第479話 『二つ名』

(ぐぬぬっ……二つ名持ちとは、な。流石の妾でも一筋縄ではいかないか)


 竜族には司る属性を問わず、共通の風習があった。

 その一つが――『二つ名』。


 各竜族の中でほんの一握りの強者のみが名乗ることが許されている『二つ名』は、有名であるかどうかはさておき、誰にでもわかりやすい一つの強さの指標となり、証左にもなっているのだ。


 『不屈』のランナル。

 竜族の中でも世間知らずと言われているプリュイでも『不屈』がランナルの『二つ名』であることは容易に理解できていた。

 それほどまでに『二つ名』が持つ効果は絶大であり、絶対的なものなのだ。


 受け止めたプリュイの拳をそのままにランナルは話を続ける。


「貴様の名を……いや、是非とも『二つ名』を訊かせてもらおうか」


 その言葉にはほんの僅かな気遣いの他に、侮蔑と嘲りの色が多分に含まれていた。

 仮面で素性を隠しているプリュイに名を明かさずに済むよう一定の配慮しながらも、持っている者が極めて稀である『二つ名』を名乗らせようとランナルは考えたのだ。


 つまるところ『名乗れる名があるのならば、名乗ってみせよ』。プリュイを見下した意味合いがあったのである。


「……」


「くくっ……やはり名無しであったか」


 口ごもったプリュイに、ランナルは失笑を浴びせる。


 端から『どうせ名乗れる名などないだろう』と高を括っていたランナルだったが、事実は異なる。


 プリュイは『二つ名』を持っていたのだ。


 プリュイが『二つ名』を名乗らなかった理由は他でもない。その『二つ名』があまりにも有名過ぎた故に、名乗ることを嫌っただけに過ぎなかった。


 だが、そんな事情をランナルが知るはずもなく、ただただプリュイのことを格下であると決めつけ、蔑む。

 ランナルの瞳には愉悦と傲慢の暗い輝きが宿っていた。


 明らかに侮辱的な態度を取られていることにプリュイは際限のない怒りを募らせていく。


 そして案の定というべきか、尊厳と矜持を踏みにじられたプリュイが黙ったままでいられるはずがなかった。


 プリュイを中心にして渦巻くように、吹雪が舞う極寒の夜に更なる寒さが訪れる。

 生きとし生けるもの全てを凍てつかせるだけではなく、時の流れすらも凍らせる極寒の冷気が吹き荒れる。


「――総員退避せよっ! 『義賊』のもとへ駆けるのだ!」


 ランナルは瞬時に部下たちに命令を下す。

 統率された兵士たちは命令に従い、ランナルのもとから離れ、『義賊』を囲うようにその場から移動する。


 その判断は間違いではなかった。

 プリュイが放った冷気は指向性を持っていたからだ。

 後方にいた仲間たちを巻き込まないよう、プリュイは左右と前方のみに冷気を放っていたのである。


「……貴様、水の者であろうに『掟』を破るつもりか?」


 ランナルはその瞳に驚愕を宿す。

 水竜族が『不殺の掟』を設けていることをランナルは知っていたからだ。

 無論、『掟』とは必ずしも守られるものではないとランナルは独自解釈をしていた。正当な理由さえあれば容易に破られるものだ、と。


 しかし、今の状況はどうだ。

 敵対こそすれ、部下たちは命を脅かすような真似も、ましてや戦闘行為もまだ行っていなかった。

 水竜族の詳細な内情は知らないが、『掟』を破るにはあまりにも不十分だったとランナルは感じていた。にもかかわらず、目の前に立つ小柄な竜は、正当な理由もなしに簡単に『掟』を破ろうとしたのだ。

