第620話 北の空

「皆、大丈夫ッスかね……」


 マギア王国を縦に分かつ巨大な渓谷に架かる橋を目前にしたところで馬車が止まり、カタリーナは未だ戻らない友たちへの心配を零す。


 全部任せっきりにしてしまっていいのか。

 足手纏いになってしまうかもしれない。それでも、自分も戦いに加わった方がいいのではないか。


 護られることしかできない自分に歯痒さと苛立ち、そして失望感を抱きながらも、カタリーナには祈ることしか許されない。


 今後カタリーナは、偉大な国王であり、父であった前国王アウグストの意志を継ぎ、マギア王国の新たな女王として君臨しなければならないのだ。

 故に、その命は重い。

 自分一人では抱えきれないほどの価値が、今の彼女にはあった。


 落ち着きをなくし、無意識のうちにソワソワしてしまっていたカタリーナにイグニスが柔らかな笑みを向ける。


「大丈夫でございますよ」


 何の根拠もない一言。

 だが、不思議とその言葉には安心感があった。


 不安を微塵も感じさせない自然体のままでいるイグニスの様子を見ているうちに、ソワソワしていた身体に落ち着きが戻ってくる。

 肩の力が抜けていき、張り詰め過ぎていた心に若干のゆとりが出てきた。


「そうッスよね。コースケたちなら絶対――」


 ――『大丈夫』。

 そう口にしようとしたその時だった。

 突如、心臓が浮くような感覚に襲われ、馬車の中が――否、ロブネル侯爵軍全体がパニックに陥る。


 だが、それも一瞬のこと。

 一秒にも満たない時間の後、馬車が軽く縦に揺れ、そして停止する。

 馬車の中にいたカタリーナからしてみれば一体何が起きたのか、まるで見当がつかなかった。


 しかし、馬車の外にいた者たちは違う。

 混乱こそあるものの、何が起きたのかを理解し、大騒ぎになっていたのだ。

 カタリーナが耳を傾けるまでもなく、雨音に負けないその騒ぎは馬車の中までしっかりと届いてきた。


「――なっ、何故我らは渓谷を越えているんだ!?」


「転移、か?」


「シュタルク帝国軍の仕業か? いや、それより被害状況はどうなっている!」


「確認を急がせます!」


「車内の確認を優先せよ! 治癒魔法が使える者は私について来い! 残った者は周囲の警戒を! 橋には厳戒態勢で臨め!」


「「はっ!!」」


 漏れ聞こえて来た様々な声から、カタリーナはようやく状況を理解し、そして呆れ混じりの乾いた笑い声を上げた。


「ははっ、ははは……。一万人くらい居たんスよ? そんな大人数を一瞬で転移させちゃうなんて、どんだけ凄いんスか、コースケは。ホント、あり得ないッスよ」


――――――――――――


 身体の中からごっそりと魔力が抜け落ちていく。

 目眩がするほどではないが、身体がやや重い。とはいえ、そこまで戦闘に悪影響を及ぼすほどではなさそうだ。


 この一瞬で魔力総量の約八割を失っただろうか。

 だが、俺は安堵していた。間違いなくそれだけの価値があったからだ。


 『気配完知』によって俺の脳内に示されたロブネル侯爵軍の気配は、探知範囲ギリギリの渓谷の向こう側に無事移動していた。


 それが示す意味は作戦の成功。

 ディアに二人の相手を任せている間に、俺はひたすら魔力を練り上げ、集中力を高めてきた。

 その成果こそが、ロブネル侯爵軍の転移だ。


 おそらく以前の俺であれば、こんな大それた真似はできなかっただろう。

 全魔力を注ぎ、そこからさらにディアから魔力を借りたとしても実現不可能だったに違いない。


 では何故、成功したのか。

 答えは一つ。俺が予想していた通り、スキルが進化していたからだ。

 『空間操者スペース・オペレイト』がさらなる高みに進化していたからこそ、作戦は成功に至ったのである。


 ただ正直、ちょっとした賭けではあった。

 スキルが進化したという感覚はあったが、未だに『神眼リヴィール・アイ』が使用できないため、スキルが進化した確証を得られていなかったのだ。


 それでも俺が強行に至ったのは、悪くない賭けだと思っていたことが大きい。

 もし仮に失敗したとしても、魔力が無駄になるだけ。

 リーナやロブネル侯爵軍に直接的な悪影響や被害が出る心配はほとんどなかった。


