第572話 死後の影響
レーヴ伯爵領最大の都市『レーヴ』。
王都ヴィンテルの東に位置するその都市の周辺は、起伏が激しい山地が多いマギア王国には珍しく、広大で豊かな丘陵が見渡す限り広がっていた。
その地は春から秋にかけて数多の農作物を育て、収穫していることもあり、王都の食糧事情を担っている農作地帯でもある。
例年のこの時季は都市全体が春の香りを感じ始め、農作業の準備に取り掛かろうと考える者が多い。
しかし、現在のレーヴはそれどころではなかった。
大きな荷持を背負って都市から出ていく一般市民と、全身を武装で固めた都市に入ってくる軍人が各所の門で延々と出入りをしていく。夜になっても人の波が途切れることがないほどの長蛇の列が各所で出来上がっていた。
一般市民の中で都市の中に留まり続けたのは商魂逞しい商人だけ。食料から武器、それから魔道具や酒まで戦争に役立つ様々な物や娯楽を取り揃え、都市に滞在する兵士たちに売り、懐を潤わせていた。
シュタルク帝国軍よりも一足早く決戦の地であるレーヴにマギア王国軍が徐々に集まりつつあるそんな中、密かにだが、確かに兵士たちの間でこんな会話が交わされていた。
それは――疑問と疑念だ。
レーヴに到着し、束の間の休息を手に入れた二人の若い兵が出店で買った串焼きを頬張りつつ、小声で話す。
「何で俺たち、シュタルク帝国と戦うなんてことになったんだろうな……」
「そりゃあ、公爵家のご令嬢が殺されたからだろ? それ以外の理由なんてあるか?」
「いや、そうじゃなくてよ……あの最強と言われてるシュタルク帝国に勝ち目も見えないのに何で宣戦布告なんてしたんだって話だよ。せめてラバール王国とかブルチャーレ公国と同盟でも結んでるならまだわかるけどよ、一対一で勝ち目なんてあるのか?」
そう喋りながらも、男たちは周囲への警戒を忘れない。
もし今の話を上に聞かれたら厄介どころか、下手をしたら最前線に送られてしまう。男たちが警戒を厳にするのも当然だった。
「そんなことを俺に訊かれてもな……。けどさ、上だって馬鹿じゃない。勝ち目があると踏んで戦争をおっ始めたんだと思うぜ? 流石に切り札的な何かがあるんじゃないか? まぁ、末端の俺たちにそれを知る術はないけどな」
「確かに、な。俺たちにできるのは上が馬鹿じゃないことを祈ることくらいか」
「だな。負け戦に挑むほど上が馬鹿じゃないことを一緒に祈ろうぜ」
「あーあ……。今すぐにでも逃げ出してぇ……」
「無理だ無理、諦めろ。レーヴに入っちまったんだ、もうここからは出られないぜ」
串についた最後の肉の塊を歯で噛み抜き、串を近場のゴミ箱に放り捨て、男たちは憂鬱な面持ちで軍に戻っていった。
領主であるレーヴ伯爵は王都に赴いていたことあり、現在はその帰路の途中にいるということで不在。
その長男である二十歳そこそこの青年が領主代行を務め、レーヴに到着した貴族を館に招き、軍事会議という名のちょっとした食事会を開いていた。
食卓を囲むのはレーヴ伯爵代行を除き、貴族が五名。
侯爵から男爵までその爵位は様々だったが、ことこの場に於いては爵位を無視した対等な関係で話し合っていた。
今集まっているどの貴族もレーヴ伯爵領に比較的近い土地に領地を持つ貴族。中には数日も前からこの地に滞在している者もいた。
「つい先程、本軍が到着するまで早くて三日から四日程度との報せが入ってきました」
ワイングラスを片手にそう報告をしたのは伯爵代行だった。父であるレーヴ伯爵から鳥で手紙を受け取っていたのだ。
「そうであるか。ともなれば――」
数々の料理によって彩られた食卓の上に、唯一似つかわしくない物がテーブルの中央に置かれていた。それはマギア王国全土を網羅する地図だ。
全員の視線が料理から地図に集まる。
「シュタルク帝国軍よりも先に布陣できそうだ。いくら精鋭揃いのシュタルク帝国軍とはいえ、三日や四日ではレーヴまでは辿り着けまい」
この場にいる者の中で最も爵位が高い老齢の侯爵が口髭を撫でながら状況の説明と確認を行う。
しかし、その顔色はすこぶる悪い。年齢故の体力不足や疲労から来る顔色の悪さではなく、この国の未来を憂いての顔色の悪さだ。そしてそれはこの場にいる皆、同じ思いを抱いていた。
――この戦争に勝機があるのか、と。
誰もがそう思っていても、誰も口にはしなかった。
一体いつから恐怖が、不安が心を蝕み始めたのかもわからない。けれども一つ言えることは、全員が共通してシュタルク帝国との戦争に不安や恐怖を抱き始めたのが、この食事会を開く半日ほど前のことだったことくらいだろう。
