第453話 朧気な記憶

 その日、フレーデン公爵家の屋敷では盛大な晩餐会が催された。


 ――内務大臣であるラーシュ・オルソン率いた視察団を歓迎するために。


 貴族が治める領地の治安や税収、その他情況を視察・調査するために、国王直々に編成された視察団がフレーデン公爵領を訪れてきたのだ。


 脛に傷を持つ貴族でなくとも、この訪問を喜ぶ者はなかなかいないだろう。

 だからといって無視することはできない。嫌な顔一つせずに表面上は歓迎せざるを得ない強権を持った存在だからである。

 少しでも心証を良くし、平穏無事に一刻でも早く帰ってもらうためにも歓迎の催しは必要不可欠だった。


 しかし、マルティナの父であるクリストフはそこらの貴族とは考えが違った。


 マギア王国国王アウグスト・ギア・フレーリンの右腕とも囁かれ始めたラーシュ・オルソンの存在は、今後マギア王国の貴族を続けていく上で無視することができない重要人物であり、ラーシュが本格的に力をつける前に良好な関係を築き上げたいと考えていたのだ。


 全てはフレーデン公爵家の繁栄のため。フレーデン公爵家の権力を確固たるものにするために。


 クリストフが娘のマルティナを急遽王都から呼び出したのは、この晩餐会に出席させることで親子共々、なんとかラーシュと接点を得るために他ならなかった。




 半ば強引にメイドたちの手によって淡い青色のドレスに着替えさせられたマルティナは、晩餐会が始まる直前に父クリストフの執務室を訪れるよう言付かっていた。


 疲弊し沈みきっていた気持ちを表に出すことなく、マルティナは執務室の扉を軽快にノックする。


「――入りなさい」


(……?)


 扉越しに聞こえてきた父の言葉遣いにマルティナは僅かな違和感を抱く。

 声色こそ普段と変わらずぶっきらぼうなものだったが、言葉遣いが普段よりも丸いものになっていたからだ。


(……お客様がおいでなのかもしれませんわね)


 憂鬱だった気分がより一層憂鬱になっていく。

 だがマルティナは吐き出しかけていた溜め息をごくりと呑み込むと、ドアノブに手を掛けてゆっくりと扉を開いた。


「失礼致しますわ」


 客人を確認する前に深々と頭を下げて目を閉じる。

 ここで客人を先に確認するようでは公爵家の令嬢として恥。クリストフの機嫌を損ねるには十分過ぎる理由になってしまう。

 ここでの正解は客人がいるかいないかにかかわらず、自らアクションを起こさずに受け身に回ることだとマルティナは理解していた。


 すると案の定と言うべきか、父とは違う男性の声がマルティナの耳に飛び込んでくる。


「おお、これはこれは。容姿も礼儀作法も素晴らしい方ですね」


 唐突に感嘆の声が上がる。

 だがその声はマルティナからしてみれば明らかに演技掛かったものだった。父は気付いていない様子だったが、普段から父の前で演技を続けてきたマルティナにとっては簡単に演技だとわかってしまう。


(下手なお世辞ですこと。それにしてもこの声……どこかで……?)


 どこか聞き覚えのある声だった。

 だが、いくら思い出そうとしてみても頭の中には誰の顔も浮かんでこない。むしろ考えれば考えるほど頭の中に靄がかかり、次第に勘違いだったかもしれないと思えてくる。


「マルティナ、こちらに来て座りなさい」


「……かしこまりました」


 返事に少し間が空いてしまったのは、久方ぶりに父に名前を呼ばれたからだった。彼女の記憶の中には少なくともここ数年名前を呼ばれた覚えはない。


 ようやく頭を上げることが許され、マルティナはゆっくりと頭を上げて目を開く。

 そして目を開けたマルティナの視界に飛び込んできたのは、片目にモノクルを嵌めたボサボサ頭の青年だった。


「どうも初めまして。自分はラーシュ・オルソンと言います」


 わざわざ椅子から立ち上がり、柔らかな笑みを浮かべながら丁寧に頭を下げるラーシュに対し、マルティナもドレスの裾を掴み、懇切丁寧に自己紹介を行う。


「ご丁寧にありがとうございます。ワタクシはクリストフ・フレーデンの娘、マルティナ・フレーデンと申します」


「あははは……美しい女性にこう丁寧に接せられると照れてしまいますね」


 ひとしきり挨拶を終えた二人はテーブル越しに対面になるよう席に腰を下ろす。当然、上座にはフレーデン公爵家の当主であるクリストフが座っている。


「どうやらオルソン侯爵は世辞が上手いようですな」


「いえいえ、本音ですよ。自分は昔から嘘を吐くのが苦手な性分でして」


「はっはっはっ、もしそれが本当なのだとしたら、そういった裏表のない性格も陛下に気に入られた要因の一つなのかもしれませんな。無論、才覚有ってのことでしょうが」


 談笑する二人の爵位は公爵と侯爵。

 爵位も年齢もクリストフが上だが、ラーシュは縮こまることなく堂々とした態度で接する。


「自分などまだまだ未熟者ですよ。運良く陛下の御目に留まっただけですから」


「謙遜を。その若さで立派に内務大臣を務めているというのに」


 話に加わらず大人しく耳を傾けていたマルティナは『内務大臣』という言葉に、ふと反応を示す。


(……この御方が内務大臣ですの? と言うことは、普段は王城で働いているに違いありませんわよね? ですのに、この御方とは一度もお会いした覚えが……)


