第517話 後処理

 紅介たちが撤退したすぐ後、数メートル先さえ見渡せなくなっていた濃霧が嘘のように消え去っていった。

 白銀の城だけではなく、王都ヴィンテル全体を包み込み覆った謎の白霧が晴れ、安全の確保にある程度の目処が立ったタイミングでエステルの部屋に廊下で待機していた警備兵が雪崩れ込む。


「――御無事でしょうか!?」


 それまで室内からの応答が全く無かったこともあり、雪崩れ込んできた兵たちは一様に焦っていた。


「……? えっ、えぇ……」


 耳をつつざくほどの大声により、エステルは霞がかっていた意識を微かな頭痛と共に鮮明に取り戻す。


 一体、何が起こったのか。

 何故、兵たちがそこまで慌てているのか。


 兵たちを心配させまいと朧気に返事をしたが、エステルはそんなことさえ記憶が曖昧になっていた。

 ぼんやりと思い出せるのは、突如襲い掛かって来た白く濃い霧。窓の僅かな隙間からみるみるうちに霧が押し寄せ、エステル専属の近衛騎士が部屋に到着してからというもの、その後の記憶がほとんどない。

 記憶が曖昧なままでもわかっていることは、その間に危険は無かったということだけ。何故そう思ったのか、その根拠はまるでなかったが、不思議とそう思えていた。


 いまいち事情を飲み込めていなかったエステルは専属騎士たちに目を送る。全員が全身を甲冑で纏っていることもあり、その表情は一切読み取れなかったが、一部の者たちが困惑していることだけは伝わってきた。

 特に騎士でありながら暗殺術を得意としている者の動揺は激しい。


「どうして私は手にナイフを……?」


 ヘルムの隙間から漏れ出た声には明らかに困惑と動揺があった。

 緊急時に騎士が武器を構えていること自体は当たり前の行為とはいえども、暗殺や投擲に使用するためのナイフを取り出し、手の中に握っていた記憶がその者にはなかっただろうことがその様子から窺える。


 曖昧で霧がかった記憶。

 不自然かつ異常とも呼べる自身を襲った記憶障害に、エステルは激しい違和感と嫌悪感を抱く。


「……」


 しかし、それらの感情が長く続くことはなかった。

 どうにかして記憶を掘り返そうとしたその瞬間に、何故か全てがどうでもよく思え始めてきたからだ。

 そして違和感と嫌悪感を完全に受け入れ、心の中から消し去った。

 そんなエステルに倣うかのように専属騎士たちも落ち着きを取り戻し、報告を行う。


「こちらに異常はなし。只今より、殿下の避難に移――」


 その時だった。警備兵の一人がエステルの部屋の壁に刻まれた文字を発見し、声を上げる。


「――お待ちを! 壁に、壁に文字が!」


 この場にいた全員の視線が一点に集中する。


「……『義賊参上! 次は失われし心を頂戴する』、だと? これはどういうことだ? 異常はなかったのではないのかッ!?」


 エステルの前であるにもかかわらず、警備兵を纏める一人の騎士が小刻みに身体を震わせ、怒声を上げた。

 途端、エステルの専属騎士に向けられる警備兵たちの視線が冷たく裏切り者を見る目に変わっていく。言い逃れは許さんとばかりに鋭い視線が専属騎士たちに突き刺さる。


 だが、そのような視線を受けても専属騎士たちが動揺を見せることはない。不気味なほど無感情かつ、冷静な態度で言葉を返す。


「異常はなかった。見ての通り、殿下も御無事だ」


「異常はなかった? ――ふざけるのも大概にせよ! それでも貴様らは王妃殿下の騎士かッ!」


 罪悪感を抱くことも、失態を犯した自覚もない淡々とした専属騎士の返答は、警備兵を纏める騎士の感情を逆撫でするには十分だった。


 まだ確たる証拠こそないが、壁に刻まれた文字そのままに侵入者の正体が『義賊』ともなれば大問題だ。

 国を挙げて捜査をしていたというのに、未だ誰一人として捕まっていないとされる『義賊』が城内に現れたばかりか、王妃の私室に侵入を許したということがもし知れ渡れば、城を守る騎士たちだけではなく末端の兵士たちの沽券にも関わることは明白。

 睨み殺さんとばかりに憤るのも当然であった。

 

