第560話 遮二無二

 命を賭けた鬼ごっこが始まる。


 ルールは至って単純だ。捕まったら終わり。ただそれだけ。

 無論、反撃に転じるのも自由だ。だが、正面から戦うにはあまりにも分が悪い。いや、無謀と言っても過言ではない。


 相手の力量は拳を交えなくともわかっている。纏う雰囲気が物語っている。

 戦うだけ無駄。アクセルはもちろんのこと、カイサにだって自殺願望などはありはしない。

 従って、鬼から逃げるしか生き延びる道はない。


 文字通り、命を賭けているのだ。律儀に開始の合図を相手に告げる必要はない。


 涼やかな顔をしたアクセルがカイサにアイコンタクトを送る。

 アイコンタクトを受け、重力魔法の使い手であるカイサが動く。

 マギア王国随一の魔法師、それも重力を操ることに特化したカイサの魔法の真価が今、発揮されようとしていた。

 入試の試験官として紅介と対峙した時とは違い、今の彼女は何ら制限を受けていない。相手を殺さないように加減をする必要もない。


 執事服の青年の足元を起点に半径十メートルの重力場が一瞬にして形成される。

 数百倍にも及ぶ過重力空間。地面に転がっていた数多の石ころは例外なく地中にその身を沈めていく。


 だが、執事服の青年は石ころとは違った。

 履いていた黒の革靴こそ僅かに地面に食い込んだものの、それだけ。膝をつくこともなければ、苦悶の表情を浮かべることもない。ただただ不快とばかりに顔を顰めるだけであった。


(ちっ、やはり化物か。ならば――!)


「アクセルっ!」


 カイサの絶叫にアクセルがすぐさま反応する。

 執事服の青年から視線を外すや否や、背を向けて脱兎の如くその場から離脱。それに合わせてカイサも地面を蹴り、重力場に囚われた青年から距離を取った。


 そして次の瞬間、つまらなそうにその場に留まっていた執事服の青年の頭上に漆黒の孔が現れる。


「ん? なんだ?」


 青かったはずの空が突如として黒に染まったことで青年は原因を調べるべく――否、好奇心を満たすべく空を見上げる。

 そこには直径三センチにも満たない黒よりも黒い、ありとあらゆる光を呑み込む漆黒の孔がぽっかりと空いていたが、青年の類い稀な眼をもってしても視認することはできなかった。


 ――伝説級レジェンドスキル『重力崩壊コラプサー』。


 それは重力系統スキルの極致とも呼ぶべきカイサの切り札。

 極小の黒点――ブラックホールを生み出すその力は、注ぎ込んだ魔力量に比例して万物を呑み込み、そして消滅させる禁忌の力。

 一度生み出した黒点はその腹を満たすまで消えることはない。

 その破壊力は周囲三キロメートルにまで及ぶ。

 木を、山を、地表をも呑み込まんとする黒点が執事服の青年を襲う――。


 地上の数百倍にも及ぶ重力負荷と全てを呑み込む黒点。

 人外じみた力を持っている青年をもってしても、一筋縄ではいかない。


「やばっ」


 だが、そんな言葉とは裏腹に青年に大した焦りはない。

 まるで地面に縫い付けられたかのように動かなくなっていた足を力ずくで動かし、一歩、二歩と確実に足を進めていく。

 だが、それだけではカイサの力からは逃れられない。青年の動きを真似るように黒点がその位置を変え、頭上に張り付く。


 動くだけでも一苦労。それに加え、黒点が徐々にだが、確実に青年との距離を縮めていった。


 黒点の光を吸い込む性質により、青年の視界は皆無。

 アクセルたちの姿はもちろんのこと、この時には既に空の色さえも視認できなくなっていた。


「結構まずいかもな、これは……」


 青年はここに来て初めて胸をざわつかせるほどの焦燥感を覚える。

 しかし、その焦りは己を襲う危機に対するものではなかった。

 青年が焦っていたのは鼠を捕り逃しかけていること、そして捕り逃した先に待っている主人からの雷を恐れ、焦っていたのである。


 それは好奇心を優先したが故に起きた失態。

 好奇心は猫をも殺すという言葉を青年は文字通りそのまま体現してしまったのだった。




 先に撤退したイクセルたちと合流を果たすべく、背中に翼を生やしたかのように切り立った崖を軽々と飛び越え、後ろを振り返らずにただ懸命に北西に向かって駆けるアクセルとその背中を追うカイサ。

