第608話 不死者

 高速で白銀の城に向かう怪しげな二つの気配。内一つは途中で足を止め、そこから微動だにせずに俺の『気配完知』内に留まり続けている。

 そして、急速に迫り来るもう一つの気配をついに俺の視界に捉えた。


 屋根から屋根へと軽々と移動していくその動きだけを切り取っても、その男が只者ではないことを示している。


 年齢は俺と同じか、少し上くらいだろうか。

 目元まで伸びた群青色の髪に、鎧や胸当てなどの防具を身に着けていない黒一色の洋服。武器などを装備している様子もない。

 もし今が戦時中ではなく、男が普通に街中を歩いているだけであれば、俺は気にも留めていなかっただろう。


 だが、状況が状況だ。

 この非常時に白銀の城に向かっているだけでも怪しいというのに、屋根を伝って移動するその姿は怪しさを超えて、もはや異様そのもの。


 俺はその男を敵であると想定して、紅蓮を抜いた状態で接触を図る。


 突如、進路上を塞ぐように現れた俺に、男は視線を軽く向けてきた。

 前髪の隙間から覗き見えた男の群青色の瞳。

 そこまで暗い色ではないはずなのに、不思議と俺はその瞳から深い闇を感じていた。


 それから間もないうちにゾクリと背筋に寒気を覚える。

 得体の知れない不快感と忌避感が俺を襲ったのだ。

 原因は言うまでもなく、こちらに迫り来る男。


 本能が漠然と訴えかけて来ているのだ。

 その男には関わるなと。

 その男は危険だと。


 思わず道を開けてしまいそうになる身体をぐっと堪え、俺は紅蓮を構え、その男を迎える。

 男は俺との距離を二十メートルほど残して、そこでようやく足を止めた。


「はぁ……面倒臭いなぁ。――誰だよ、お前」


 怒気含んだ男の声に、俺は特に何かを感じることはなかった。

 いや、正しくはそうではない。声色に何かを感じている場合ではなかったのだ。


 突如として猛烈な吐き気が俺を襲う。

 この距離まで近づかせたことで、ようやく感じ取れたのだ。

 男が持つ悍ましいほどの『死』の臭いを。『死』の気配を。


 人間が持ち合わせていい気配ではなかった。

 フラムやプリュイなどの竜族でさえも、この男ほどの『死』の気配を撒き散らすことはできないだろう。

 まるで『死』そのものが、人間の姿形を取っているかのようにさえ思えてならない。


 せり上がってきた胃液を意思の力だけで押し戻し、俺は質問に答えるわけでもなく、尋ねた。


「お前は……人間なのか?」


 もし今『神眼リヴィール・アイ』を使える状態にあったら、間違いなく使っていたに違いない。


 隠しても隠し切れないほどの警戒心を発しつつ、自然と口から出てきたのは失礼極まりない発言だった。

 そんな俺の言葉に対し、当然と言うべきか男は不快感を示す。


「は? 人のことを何だと思って……。まっ、いっか。とりあえず死んどけよ」


 男の全身から風が吹き荒れる。

 通常、風系統魔法で生み出された風は淡緑色であるのに対して、男が放った風の色は禍々しい紫紺。

 その男に抱いた第一印象と全く同じ『死』を想起させる紫紺色の風に強烈な危険を感じた俺は即座に風系統魔法を発動。

 紫紺色の風を逸らすために、横殴りの強風を生み出す。

 しかし、俺が生み出した風は僅かに紫紺色の風向きを変えると、あっさりとそのまま飲み込まれてしまう。


 ――まずい。


 四元素魔法しかまともな攻撃スキルを行使できない今の俺に、この短時間で打てる術は限られていた。

 横っ飛びで風の範囲外に脱出しようと試みる。が、想定以上の広がりを見せていた風に右足首を掠めてしまう。


「――ッ!?」


 二軒横の家の屋根に着地しようとした俺は着地に失敗し、全身を打ちながら転がっていく。

 右足の感覚をなくし、バランスを崩してしまったのである。


 何とか停止した俺はすぐさま裾を捲り、右足の具合を確認した。

 靴がぶかぶかになっていたことからある程度察していたが、右足首から先が枯れ枝のように萎んでいた。


 だが、幸いなことにそれも数秒のこと。

 未だ不完全ながらも『再生機関リバース・オーガン』が効力を発揮し、みるみるうちに足が元通りになっていった。


 完治した俺は体勢を立て直し、再度紅蓮を構える。

 直後、紫紺色の風がまた俺を飲み込もうと迫りつつあることに気付く。


「――これならッ」


