第41話 それから…

 〇森崎さくら


 それから…

 なっちゃんは…あたしに、指一本触れなくなった。


 朝、起きて…キッチンに行くと、朝食が出来てて。

 それは、すごく美味しそうで。

 わあ、美味しそう。って、笑顔で…一緒にいただきますって出来たら…

 どんなに幸せだったんだろう。


 だけど、なっちゃんはそこにはいなくて。

 あたしは…一人で、それを食べる。


 …いつ?

 あたしは…いつ、どのタイミングで…ここからいなくなれば?


 なっちゃんは…周子さんと結婚する…

 …考えただけで…食事の手が止まる。


 結婚…



「……」


 今まで…なっちゃんは常にあたしのそばに居てくれた。

 あたしは、寝たきりでも…なっちゃんのものでいられた。

 なっちゃんは…周子さんに会いに行ったりしてたけど…

 それは、義務もあったのだと思う。

 だって…施設に入ってるって…言ってたし。



 …なっちゃんが…誰かのものになる…

 それは、すごく…

 ……嫌だと思った。


 だけど。

 だけど…



 相変わらず仕事には行かない、なっちゃん。

 あたしがキッチンに立ってると、少し離れた場所からそれを見てる事は…ある。

 すごく…視線を感じる。

 だけど、あたしはあえて振り向かなかった。

 あたしが気付いたら…なっちゃんは、その場から居なくなるから…



「食事ぐらい、一緒にしない?」


 書斎の前で声をかけると、中から返事は聞こえなかったけど…


 ガチャ


 静かに、ドアが開いた。



 この家に来て初めて…向かい合って、夕食をとった。

 本当は…これが笑顔でなら最高なんだけど。

 当然だけど、笑顔はない。

 なっちゃんは、黙々とスープを飲んで、静かに食事を続けた。


「…ねえ、なっちゃん。」


「……」


「……愛してる。」


「……」


「……」


「…ごちそうさま。」


 あたしの顔も見ずに、立ち上がったなっちゃん。

 あたしは、なっちゃんを追って、腕を取る。


「どうして…無視するの?」


「…おまえは、どうして今更そんな事を?」


「…言いたくなったから…」


「……」


「…愛し」


「もう遅い。」


 もう一度言いかけたところで…遮られた。


 …仕方ないけど…

 冷たい声…



「…遅くても…言いたくなったから…」


「……」


「愛してるのに、どうして…って思うよね。」


 あたしはなっちゃんの手を握って…それから、腕を抱きしめた。


「…なっちゃんが…瞳ちゃんを大事って言うように…あたしも…知花が大事…」


「……」


「死産って…聞かされたの…だから、生きてるなんて…思わなかった…」


 なっちゃんは窓の外に目を向けたまま、何も言わなかった。

 夜空には、もうすぐ満月なのかなってぐらい…

 丸くて大きな月。

 とても…明るい夜。



「あの子の…そばにいたい…」


「……」


 月が…雲に隠れて。

 さっきまで月明かりに照らされていた庭が暗くなった。

 それはまるで…なっちゃんの心の中のようにも思えた。



「あたし…どこにいても…」


「……」


「なっちゃんの事…大事に想うから…」


「……」


「本当よ…?」


 なっちゃんは…何も答えてくれなかった。

 当然だよね…


 そして、ゆっくりとあたしの手を離して…


「…もう休む。おやすみ。」


 そう言って…部屋に入って行った。



 〇高原夏希


 夕べ…さくらに…『愛してる』と言われた…。


 …愛してるのに、俺達は…一緒に居られないのか。


「…ふっ。」


 つい、笑いが出た。



 十日間、図書館に通って…

 最後の日に、埠頭に行った。

 さくらが、海が見たいと言ったからだ。



 先月、周子と海に行ったばかりで…

 同じ場所には行きたくなかった。

 それに…

 もう、俺の中では…そういう気持ちが強くなっていたからかもしれない。


 …そういう気持ち。


 さくらと…死にたいという気持ち。



 だが、さくらは俺を止めた。

 一緒に…死んではくれなかった。


 …当然か。

 さくらには、明るい未来が待っている。

 愛する娘と…夫が、待っている。

 それを奪おうとするなんて…


 そのうえ…

 せっかく元気になったのに、それを喜んでもやれない。


 …最悪だ。


 俺は、最後まで自分本位なカッコ悪い男だな…



 俺が最後に出来る事は…さくらと死ぬ事だと思っていた。

 だがそれは俺だけの想い…

 …全く…自分で呆れる。

 さくらに選ばれなくて当然だ…。



 いつ…知花に連絡をしよう。

 そう思っている間に、数日が過ぎた。

 今の俺は…何の中身もない…ただの、高原夏希だ。


 本当に…何もない。



 ピンポーン



「……」


 ここの場所を知っている者は少ない。


 誰だろう。

 知花か?

