第452話 荒んでいく心
マルティナの実家――フレーデン公爵家は、王都ヴィンテルから北へ馬車で約二日程度の場所に広大な領地を持っている大貴族である。
暫くの間、学院を休学することにしたマルティナは、自然豊かでありながらも魔法技術の発展に伴い、大きな繁栄を遂げたフレーデン公爵領一の大都市『ノルヴィード』にある実家に、母を伴って帰省していた。
心身ともに疲弊しきっていたにもかかわらず、マルティナが帰省するに至った理由――それはマルティナの父であるクリストフ・フレーデンから急遽呼び出しを受けたからである。
貴族の中でも、そして家庭の中でも絶対的な権力者であるクリストフの呼び出しをマルティナは拒否することはできなかった。嫌々ながらも仕方なくノルヴィードへ帰らざるを得なかったのだ。
大都市ノルヴィードの中心には人の手が加わった人工的な自然が広がっている。計算された配置に植えられた木々は冬であることを忘れているかのように生い茂り、その奥に建てられている立派な屋敷を緑豊かな葉で覆い隠していた。
マルティナは屋敷の二階にある自室の窓越しから外を眺める。
緑豊かな木々を見ているだけで心は少しずつ癒されていく。しかしどこか空虚であり、寂しさを感じてしまうのは、マルティナがこの屋敷を嫌っているからに他ならない。
ここは帰るべき場所ではない。
マルティナにとってこの場所は――『檻』なのだ。
公爵家の令嬢として育てられたマルティナは、物心がついた時から父であるクリストフから厳しい教育を受けてきた。
フレーデン家に相応しい礼儀作法を。
フレーデン家に相応しい知識を。
フレーデン家に相応しい魔法の才を、と。
マギア王国の貴族に連なる者は全て、魔法の才能や資質が重要視されている。
同じ爵位を持った貴族同士でも、魔法の才能に恵まれた者が優遇されるのは当たり前の世界。周囲から評価されることはもちろんのこと、魔法の才能に秀でているだけで尊敬され、より多くのコネクションを得ることができるのだ。
だが逆を言えば、魔法の才能がなければ評価されない厳しい世界でもあった。
とはいえ、いくら魔法の才に恵まれていなかろうが、地位を無視され、下の者から横柄に接せられるようなことには至らない。しかしながら魔法の才なく爵位に見合った敬意や名誉を得ることができるかと問われれば、答えは否となる。
故に、マルティナは公爵家の人間に相応しい魔法の才能……能力を得るために徹底的に厳しく育てられてきたのであった。
当然、そこに自由はない。
まるで籠に閉じ込められた鳥の如く自由を奪われ、家庭教師役の国内屈指の魔法師に教えを乞うだけの日々をマルティナは送らされて育ってきた。外に出しても恥ずかしくないと父から認められるまで、屋敷だけでの生活を幼少期から強いられてきたのだ。
(……外の景色は見ていて落ち着く。けれども、この屋敷にいるだけで憂鬱になりますわね)
深い溜め息が窓ガラスを白く曇らせる。
マルティナは外の景色から視線を外し、嫌な思い出ばかりがよみがえる部屋を見渡す。
派手な装飾品の数々が部屋を美しく彩っている。しかしマルティナの目にはそんな部屋がどこか色褪せて映っていた。
――コンッ、コンッ。
ノックの音が静まり返っていた部屋に響き渡る。
「どうぞお入り下さいな」
この部屋を直接訪ねてくるのはメイドだけ。
父がマルティナに用事があったとしても、一度メイドを通してくることをマルティナはわかりきっていた。
「失礼致します、お嬢様。ご主人様が執務室にてお待ちです」
「わかりましたわ。着替えを済ませてからお訪ねすると伝えて下さるかしら」
「かしこまりました」
短いやり取りを経て、メイドは深々と頭を下げて部屋を出ていった。
(急用があるとはお訊きしてましたが、一体何があるというのかしら)
着替えを済ませ、身だしなみを整える。
いくら家族同士とはいえ、身だしなみを整えることは必要不可欠だった。
父の機嫌を損ねれば家に連れ戻されてしまう。その可能性が捨てきれない以上、マルティナは一挙一動において慎重にならざるを得ないのである。
「参りましたわ、お父様。お元気にしておりましたか?」
クリストフがいる執務室を訪ねたマルティナは、久方ぶりに会った父に作り笑顔を浮かべて挨拶をした。
「お前を呼んだ理由は他でもない。会わせたい者がいる」
だが、クリストフから返って来たのは用件を伝える言葉のみ。それもマルティナの顔を一切見ようともせず、机の上の紙にペンを走らせながら。
(……相変わらずワタクシに興味がないようですわね)
それを寂しいとは今更思わない。
それが当たり前。父がそういう人間なのだということは嫌なほど理解しているからだ。
「会わせたい方がいらっしゃる……それはお見合いという意味でしょうか?」
学院を卒業するまで残りわずか。
この世界、この国では、マルティナくらいの年齢で婚約者ができることなど然して珍しいことではない。
中には生まれながらにして婚約者がいる者だっているのだ。もし仮にマルティナの想像通り、たった今婚約者を紹介させられたとしてもマルティナは一切驚くことはないし、動揺することはない。それが例え、望まぬものだとしても。
父であるクリストフの命令は絶対的なものであるとマルティナには刷り込まれているのだから。
しかし、無意識に婚約を受け入れていたマルティナの予想は外れることとなる。
「違う、そうではない。お前がその者と繋がりを持つことが後々、我がフレーデン家に有益なものになると判断しただけだ。……それにあの者には近いうち婚約者ができると耳にしているからな」
『あの者』とは誰のことを指しているのか気になるところではあったが、この場で『あの者』の名を訊く権利をマルティナは持ち合わせていない。
クリストフの性格を鑑みるに、顔を会わせる直前までマルティナがその名を知る時は来ないだろう。
「それとお前の婚約者についてだが、今も選考中だ。相手は我がフレーデン家に相応しい者でなければならない。選考にはまだまだ時間を要するだろう」
「承知しておりますわ、お父様」
ついでとばかりに聞かされた自身の婚約話に、マルティナは嫌な顔一つ見せずに微笑んでみせる。
(婚約者が決まらないことを喜ぶべきか悲しむべきか難しいところですわね。結局のところ、お父様にとってワタクシは物。それは今も昔も変わらない。ワタクシはフレーデン家をより磐石なものにするための道具に過ぎないのですもの)
己が身は道具――それはマルティナがすっかりと忘れていた感覚だった。
王都にいる時には忘れていたが、帰省し、父とこうして顔を会わせたことで、暫く忘れていた感覚をマルティナは思い出す。
自我が溶けてなくなり、世界が灰色に見えてくる。
父の顔色だけを窺うだけの日々。
そこに自分の感情は必要ない。
顔面には笑みを貼り付け、ただ父の言うことに頷くことだけがマルティナに許された権利なのだ。
「その者が来る時まで屋敷で待機していろ、いいな?」
「かしこまりましたわ」
「ならばよろしい。話は以上だ」
到底父と娘との会話とは思えないやり取りをした後、マルティナは早々に執務室からの退出を促され、足早に自室へと戻った。
ベッドに横たわり、天井を見つめる。
(ああ……やはりワタクシの居場所はここにはない。そしてもう……学院にも。ワタクシは全てを失ってしまった。本当、ワタクシの人生は失敗だらけですわね……)
マルティナの精神は学院を休んでも尚、快復の兆しを見せない。それどころか、帰省したことでより酷く荒んでいったのであった。
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