第580話 覚醒めの時
俺は一体どれだけの間、眠りについていたのだろうか。
唾液さえも出てこないカラカラになった喉や空腹感が一日、二日程度ではないことを教えてくれた。
しゃがれた俺の声を聴いたディアがすぐに水がたっぷりと入った水差しとコップを用意し、水を注いで俺に渡そうとしてくれる。
だが、俺はそのコップを受け取ることができなかった。身体を起こすことさえままならなかった。
鉛のように重くなった身体は俺の言うことを全く聞いてくれない。全力を出しても指先一つ動かすので精一杯だった。
力尽きた俺は身体を起こすことを諦め、掠れた声でディアにお願いをする。
「……ぉめん、うごぇ、なぃや」
呂律が回らず何を言っているのか聴き取りづらかったはずの俺の言葉をディアはすぐに理解してくれたようだ。『ちょっと待ってて』という一言を残し部屋を出ていくと、介護用の小さな水差しのようなものを手に戻り、俺の口の中にゆっくりと優しく水を注いでくれた。
ディアのお陰で喉の渇きが取れ、ようやくまともな会話ができるようになった俺は真っ先にディアにお礼を言う。
「本当にありがとう、ディア。助かったよ」
「ううん、気にしないで……」
ディアのことだ。俺のことを何日も看病してくれていたに違いない。
今できる限りの誠意を込めた俺の言葉に対し、何故かディアの返答には少し迷いのようなものが見えた。それに表情もどこか曇っている。
それから数秒の間が空き、ディアはどこか決心めいた顔を作ると、俺にこう聞いてきた。
「……こうすけ。その眼、どうしたの?」
「……眼?」
眼と言われても、俺の感覚的には特に異常はない。視界も良好。精々、瞼が少し重たいくらいだ。
瞬きを何度か繰り返してみても、これといった変化はない。となると、残すは見た目的な部分だけだろう。
「こうすけの黒かった眼が紅くなってるの」
どうやら俺の予想は見事に的中していたようだ。
しかしながら、俺にも原因がわからない。以前から『
夢の中で誰かに何かを言われたような気もするが、意識がはっきりとしてからすぐに綺麗さっぱり記憶から消えてしまっており、もやもや感だけが残る結果となった。
だが、物は考えようだ。眼が紅くなっただけで異常がないのであれば問題はないだろう。もしかしたら知り合いに突っ込まれるかもしれないが、いちいち瞳の色まで覚えている人なんてそうそういないはず。それに、もし訊かれたとしても『俺にも原因がわからない』とでも言えば相手も納得してくれるに違いない。
一応、確認のために俺自身に『
「へっ……?」
思わず変な声が漏れ出てしまう。
俺の視界に映し出されたのは文字化けしたかのうような解読不能な記号の列だった。
唯一、文字化けしていなかったのは『アカギ・コウスケ』という俺の名前のみ。後に続くはずのスキルはどれもこれも文字化けしてしまっており、名前以外の一切の情報が読み取れなくなっていた。
「どうしたの?」
変な声を上げてしまい、ディアにドン引きされたかと思ったが、心配のし過ぎだったようだ。ディアの表情からは心配の色が浮かんでいた。
「何故か『神の眼』が使えないみたいなんだ。あっ、そうだ。俺の腕を強めに抓ってもらっていい?」
もしかしたら『神の眼』だけではなく、他のスキルもおかしくなっているのではないかと思った俺はディアに抓ってもらうことで『
「このくらいで大丈夫?」
特に不審がらずにディアが俺の右腕を抓る。
すると、触れられた感覚はもちろん、ほんの僅かな鈍い痛みが俺を襲う。
このことから察するに『再生機関』が完全に機能していることはなさそうだ。かといって全く効果を発揮していないとも言えない。どれほどの強さでディアが抓っているのか次第にもなるが、感覚としてはざっと七割減と言ったところだろうか。