 不思議だった。

 マルティナはカタリーナの学友という立場で王城に幾度と足を踏み入れたことがあるが、これまで一度としてラーシュに出会った記憶がなかったのだ。

 無論、王城は広く、そこで働く者が多くいることをマルティナはわかってはいたが、それでも一度たりともその顔を見た覚えがない。しかし、声だけはどこか聞き覚えがあるというのが、どうにも腑に落ちなかったのだ。


「立派かどうかはわかりませんが、自分は誠心誠意、陛下にお仕えするだけです。……おや? 自分の顔に何かついてますかね?」


 そう指摘され、マルティナは無意識のうちにラーシュの顔をまじまじと見つめていたことに気付く。


「も、申し訳ありませんっ。つい考えごとを……」


 大失態を犯してしまう。

 公爵家の令嬢としての振る舞いに相応しくない行動を取ってしまった。

 恐る恐る横目で父の顔を覗くと、やはりと言うべきかマルティナだけにわかる程度に険しい表情を浮かべているのが目に入る。


「自分の顔を見つめながら考えごとですか? ああ、なるほど……」


 ラーシュが何を納得したのか知らないが、今のマルティナには発言をする余裕も権利も持ち合わせていなかった。彼女には背中に冷たい汗を流しながら耳を傾けることしかできない。


 そんな中、ラーシュは表情をパッと明るくするや否や言葉を続ける。


「自分の勘違いじゃなければ、ですけど……一度だけ王城ですれ違ったことがありましたよね? マルティナ嬢がヴォルヴァ魔法学院に通い、カタリーナ王女殿下と懇意にされていることはフレーデン公爵から聞き及んでましたし、そうなのではないかと思ったのですが……違いましたかね?」


 発言する気はさらさら無くなっていたが、こうして直接話し掛けられてしまえば答えざるを得ない。


「はい、一度だけですが」


(あれ? 今、ワタクシ……なんで……?)


 父の顔色ばかりを窺っていたせいか、気が付けばマルティナは思ってもいなかった真逆のことを口にしていた。


「やっぱりそうでしたかっ。ここ最近忙しくしていたせいですかね、そのことをすっかりと忘れてしまっていましたよ」


 一人盛り上がるラーシュとは対照的に、マルティナの頭はどんどん混乱していく。しまいにはそれまで不機嫌だった父からも言葉を投げ掛けられてしまう。


「ほう……オルソン侯爵と会ったことがあったとは驚きだ。もしかしたら今後も会うことがあるかもしれないな。その時は失礼がないよう気をつけなさい」


「はい、お父様」


 ラーシュと会ったことがあるという話のお陰か、クリストフの顔から険しいものが取れていた。

 その様子にホッと安堵を吐きつつ、マルティナは考える。


(ワタクシと会ったことがあると仰っていた……ということはつまり、ただワタクシがこの御方の顔を忘れていただけですの? 人の顔を覚えることにはそれなりに自信があったというのに……)


 『七賢人セブン・ウィザーズ』におけるマルティナの役割は監視網の構築と、標的の観察・追跡にある。そのためマルティナは『義賊』として活動していくうちに自然と人の顔を覚えるのが得意となっていた。


 だが、いくら記憶を掘り返してみてもマルティナにはラーシュに会った記憶はどこにもなかった。ラーシュの声には聞き覚えがあるにもかかわらず、だ。


 言葉に言い表せないモヤモヤがマルティナの頭を、心を支配していく――そんな時だった。


 ――ズキンッ。


 激しい頭痛がマルティナを襲う。


「……うっ」


 あまりの痛みに声を漏らしてしまうのを抑えられなかった。


「どうかしましたか?」


 すると、マルティナの様子がおかしいことに気付いたラーシュが身を乗り出すように顔を近付け、心配の声を掛けた。


「い、いえ、何でも……」


 ――ズキン、ズキン。


 時間が経つにつれ、痛みは激しさを増していく。


「顔色が悪いですね。少し休ませて差しあげた方がよろしいのでは?」


 マルティナの身を案じ、ラーシュがクリストフにそう提案する。


「……そうだな。申し訳ない、オルソン侯爵。今宵の晩餐会、マルティナを欠席させ、休ませようと思う」


「いえいえ、お気になさらず。それよりも……」


 頭痛で思考が停止していたマルティナの目の前に、男性にしては細くしなやかな手が差し出される。


「立ち上がるのも辛そうですね。どうぞお手を」


 ラーシュから差し出された手を、ぼんやりとしてきた意識の中でそっと握る。


「ありが、とう……ございます……」


 ラーシュの手を借り、ゆっくりと椅子から立ち上がっていく。

 その最中、それまでマルティナを襲っていた激しい頭痛は、何故かその痛み和らげていった。




 それからマルティナは執務室に呼び出されたメイドに連れられ、自室へ。

 その頃にはすっかりと頭痛は治まっていたが、意識が朦朧としていたこともあり、大事をとって晩餐会を欠席することになったのだった。

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