 廊下で待機していた警備兵たちとエステルの専属騎士たちとの間に険悪な空気が流れ続ける。そんな一触即発の危機を止めたのは他の誰でもなくエステルだった。


「――止めなさい。この者が言うように少なくとも私も異常は確認できませんでした。今は現場保存に努め、後に詳細な調査を行いなさい」


「……ハッ、承知致しました」


 到底納得できるものではなかったが、忠誠を誓う主の言葉は絶対だ。感情を押し殺し、警備兵たちは深く頭を下げた。


 空白の時間と真っ白な記憶。

 異常を察する思考力はエステルには残されていなかった。


 避難すべく部屋を後にする直前、エステルは壁に刻まれた文字をぼんやりと見つめる。

 一瞬では読み取れないほど乱雑で汚い文字だったにもかかわらず、不思議と懐かしさと愛しさを感じてしまう。


「王妃殿下、如何されましたか?」


「いえ、何も……」


 異常に対する思考力は奪われ、そして失われていた。

 しかしエステルは壁面に刻まれた文字を見て、何故か後ろ髪を引かれる思いを抱いたのであった。


――――――――――


「皆さん、お帰りなさい。ご無事のようで安心しました」


 安堵の笑みを浮かべたアリシアが俺たち六人を出迎えてくれる。


 転移を連続使用することによって俺たちは無事に屋敷へと帰宅。アリシアはセレストさんと一緒に俺の部屋で俺たち六人の帰りを待ってくれていたようだ。


「ただいま、アリシア」


「ただいまーッス。うげぇ……全身びしょびしょッスよ……」


 屋敷につくなり仮面を外したディアとリーナが真っ先にアリシアに返事をすると、外套に付いていたフードを外す。

 外套からはポタポタと水滴が滴り落ち、フードの下に隠していた髪の毛一本一本まで濡れている。


「早く身体を温めないと風邪を引いてしまいそうですね」


 俺の部屋の床にはあっという間に六つの水溜まりのようなものが出来上がっていた。

 しかし、全く気にならない。何故なら既に俺の部屋は……いや、屋敷全体が湿気で完全にやられていたからだ。

 俺たちの体調を心配するアリシアもアリシアで、まるでお風呂上がりのような感じになっている。かくいう俺たち六人は大雨にうたれた直後のようにびしょ濡れなのだが。


「やれやれ、全く……やり過ぎだぞ、プリュイ」


「――なっ! 妾のせいみたいに言うでない! 貴様が王都中を霧で満たせと言ったのではないか!」


「責任転嫁は良くないぞ。私は城だけを霧で満たしてくれればそれで良いと言ったと思うが? お前が変な意地を張らなければこのような事態にはならなかった。なあ、そう思うだろう? ロザリー」


「……」


 醜い責任の擦り付け合いが始まっていた。

 完全に巻き込まれた形になったロザリーさんは瞳から輝きを失わせ、黙秘権を行使する。どうやら無関係を貫く腹積もりのようだ。


「こんっの、クソババア! おい、ロザリー! 妾に責任がないことを証明するのだ!」


「……お風呂を沸かして参ります」


 是が非でも巻き込もうとしてくる二人から逃げ去るようにロザリーさんは気配を絶ち、いつの間にか俺の部屋から完全に姿を消していた。


「――って、うぉい! どこへ行ったのだ!?」


「ふっ、お前の我が儘に付き合ってはいられないと思ったのだろうな。まぁ、私のせいではないとはいえ、このまま放置するわけにもいかないか。このままでは風呂に入ってもまた不快な思いをするだけだしな。まずは主の部屋から何とかするとしよう」


 そう意気込むフラムに対してリーナが不安そうに俺を見つめてくる。


「ええっと、フラムは何をするつもりなんスかね? 何だか少し怖いんスけど……」


「まあ、たぶん大丈夫だと思うよ」


 その日、フラムは除湿機兼乾燥機となった。

 どんな力をどう使ったのかはわからないが、手始めに俺の部屋をあっという間に乾かすと、次は屋敷全体を完璧に元通りに。

 その手際はまさにお見事の一言。フラムは屋敷に住む者全員(プリュイを除く)から称賛を浴びたのであった。


 フラムが屋敷を元通りにした後、俺たちは着替えや風呂などを一通り済ませ、再度俺の部屋に集まることに。そこで今日の成果を発表し、共有する運びとなったのである。

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