 百、二百メートルと進むにつれ、次第に二人の距離が離れていく。


「先生、大丈夫ですか?」


 走る速度を落としたアクセルは、追い付いてきたカイサの横顔を覗き見る。

 まだ走り始めてから十分と経過していないにもかかわらず、カイサの額には汗が浮かび、さらには呼吸が荒くなっていた。

 魔法師としての腕もさることながら、カイサの身体能力は並の冒険者とは比較にもならないほどに高い。たかが数分走った程度で疲れるほど柔ではないのだ。

 であるならば、カイサがここまで疲弊し切っているのには必ず何かしらの理由があった。


 カイサは作り笑いを口元に浮かべると、申し訳なさそうに眉尻を下げた。


「すまない、少々魔力を使いすぎてしまったようだ」


 魔力とは謂わば生命エネルギーだ。

 使いすぎれば当然、体調に大きな悪影響を与える。脱力感や疲労感、酷い場合には意識を失うことさえある。


 カイサは執事服の青年から逃亡する機会を得るために二つの強力なスキルを使用した。その代償によって、大きく体力を失っていたのだ。


 手加減なしでは足止めはできない。

 そう彼女が判断したからこそ、こうなることをわかっていても大量の魔力を使わざるを得なかった。その分、代償は大きかったが、それでもこうして一時的かもしれないが、執事服の青年から逃れることに成功している。


 アクセルも当然、それを理解していた。故に、追い付かれるかもしれないという不安を抱えながらも、遅々としたカイサの歩調に合わせることにしたのだ。


 しかし、このままでは追い付かれるのも時間の問題。

 相手は化物――『真の強者』なのだ。カイサのスキルで倒せたなどと楽観的に考えられるはずがなかった。


(今はまだ先生には走れるだけの体力が残ってる。けど五分後、十分後はどうだろうか? 近くに転移門はない。最低でも四時間……いや、今のペースで走り続けられたとしても五時間は掛かる。だったら……)


 アクセルは選択を迫られる。

 このまま見つからないことを、追い付かれないことを祈って二人で逃げ続けるのか、或いは狙われている自分が囮になり、カイサを逃すのかという選択を。


 決断までそう長くはかからなかった。


(……うん、そうだね、僕が囮になった方が良さそうだ。僕一人なら最寄りの転移門まで三時間くらいで辿り着けるはず。それに先生のお陰で魔力の温存はできている。うん……勝算は十分だ。あとは先生をどう言いくるめるかだけかな)


 最大の難点はカイサが提案を受け入れてくれるかどうか。

 クールでどこか冷たい印象を抱かれやすいカイサだが、その本質はそういったイメージとは真逆。どこまでも生徒に優しく、何があっても見捨てることはない。

 だからこそ、今もこうして『義賊』の一員として動き、彼ら旧『七賢人セブン・ウィザーズ』を手助けしてくれている。


 そんなカイサが、アクセルを見捨てて自分だけが逃げ延びることを許容してくれるとはどうしても思えなかった。


 アクセルは走りながらも頭の中で慎重に言葉を選び、顔色を悪くしながらも懸命に足を動かすカイサに声をかけた。


「先生、このままではいつか追い付かれてしまいます」


「……かもしれないな」


 そう悩むように短く返事をし、カイサは口を閉ざす。

 息を切らしながらも思案顔を浮かべている姿を見て、アクセルは次に出てくるカイサの言葉を確信した。


「私を置いていけ。今ならまだ間に合う。お前の足なら逃げ切れるはずだ」


(そう言ってくれると思ってましたよ、先生)


 心の中でアクセルは笑う。

 悪魔のような笑みではなく、安堵から来る優しい笑みで。


「……わかりました。先生もどうかご無事で」


「ああ、お前もな」


 薄情者と罵られても構わない。

 全員が助かる道はこれしかないのだとアクセルは信じていた。だからこそ、アクセルは恨みを買ってでもこの道を選んだのだ。




 別れを告げたアクセルは速度を上げ、カイサの姿が完全に見えなくなったことを確認。それからすぐに進行方向を北西から東へと変更し、走り続けること数分、アクセルは走ることをやめていた。