「ありがとう、もう大丈夫……いや、ある意味、大丈夫とは言えないか……」
下手したら深刻な問題になりかねない。
身体に力が入らない謎の体調不良が治ると同時にスキルの不調も戻ってくれるのならば、時間の経過を待つだけでいい。しかし万が一、ずっとこのままだったら大問題だ。
どんなに頑張っても動かせるのは指先だけ。一人で食事を摂ることもできず、ほぼ寝たきりの状態になってしまう。
ディアの願いを叶えてあげるどころか、一緒に旅を、冒険をすることも不可能だ。
深く考えれば考えるほど目の前が暗くなってくる。目眩が襲ってくる。
恐怖と不安が頭の中を埋め尽くす前に俺は現実逃避気味にガラリと話題を変えることにした。
「そう言えば、俺ってどのくらい寝てた?」
パッと頭に浮かんだ話題を投げると、俺の想像を上回る回答が返ってくる。
「十日近く。倒れてから最初の三日間くらいは本当に辛そうにしてたんだよ。もしかしたらこのまま死んじゃうんじゃないかって……」
そう言ったディアのルビーのような綺麗な瞳に涙がほんの僅かに浮かんで見えたのは俺の気の所為ではないだろう。
だから俺はあえて謝るのではなく、笑みを浮かべて感謝を告げる。少しでも彼女を安心させてあげられるように。
「本当に、本当にありがとう。お陰で俺はもう大丈夫だよ」
「……うん」
湿っぽい雰囲気になってしまったが、全部俺のせいだ。
ガイストを斃し、その血に触れて倒れてしまったことで本当にディアには心配と迷惑をかけてしまった。いや、ディアだけではないだろう。フラムや他の人たちにも後でしっかりとお礼を言わなければならない。
そこでようやく俺は寝ていた間の約十日という時間の重要さと深刻さを思い出させられる。
ガイストを斃したことまではいい。だがその後、マギア王国を取り巻く情勢がこの十日間でどうなってしまっているのか。それを俺は知る必要があった。
「ディア、マギア王国は今――…」
ディアから俺が寝ていた間に起きた出来事を簡単に説明してもらった。
シュタルク帝国の侵攻が、王都のすぐそこまで迫ってきていること。
シュタルク帝国軍に
マギア王国の存亡を賭けた戦いが王都で行われようとしていることなど、頭がパンクしそうなほどの大量の情報がディアから語られた。
頭の整理がまるで追いつかない。
だが、まだ話は続く。そして、ディアから真の爆弾が投下されることになった。
「――それで昨日、南から攻めてくるシュタルク帝国軍のところにフラムとイグニスが向かうことになったの。地竜族の動向を見に行くって言って。たぶんちょうど到着した頃だと思う」
「……え?」
理解が追いつかない話に俺は間抜けヅラでぽっかりと口を開くことしかできなかった。
―――――――
王都から南に約七十キロにある小高い山の上に当のフラムとイグニスはいた。
そんな二人の眼下にはマギア王国が整備した街道を大量の人の群れが列をなして我が物顔で闊歩する光景が広がっている。
「どうだ、イグニス。あれは間違いなく
「ええ、間違いありません。しかも、その立ち振る舞いから察するに、この軍を取り纏めている上位者――指揮官を務めている可能性が極めて高いかと。これは明らかに竜の約定に叛く行為であると私めは愚考しております」
「うむ、同意見だ。なら、ここで私たちがあいつらにちょっかいを出したとしても問題はないな?」
「――ございません。それでも、もし問題が生じた場合には全身全霊で私めが対処致しますので、全ては王の気の向くままに」
「そうか、その時は任せたぞ。では、行くとしようか。土竜共の躾をしに、な」
フラムの金色の瞳がその輝きをより強め、黄金と化す。
標的を狙うその黄金の瞳には強烈な殺意と憤怒が籠められていた――。
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