そう……彼らはラーシュ・オルソンことガイストが紅介たちによって倒されたことで、知らず知らずの内に洗脳が解除されていたのだ。
故に彼らは急に恐怖や不安を覚え始めた。何故、軍事強国であるシュタルク帝国に宣戦布告をしてしまったのかと思い直し始めていた。
確かに貴族の令嬢の命は重い。それが公爵家の一人娘ともなれば尚の事だ。
だが、言い換えてしまえば、たった一人の命で戦争まで発展させるほどのことだったのだろうかという疑問が付き纏ってくる。無論、国王などの王家の者が襲われ、そして命を落としたのであれば、まだ納得も理解もできた。もしくは敵国が弱小国家であれば侵略戦争を行う上での大義名分として利用し、戦端を開く切っ掛けにすることもできただろう。
だが、今回の戦争に関してはどれも当て嵌まらない。
殺害されたのは公爵令嬢であり、しかも敵国は強国であるシュタルク帝国。これで恐怖や不安を覚えるなというのは土台無理な話だ。むしろ何故ここまでそう思わなかったのか、思うことができなかったのか、自分自身が不思議でならないほどだった。
重苦しい空気が漂い始める。だが、この空気を払い除けようとする者は誰一人として現れなかった。
咀嚼音と時たまカチカチと鳴る食器の音だけが虚しく響き渡る。
そんな中、レーヴ伯爵の北に位置する小さな領地を持つ男爵が恐る恐る声を上げた。
「我々は……勝てるのでしょうか……?」
男爵の年齢はまだ二十代後半。戦争という戦争に参加するのは今回が初めてかつ、まだ当主になってから然程日が経っていないということもあって、その青ざめた顔には恐怖の感情がまざまざと現れていた。
特定の誰かに問い掛けるようなものではない質問の声に、老齢の侯爵が重い口を開く。
「我々は本軍が合流した後、その中に組み込まれることになるだろう。何も考えず本軍の指揮官の指示に従うだけだ。何も、そう気負う必要はない」
侯爵の答えになっていない返答に、男爵はぎこちなく一つ頷き、口を閉ざすことしかできなかった。
「お酒が切れてしまいそうですね。おかわりを持ってこさせましょう」
マギア王国本軍よりも少し先を行軍する各貴族が率いる兵の総数は約十二万にも及ぶ。そこに本軍八万を加え、総勢二十万という大軍勢で、決戦の地レーヴにてシュタルク帝国を迎え撃たんという計画に、この日、綻びが生じ始める。
切っ掛けは言うまでもなく、ガイストの死による洗脳の解除だ。
各地からレーヴに向けて大軍が動いていることで、中継地となる小さな街や都市には大勢の騎士や兵士で溢れかえっていた。
故に、爵位が低く、兵の質と数が乏しい貴族とその軍は街や都市に泊まれず、夜営をせざるを得ない場面が各地で散見されていたのだ。
とはいえ、無理を通せばボロ宿や名もなき小さな村で一泊することもできた。が、もしそのようなみすぼらしい姿を他の貴族に見られてしまえば貴族としてのプライドが傷つくばかりか、赤っ恥をかかされてしまう。
ならば、おかしな行軍計画を立てることで近隣に宿泊できるような場所がないところまで行軍を続け、仕方なく夜営をするしかなかったと言い訳を作る貴族が複数いたのだ。
そんな貧しい貴族の一人がその日の夜、夜営地を設営する兵をジッと見つめ、そして声を上げた。
「おい、お前たち」
若き領主の声に兵たち――職業軍人ではなく農民に武装をさせた民兵――が手を止め、振り向き、首を傾げた。
全員の視線が集まったことを確認した領主は言葉を続ける。
「……この戦争に勝ち目はない。少し遠回りになるが、人目を避けるように大きく北上し、領地へと戻る。いいな?」
何を言い出すのかと反論する者はいなかった。むしろ、その言葉を待っていたとばかりに笑みを浮かべる者が多数いた。
元より彼らは少し訓練をしただけの農民に過ぎないのだ。国を守るという大義よりも家族のもとに帰りたいと思う者ばかりだったのも当然と言えば当然だっただろう。
そしてその日、王都の北西に領地を小さな領地を持つ男爵が、引き連れていた兵士約五百人と共に姿を眩ませた。
もしこのことが露呈すれば、爵位を剥奪されるだけではなく、死罪も免れない。だが、シュタルク帝国と戦い、そして死ぬよりも余程希望があると信じ、領地へと戻る決断をしたのだ。
たかが五百人程度の逃亡。
これだけであれば戦況に影響を与えることはほぼ皆無だろう。だが、シュタルク帝国との戦争から逃げ出したのは一人の貴族とその軍だけには留まらなかった。
ガイストの洗脳から解放されたことで、シュタルク帝国と戦うことの愚かさを思い直し、逃亡する者が日を追うごとに現れたのであった。
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