 それとも千里か?


 それとも…また、二階堂翔か?



 俺が玄関のドアを開けると…


「お話があります。」


「……」


 初対面だが…この声は…

 桐生院貴司。


 その後ろに、遠慮がちに立っている知花も見えた。

 …いよいよ、迎えに来たというわけか…。


 無言でドアを開けて、二人を迎え入れる。

 知花は俺に小さく会釈して、さくらの部屋に向かい…桐生院貴司は、俺の前に立ったままだった。


「…二人きりで、お話しがあります。」


「……」


 俺は、それにも無言で…書斎に向かった。

 書斎に入ってすぐ。


「…さくらが、長い間、お世話になりました。」


 桐生院貴司が…俺に頭を下げた。


「…どうして死産だと?」


 低い声で問いかけると。


「…さくらは、ずっとあなたが好きでした。」


 意外な返事が返って来た。


「もちろん、相手が誰かなんて…私は知りませんでしたが…」


「……」


「…『なっちゃん』は…あなたでしょう?」


「……」


 顔を上げて、桐生院貴司の目を見る。


「…ずっと、想っている人がいると知っていました。知っていて…彼女と結婚しました。」


 桐生院貴司も…俺の目を見ていた。

 俺達は、視線を外すことなく…話した。



「知花を出産する時…さくらは、繰り返し言いました。」


「……」


「…なっちゃん、助けて。と。」


「え……」


「…私はくだらない男です。あの言葉に…世も末ぐらいの嫉妬をしました。」


「嫉妬で死産だと嘘をついたと言うのか。」


「はい。」


「おま…」


 桐生院貴司の胸ぐらを掴んで、殴りかかろうとしたが。


「あなたに私を殴る資格がありますか?」


「…何だと?」


「21年前…彼女は、空港で泣いていました。」


「……」


「何があったかは分かりません。さくらは…あなたとの事を、一言も語りませんでしたから。」


 ゆっくりと、腕を下ろす。

 …今更、馴れ初めなんて聞きたくもない…



「ただ、一つだけ。」


 桐生院貴司は、一度足元に視線を落として…それから俺を見て。


「もし妊娠していたら、赤ちゃんを産んでもいいか。と…言われました。」


「……」


 俺は…それを不思議な気持ちで聞いた。


 妊娠していたら?


