセレーメの耳には届かない。


 説得は無駄、不可能。

 ならばとドレックは思考を転換し、セレーメに現実を直視させる手を取ることにした。


「だったら試して見たらどうです? 魔法師ならそこら中に沢山いますし、何なら俺が試してみてもいいですけど」


「――やれ」


「……はいはい、わかりましたよ――っと!」


 ここで手を抜けば何を言われるかわかったものではない。

 故にドレックは最初から全力全開で魔力を消費し、土系統魔法を発動させた。


 空中に巨大な鉄球が現れる。

 数は七つ。それぞれが十メートルを超える巨大な鉄球だ。

 ふわふわと宙に浮かぶ鉄球は、まるで重量を感じさせない動きを見せると、予備動作も助走もつけることなく、超高速で氷壁にぶつかった。


 直後、腹の底まで届くほどの重低音が連続して響き渡る。

 ぐわんぐわんと目を回してしまいそうになる音が延々と響き渡る中、ドレックは呟いた。


「ほら、やっぱり……」


 連続で鉄球が氷壁にぶつかったその時を、瞬き一つせずに見つめていたセレーメは、その光景を見終わるや否や悪態を吐く。


「……使えねぇな」


 その声は明らかに威勢が削がれ、諦めの色が含まれていた。

 だが、それも仕方のない話だ。

 大質量の鉄球を超高速で打ちつけたというにもかかわらず、氷壁は罅一つ入れることなく、それどころか一つの氷片すら地面に落すことがなかったのである。

 さらには氷壁に打ちつけられた鉄球は氷壁に触れた途端、氷に侵食されて粉々に砕け散ってしまっていた。


 地竜王の右腕と評されているドレックの全力ですらこの有様なのだ。如何にセレーメが残忍酷薄な性格の持ち主とはいえ、無意味だとわかっていることを他の者にやらせる気は起こらなかった。


 音が鳴り止むと、ドレックはセレーメに向かって肩を竦めてこう言う。


「ご覧の通り、《氷零の魔女》セレーメが生み出した氷にはある性質が付与されるんですよ。『不変』という厄介な性質が。さっきのように衝撃を与えても無駄ですし、熱したりしても効果はありませんよ。まぁ、炎竜王フラムならどうにかしちゃうのかもしれませんけど、少なくとも俺には無理ですね。そもそも俺は防御に特化してますし」


「チッ……そうかよ。ならお前のところのクソジジイならどうなんだ?」


「んー……時間を掛ければ、ってところじゃないですかね? 保証はできませんが」


「そのはっきりしない口振りからして、時間ってのは数分程度の話じゃなさそうだな」


 確信も根拠も何もない憶測でしかなかったが、ドレックの予想では少なくとも数日は要するだろうと考えていたこともあり、セレーメの問いに対し、軽く頷いて答えた。


「……ざけやがって」


 橋は落とされ、さらには氷壁まで立ちはだかった。

 戦力に於いても水竜族が相手に加わった今、《四武神アレーズ》を三人も欠いている現状のシュタルク帝国軍に勝ち目はない。


 葛藤はある。プライドだって大きく傷つけられた。

 が、セレーメが正常な判断を下すまでにそう時間は掛からなかった。


 ギリッと奥歯を一つ鳴らし、セレーメはシュタルク帝国軍全体に向けて号令を掛ける。


「……ヤメだ、ヤメヤメ。――今この時をもって王都ヴィンテルに戻るぞ! 占領地の安定化に着手する!」


「「――ハッ!!」」


 敗北とも撤退とも言わず、セレーメは軍を反転させた。

 言うまでもなく敗北宣言をしなかったのは、軍全体の士気を考えてのことではない。

 ならば、セレーメが敗北を認めたくなかったからなのか。

 これもまた少し違った。


 元より、これは勝者が確定した後に行われた余興に過ぎなかったのだ。

 シュタルク帝国軍に下された命令は国王アウグスト・ギア・フレーリンの殺害と、王都ヴィンテルまでの占領のみ。


 国王アウグストは自害してしまったものの、所詮は自死か殺害の過程の違いでしかなく、結果そのものは得ている。

 また、王都ヴィンテルの占領もつつがなく進んでおり、与えられていた命令は既に遂行したも同然だった。


 アウグストの血を継ぐカタリーナの殺害を企てたのは、あくまでも将来を見据えたセレーメによる独断でしかないため、此度の敗北はシュタルク帝国の敗北を意味するものではない。

 強いて敗者を挙げるとするならば、それはセレーメになるだけの話でしかなかったのだ。


 こうしてセレーメ率いるシュタルク帝国軍は追走を諦め、王都ヴィンテルに戻っていったのだった。

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