 風系統魔法の弱点は火。この世界の常識だ。

 灼熱の炎の壁を目の前に展開し、紫紺色の風を焼き尽くす。

 しかし、紫紺色の風は止まらなかった。

 炎の壁と紫紺色の風が衝突した途端、炎の勢いが一瞬増したがそれだけ。

 紫紺色の風が意思を宿したかのように炎の壁に群がり取りつくと、あろうことかそのまま炎の壁を喰らい尽くしていったのだ。


 目を疑う光景だったが、ぼさっとしている場合ではない。

 炎の壁を食らっている間に生じた時間的猶予を活かし、範囲外へと離脱に成功する。


 ここまでの戦いで、ある程度見えてきたものがあった。

 それは、紫紺色の風は風系統魔法の枠組みから外れた全く異なる系統のスキルである可能性が極めて高いことだ。


 ものは試しにと複数の水球と岩石の塊を紫紺色の風の中に撃ち込んでみる。

 すると、案の定と言うべきか水球と岩石の塊に群がるように紫紺色の風が取りつき、数瞬のうちに跡形もなく喰らい尽くした。


 この結果から鑑みるに、紫紺色の風には魔力を喰らう特性があるとみて間違いないだろう。

 だが、それだけでは説明がつかないこともある。

 魔力を喰らうだけでは俺の足を枯れ枝のように変えることはできないのだ。もっと他にも隠された力があると考えるべきだろう。


 とにもかくにも、あの風に触れたらまずいということはわかった。

 ならば次に俺が考えるべきは、あの風に触れないようどう立ち回っていくか、だ。

 大半のスキルが機能不全を起こしてしまっている以上、間違っても正面から突破しようなどと考えるべきではない。


 男との距離は目測で五十メートルは離れてしまっている。

 紫紺色の風が押し寄せてきても避けられるであろう距離ではあるが、どうしても攻め手に欠いてしまう。


 そうこう考えてるうちに三度目となる紫紺色の風が俺に向かって吹き荒れる。

 先程までとは違い、横に広がりをみせる紫紺色の風。どうやら本格的に俺を殺しに来ているようだ。


 紫紺色の風の速度自体はそこまで速いものではない。むしろ、風系統魔法で生み出した風刃などに比べてしまえば、かなり遅い方だと言えるだろう。

 横に逃げ場はないと一瞬で判断を下した俺は両足に力を籠め、青く晴れた空に向かって跳んだ。


 その最中、下を覗き込む。

 俺を追いかけてくるかと思ったが、そこまで急な方向転換はできないらしい。

 俺を逃したと理解したのか、紫紺色の風はまるで時間を巻き戻したかのように急速に男の身体の中に戻っていき、それから間もないうちに空中にいる俺を目掛けて、紫紺色の風が放たれる。


「……いい加減に死ねよ」


 男のやる気のない面倒臭そうな声が聞こえてきたのは、俺が風系統魔法を駆使して紫紺色の風を空中で回避したすぐ後のことだった。


 空を何度も蹴って方向を変えつつ、俺は男の背後に高速落下。見事に華麗な着地を決めると、一切の躊躇なく右手に握っていた紅蓮で男の背中を突き刺した。


 背骨を絶ち、心臓を穿つ絶死の一撃。

 紅蓮を引き抜くと、男の背中からドクドクと大量の血液が零れ落ち、それから男は地面へと倒れ伏した。


 ついこの間、『血の支配者ブラッド・ルーラー』が暴走し、意識を手放したことを忘れていなかった俺は血液に触れないよう暴風結界を展開していたお陰で血を浴びずに事なきを得る。


 男の正体こそ不明なままだったが、問答無用で殺しに来たことを考えると十中八九、敵であったに違いない。


 これで二つの気配のうち、一つは片付けたことになる。

 残すはあと一つ。


 胸がチリっと焼きつく感覚に襲われる。

 どうやら相変わらず人を殺すことには慣れていないようだ。

 手のひらに男の背中を刺した嫌な感触が残り続けていた。


「ふぅ……」


 深呼吸をして、胸のざわつきを抑える。


 俺はまだまだ止まるわけにはいかない。

 この国のためにも、友のためにも、仲間のためにも、俺のためにも、手を汚し続けなければならない。


 もう一つの気配があった方向に視線を向け、再確認のために『気配完知』を発動させたタイミングで俺はようやく気付く。


 まだ男は死んでいない、と。

 まだ戦いは終わっていない、と。


 そして……、


「あーあ、お前のせいで一回死んじゃったじゃん」

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