 魔力を失うことは確かに痛手ではあるが、それ以上の見返り――リターンが望めたことが、作戦決行の決め手となったのである。


 これで活路は切り開かれた。

 一時的とはいえ、リーナたちの安全はほぼ確保したも同然だ。

 ともなると、もはやここでセレーメやドレック、それからシュタルク帝国軍と戦う意味はなくなったと言えるだろう。


 あとは渓谷に架かる橋を落とし、俺たち『紅』とプリュイがロブネル侯爵軍と合流を果たすだけ。

 その後、渓谷を境に防衛戦を行うことになるかもしれないが、橋さえ落としておけば簡単に突破されることはないはずだ。


 そうと決まれば、行動に移すのみ。

 防戦一方になっているディアのもとまで転移し、ディアの顔面を狙ったドレックの拳を横から手のひらで受け止める。


「はぁ、はぁ……こう、すけ?」


 苦しそうなディアの声が鼓膜を打つ。

 肩で息をしている様子から察するに、体力の限界が近付いていたのだろう。


 ディアには無理をさせてしまった。

 俺がもっと強ければ、二人の相手をしながらリーナたちを転移させられたかもしれない。


「ありがとう、もう大丈夫だよ」


 ドレックの拳を受け止めた手のひらに渾身の力を籠める。

 ただの八つ当たりだ。

 自分の不甲斐なさからきた怒りをドレックにぶつけているだけだ。


 ミシミシと骨が軋む音が鳴り始めたところで、ドレックが俺の手から逃れるように拳を強引に引き抜き、距離を取る。


「――王子様の登場ってか? 舐めてんじゃねぇぞ!!」


 次の瞬間、セレーメから雷撃が迸り、至近距離から俺を目掛けて放たれた。

 完全に具現化し、指向性を持った雷撃。『魔力の支配者マジック・ルーラー』での対処は間に合わない。

 そこで俺は


 黒く塗りつぶされた空間の裂け目に雷撃が呑み込まれる。すると、瞬く間に空間が修復され、そして穴が閉じた。


「なっ――」


 セレーメの驚きに満ちた翡翠色の瞳と目が合う。

 それは明らかな隙だった。

 僅かな硬直を見せたセレーメと、俺たちから距離を取ったドレックではもう邪魔をすることはできない。


 左隣にいたディアの肩を抱いた俺は、豪雨が降りしきる空から下りる炎の帳のもとへ転移したのであった。


――――――――――――


 紅介とディアが姿を消してから数秒後、セレーメは身体を大きく震わせ、そして虚空に向かって咆えた。


「――クソッタレがっ!」


 シュタルク帝国軍に緊張が走る。

 指揮官であり《四武神アレーズ》の一人であるセレーメの命令は絶対遵守。如何なる命令であろうと遂行しなければならない。

 それがたとえ死に直結する命令であろうと、だ。


 不機嫌極まりないセレーメが、自分たちに一体どのような無理難題を下すのか。

 こういった場合には不興を買わないように固唾を呑んで、ただじっと待つのが軍に於ける暗黙のルールとなっていた。


 しかし、あろうことか暗黙のルールを破る者が現れる――否、その者は破りたくて破ったわけではなかった。


 鎧をカタカタと鳴らし、ぎこちない足取りでセレーメのもとまで駆け寄った者は、探知系統スキルに長けた部隊を指揮する兵士だ。

 泥濘んだ地面に構うことなくセレーメの近くで片膝をつくと、声を震わせて報告を行う。


「ほっ、報告致します! 二分ほど前からマギア王国軍の気配が突如として消え――」


 報告を言い終えることはできなかった。

 赤黒い血飛沫を上げ、首から先が水たまりの中に水音を立てて落ちる。


「報告がクソ遅ぇんだよ、無能が」


 そう言い、セレーメは水たまりの中に足を突っ込むと、生首を何度も何度も踏みにじった。


 こうして鬱憤を少し晴らしたセレーメは豪雨の中、シュタルク帝国軍に鋭い眼光を飛ばし、こう言う。


「テメエらが何人死のうが関係ねぇ。屍の山を築いてでもフレーリンの血を絶やせ。――追うぞ」


 セレーメ率いるシュタルク帝国軍は渓谷に架かる橋を目指し、進軍を再開。

 そんな中、ドレックはその場で立ち止まり、雨吹き荒れる灰色の空を見上げ、訝しげに鼻をひくつかせた。


「ん? この匂いは……? いや、水竜王ウォーター・ロードの娘が近くにいるから……だよな?」


 ドレックの視線は北から迫り来る分厚い雲に向けられていた。

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