 ランナルからすれば、とち狂ったのかと思わず目を疑いたくなる光景だったのである。


 プリュイとランナルの近くから人が遠ざかり、半ば二人きりとでも呼べるような空間が完成する。


 これで邪魔者は排除できた。

 これで枷はなくなった。

 これで隠す必要もなくなった。


 あらゆる制限から解放されたプリュイは、ランナルの問い掛けに答えるよりも先に漆黒の仮面に左手を伸ばし、そして――砕いた。

 ついでとばかりに、外套についていたフードも払いのけ、艶のあるマリンブルーの髪の束が零れ落ちる。

 海のように蒼い瞳に闘志と憤怒を滾らせ、ランナルを見上げ睨み付ける。


「殺すつもりなど毛頭なかったぞ。だが、仮に殺してしまったとしても関係ないがな。妾に楯突く者など我が一族にはいないのだから――なっ!」


 強烈な回し蹴りがランナルの脇腹目掛け、放たれる。

 先ほどの正拳突きとは比較にならないほどの凶悪な威力を持った一撃。脇腹の肉だけでは飽きたらず内臓もろとも抉り抜かんとばかりに放たれた蹴りをランナルは寸前のところで回避する。


 バックステップで凶悪な蹴りを回避したその刹那の間、ランナルの瞳孔は驚愕によって見開かれていた。


「――ッ!?」


 小さな身体から放たれたとは思えない一撃に驚いたわけではない。

 ランナルが驚いたのは素顔を見せた少女……そう、『プリュイ』という存在に驚き、そして狼狽えたのである。


 水竜王の娘――プリュイ。


 その名もさることながら、その素顔を知らぬ者は上位の竜族にはいない。もし知らない者がいるとするならば、世間知らずの愚か者か、他種族のことを何も知らない若輩者か、二つに一つである。

 写真や画像などを共有できる高度な情報網が存在しないこの世界でも、プリュイの名と素顔はそれほどまでに伝え知れ渡っていたのだ。


 回避に成功したランナルは、すぐさま攻撃へと反転……とはならない。いや、なれなかった、と表現した方が正しいだろう。


 何せ、相手は水竜王の娘なのだ。もはや勝てる、勝てないの話ではない。

 もしプリュイを傷付け、そればかりか殺しでもしたら、想像もつかないほどの大問題に発展しかねない。そうなれば最後、ランナルだけの責任問題ではなくなり、竜族間の問題にまで発展してしまう。

 つまるところ、『二つ名』を持つランナルでさえも、容易に手出しできるような存在ではのだ。


 遥か太古の幼き頃から植え付けられ、育まれてきたランナルの理性が、価値観が、ランナルの身体を縛りつけ、動けなくしていた。


 だがそれも――


 そう思考を切り替えてからは早かった。

 身体を縛りつけていた柵を頭の中から追い払い、ランナルは嗤う。


「くくっ……『波濤』のプリュイ、か。――相手に取って不足なし!」


 錆色の髭に、乱雑に切られた錆色の髪。

 外見こそ野蛮そのものだったが、ランナルの立ち振舞いはまるで騎士と見間違えるようなものへと変わっていく。

 すっ、と表情を消したランナルは片膝をつき、手を地面へと翳した。

 すると、それまで雪を被って隠れていた石畳がもぞもぞと生き物のように蠢き、そして雪と砂塵を巻き上げ、爆ぜたのである。


 一見、何の変哲もないただの爆発に見えたが、プリュイの蒼瞳はソレを見逃していなかった。――土色で描かれた魔法陣の存在を。


 煙が晴れるとそこにはその巨躯に相応しい巨大な戦斧を担いだランナルの姿があった。

 金に近い鈍い輝きを見せる巨大で鋭利な戦斧は、如何なる物でさえも全て断ち切り、破壊しそうな禍々しい雰囲気を放っている。


「この斧を使うに相応しい相手に出くわすとはな」


「ふんっ、くだらぬな。たかが武器を召喚した程度で妾が恐れるとでも?」


 体格差を全く気にしない威圧的な態度で振る舞うプリュイに対し、ランナルは小さく首を左右に振った。


「ある程度、貴様の性格は知っている。これしきのことで恐れおののく者ではないということはな。だが、いつまでその態度を保っていられるか……見物だ!」


 ランナルが戦斧を振りかざす。


「――戯け。妾を知りつつ歯向かったことを後悔させてやろう」


 プリュイが手を翳す。


 こうしてプリュイとランナルの戦いが本格的に始まったのであった。

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