(いくら疲れ切っているとしても先生ならカルロッタを連れたイクセルたちにはいつか追いつけるはず。問題はあの男の動向だけど……)


 肺に冷たい空気を入れ、大きく息を吐き、過度に緊張していた身体をほぐす。


(僕がここにいることを大々的にアピールをしたらあの男は釣れてくれるかな?)


 今からすることはある種の自殺行為だ。

 一歩間違えばそのまま死に直結するギャンブル。

 それでもアクセルは仲間を救うためにその賭けに挑む。


 『義賊』の装備の一つである黒い仮面を取り出し、装着。それから空間魔法を使用し、空へ空へと向かって短距離転移を繰り返す。

 そして山の頂上よりも空に近い場所まで転移をしたアクセルは、仮面に付与された望遠の機能を用いて空から執事服の青年を探した。


(……いた)


 案の定言うべきか、執事服の青年はどんなトリックを使ったかわからないがカイサのスキルを無傷のまま無力化し、今にも走り出そうとしていた。

 走り出そうとするその身体の向きはイクセルたちやカイサが向かった北西。


 カイサの力によって足止めできた時間はおよそ十五分から二十分。

 青年の脚力がどの程度のものかわからないが、ものの数分で追い付かれたとしても何ら不思議ではない。


(さて、始めようか)


 アクセルは空に身体を投げ出しながら、自身が最も得意とする水系統魔法を発動。拳大程度の氷塊を一つだけ作り出し、執事服の青年に向けて、空から氷塊を超高速で放つ。


 長距離かつ、風の影響を受けたこともあり、氷塊が執事服の青年に直撃することはなかった。僅かに着弾位置がずれてしまい、氷塊は青年の足元に虚しく突き刺さる。


 だが、それで十分。

 アクセルは最初から執事服の青年をあの程度の攻撃で殺せるなどとは思っていなかった。

 目的はただ一つ。アクセル自身にその意識を、その殺意を向けさせることだけ。


 空から落ちていく最中、アクセルと執事服の青年の視線が交わる。

 望遠の機能がなかったら気付けなかったに違いない。青年が邪悪な笑みを浮かべていたことを、そして明確に青年の意識がアクセルに向いたことを。


(……ははっ、どうやら上手くいったみたいだ)


 嬉しさ半分、恐怖半分。

 転移を使い、完璧な着地をみせたアクセルはそんな複雑な感情を抱きつつ、今一度大きく息を吐き、そして走った。


 追い付かれないように全力で。命懸けで。


 だが、執事服の青年の脚力はアクセルの上をいっていた。

 十五分以上あったハンデを物ともせず、たったの三十分程度の時間で背中を捉えられてしまう。


 そこからアクセルは地獄のような時間を過ごす。

 一分が五分、十分と感じてしまうほどの苛烈な追走劇だった。


 無尽蔵のスタミナと圧倒的な脚力。地形すらも変えてしまうほどの威力を持った一撃必殺の攻撃の数々。


 息をつく暇もなくアクセルは走り、避け、転移門へと向かう。

 劣っていた脚力を補うために転移を、時の流れを凍らせる『凍結世界フローズン・ワールド』を幾度となく使用し、命をギリギリのところで何とか繋ぎとめる。


 そして一時間、二時間、ついには三時間が経過しようとしたところで、意識が朦朧としていた中、アクセルはようやく転移門に辿り着いたのであった。


(転移門を改良してくれたカルロッタには感謝しなくちゃ……ね。お陰でギリギリ魔力が足りそうだ……)


 執事服の青年に追い付かれるまで約十秒。

 その間にアクセルは転移門に触れ、魔力を送る。

 転移先を選ぶ暇はなかった。闇雲に選んだ転移門に空間を繋げ、倒れ込むように門を潜り、接続を切る。


 こうしてアクセルは命からがら執事服の青年から逃げ切ったのであった。

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