「大好きな人との、赤ちゃんなんだ、と。」


「……」


 大好きな人との…赤ちゃん…


 …さくらは、おまえと愛し合って、知花が生まれたと言ったんだぞ。

 俺は…さくらの口から、それを聞いたんだぞ。



「知花は、あなたの娘です。」


「………さくらは、君との娘だと言った。」


「私とさくらでは、赤毛は生まれません。」


「さくらの父親がアメリカ人だと…」


「本当ですか?初耳ですね。」


 桐生院貴司は少しうつむいて、小さく笑った。


「ちなみに、高原さん。血液型は?」


「…Bだ。」


「…あとで、知花に聞いてください。」


「え?」


「さくらはO型、私はA型です。」


「……」


「長い間、お世話になりました。」


「……」


「本来、このままあなたと一緒にいる事が…さくらにとっても良い事なのかもしれませんが…」


「……」


「…知花と、一緒にいさせてやりたいんです。」


「……」


「私も、家族として…一緒にいたいんです。」


 家族として…

 俺も、さくらと…家族として、一緒に…

 …だが、そんな資格がない事が、ハッキリと分かった。


 さくらが出て行った理由。

 それは…

 俺が、子供を欲しがらなかったから。


 さくらは、俺と周子との間に瞳が生まれていた事にショックを受けた。

 そして…一時期、心を閉ざした。

 俺のプロポーズを…すぐに受け入れてはくれなかった。

 罪滅ぼし?と聞かれた。

 だが…一緒に居て、乗り越えてくれた…ように思えた。


 …勝手に俺がそう思っていただけだ。



 まだ十代だったさくらに…

 俺の頑なな思いを押し付けて。

 子供は要らない。

 そう…何度言ってしまってただろう。


 瞳の存在を知った頃、さくらは避妊を嫌がった。

 だが俺は…執拗にそうして、さくらの傷をえぐった。


 …バカだ。



 確か、周子も言っていた。

 さくらに対して…酷い言葉を発した、と。

 さくらは…色んな事に一人で耐えていたんだ。

 一緒にいながらも、さくらの気持ちに気付いてやれなかった俺に耐え…

 俺の子供を産んだ周子という存在にも…



「…さくらを…」


 俺にはもう…

 何もしてやれない。


「よろしくお願いします…」


 桐生院貴司に…深く頭を下げた。



 俺にできる事は…

 さくらを…桐生院に戻して…


 周子と結婚する事だ。



 さくらへの気持ちと…決別するために…。





「さくら。」


 さくらの部屋のドアを開けると、知花とさくらが同時に振り返った。


 …俺の…

 さくらと…俺の…娘。


 もう、最後かもしれない。

 こうして、この…俺の家で、俺達が揃うのは。



「なっちゃん…」


 さくらが不安そうな目で俺を見上げる。


「荷物は、あとから送る。今日…このまま知花と帰れ。」


「…どういうこと?」


「他に好きな奴がいる女と、そう長くは暮らしてらんねえよな、知花。」


 知花の顔を見て笑うと、知花は息を飲んだ後。


「…ありがとうございます…」


 俺に、深く頭を下げた。


 …礼なんて要らない。

 どんな形でも…俺はさくらが事故に遭ってからの17年。

 さくらを独り占めしていたんだ…。



「なっちゃん…」


「…いつでも、会えるさ。知花の歌を聴きに来たりしろよ。」


 久しぶりに…さくらの目を見た気がした。

 ずっと…さくらの目も見れなかったし、俺から触れる事も出来なかった。

 だが…これが最後だ。


 俺は、さくらの手を取って歩き始める。

 部屋の外で、桐生院貴司が待っている。


「…さくらを、お願いします。」


 俺がそう言うと…彼が現れて。


「…貴司さん…」


 さくらの手が…俺から離れた。


「さくら…」


 二人が手を取り合うかどうかの所で…俺は背中を向けた。


 …頭では分かっていても…

 どうしても…苦しい。



「一つ…聞いていいか?」


 ベッドの横に立ったままの知花に、問いかける。


「…はい。」


「…血液型は?」


「血液型?」


 知花が、丸い目で俺を見る。


「Bですけど…」


「……」


 血液型なんて…関係ないか。

 確かに、この赤毛は…俺譲りだよな。

『ファ』が…俺に似てる…か。

 …知花が、みんなから恐れられるボーカリストなわけだ。

 俺と…さくらの娘…


 サラブレッドだな。



「高原さん…?」


 ゆっくりと、知花を抱きしめる。

 知花の歌声を聴いて…嫉妬した事もあった。

 やっぱり俺は…器の小さい、どうしようもない男だ。



「あ、あの…」


「…しばらく…このまま…」


「……」



 俺と…さくらの…娘。

 瞳の…腹違いの妹…

 ずっと…その存在に気付けずにいた…。



「…すまない…」


「…いいえ。」


 ずっと戸惑った様子の知花から、ゆっくりと離れる。

 軽く頬に触れると、知花は上目使いで俺を見上げた。


「…愛してるよ。」


 そっと額にキスをした。

 父親としての…愛をこめて。

 知花は何か言いたそうな顔をしたが。


「さ、行きなさい。」


 俺が背中を押すと、振り返りながら歩いて行った。



 外まで…見送る気力はなかった。

 俺はベッドに座って…そのまま仰向けになった。


「……」


 さくらは…ずっと、この天井を見たまま…過ごしていたのか…

 殺風景な、何もない部屋で。


 俺は…

 何もしてやれなかった。

 さくらを寝かせたまま。

 ただ、愛してると繰り返して…自己満足に酔っていただけだ。



 …さくら。


 今度こそ…幸せになれよ。

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