第38話 「…さくら。」

 〇高原夏希


「…さくら。」


 本当は…もう何も考えたくなかったし、現実を見るのも嫌だったが。

 知花はさくらの娘で、さくらは桐生院貴司の妻だった。


 今、もし…さくらが桐生院家に戻りたいと言うなら…

 俺は…それを止める事はできない…



 あえて…ベッドには入らず、さくらの手を取って…座って話しかけた。


「桐生院に…戻りたいか?」


「……」


 さくらは…ずっと泣いていたのか、赤い目をしていた。

 そして…左手の薬指に、今までなかった指輪…


「……」


 俺が無言でそれを見ると。


「…ごめ…ん…」


 さくらが…手を…引き抜いた。


 …いつの間に…こんなに力が出るようになってたんだろう。

 俺の知らない間に…



「…教えてくれ。」


 もう…自分が何をしてきたのか…

 それさえ分からなくなりそうだった。



「知花が…桐生院貴司と…さくらの娘だっていうのは…本当なのか?」


 俺の問いかけに、さくらは一度瞬きをした。


「…でも、知花の赤毛は?」


「…あた…し…」


「……」


「……ハーフ…」


「え?」


「父親…アメリカ人…」


「……」


 信じていいのかどうか…分からない。

 …しかし、どちらにせよ…

 知花が…俺の子供…とは、さくらは言わない気がした。


 こんな時なのに、知花の『ファ』が俺の声に似てると言った周子の言葉を思い出した。


 せめて…

 知花が、俺とさくらの娘なら…

 俺は、さくらの手を離さずにいられる。

 そう思うのに。


 …記憶が戻ったのか?

 桐生院貴司という人物…

 俺の中では、知花を渡米させる時に勘当した、少し了見の狭い男という印象だが。

 さくらは…その男を愛して、知花を産んだと…?



「…桐生院貴司とは…いつ出会ったんだ…」


 溜息交じりに問いかけると。


「…アメリ…カ…」


「…向こうで?」


「……ごめ…ん…」


「……」


 謝るって事は…

 二股でもかけられてたのか?俺は。


 もう、言葉が出て来なかった。

 ただただ…ショックと…大きな疲労感と喪失感。

 俺の愛は…

 俺の愛は…何だったんだ?

 あの、アメリカでの二人の生活は…

 何だったんだ?



「なっち…ゃん…」


 さくらが、手を伸ばしてきたが…

 俺は、どうしていいか分からず、うつむいたまま動かなかった。

 すると、さくらは知花にしたように…身体を起き上がらせて…

 俺を、抱きしめた。


「……」


「ごめ…ん…」


「……」


「…ありが…と…う…」


「……」


「あ…りがと…う…」



 何が…

 何が、ありがとうなんだ?

 おまえ、何言ってんだ?

 他の男からもらった指輪をして…俺を抱きしめて…

 何やってんだ。


 さくらの肩に手を掛けて、身体を引き離す。


「…っちゃ…ん…」


「…桐生院へ、帰りたいのか。」


 さくらの目を見て…再度問いかける。


「俺と…ここに居る事より、向こうを選ぶのか。」


「……」


「愛してるって、言ったじゃないか…」


 身体の力が抜けて…さくらの肩に頭を乗せる。


「…おまえが…元気になったら…もう一度プロポーズして…今度こそ夫婦になるって…」


「……」


 さくらの肩に頭を乗せたまま、泣きながら弱音を吐いた。

 …情けない。



 仕方ないだろ。

 さくらには…想い人がいて。

 だが、忘れていて。

 思い出しただけだ。


 …、だ。


 そう思いたいのに。


 俺は、少しずつ壊れていった。



 〇森崎さくら


 なっちゃんを…傷付けた。


 だって…あたし…やっぱり、ここには…いられないよ…

 なっちゃんの事…

 好きだから…

 好きだから、ここには…いられないよ…


 それに…

 桐生院には…知花がいる。

 あたしと、なっちゃんの…娘。

 20年間…知らなかった存在…



 最初は…複雑だった…

 だけど…

 来てくれるたびに…あたしの手を握って…

 他愛もない話…

 嬉しかった…


 あたし…あなたを産む時…

 もう、いや…なんて…思ったのに…



 知花は…すごく可愛くて…

 本当に…小さな事を…喜んだり…

 知花の…日常…聞いてると…

 何だか…親子って言うより…友達みたいだな…って、思った…



 この子を…育てられなかった…

 その事については…

 貴司さんが…あたしを追い出した理由…知りたい…



 知花が…

 一緒にうちに帰ろうよ…って…言ってくれたの聞いて…

 あたし…

 ああ、そうだ…って…思った…

 あたしには、知花が…いる。

 なっちゃんには…瞳ちゃんと…周子さんが…いる。



『おまえが元気になったら…もう一度プロポーズして…今度こそ夫婦になるって…』


 …なっちゃん…

 泣いてた…

 あたし…

 なっちゃんを…傷付けた…



 あの後…なっちゃんは…何も言わずに…部屋を出た…

 いつもの…なっちゃんなら…

 あたしを…優しく横にして…

 頭を撫でて…額にキスしてくれるのに…


 もう…

 何も望んじゃいけない…



「さくら。」


 気が付いたら…なっちゃんが…そばにいて。


「風呂に入ろう。」


「え…」


「今日は色々疲れただろ。」


「…な…っちゃ…?」


 なっちゃんは…真っ赤な目で…だけど笑顔で…

 いつもみたいに…あたしの服を脱がせて…ヒョイって抱えて…


「今日はバラの香りにした。気持ちいいぞ。」


「なっちゃ…」


 どうして…?


「ほら。いい香りだ。」


 バスタブで…なっちゃんは…

 いつも通り…あたしを後ろから抱きしめて…

 首筋に…唇を…這わせる。


「…さくら…」


 なっちゃん…?

 どうして?

 こんなの…


「…このまま…ずっと一緒にいよう…」


 なっちゃんはそう言って…あたしを向き直らせると…

 優しく…キスした。


 …ダメだよ…

 あたし…桐生院に…


 あたし、抵抗しようと…したけど…

 なっちゃんは…簡単に…あたしの腕を抱きすくめて…


「…愛してるよ…」


 耳元で…そう言った…


「愛してる…さくら…結婚しよう。」


「……」


「yesって…言ってくれないのか?」


「……」


「…また…俺を捨てるのか…」


 胸が…

 切り裂かれる思いだった…


 また…


 そうだ…

 あたし…また…

 なっちゃんを…裏切る…



 なっちゃんは…びしょ濡れのまま…あたしをベッドまで運ぶと…


「駄目だ。おまえは…ずっと俺の物だ。」


 乱暴に…

 あたしを抱いた…。



 もう…

 何をどうしたら…いいのか…

 分からなかった。



 次の日、サカエさんがいない事に気付いた。

 なっちゃんは…仕事にも行かずに…あたしのそばにいた。


 何があっても…仕事…休まない人なのに…


 こんな事…初めて。


 …なっちゃん…

 あたしが…なっちゃんの心…壊してしまった…



「料理なんて久しぶりにした。」


 なっちゃん…笑ってるけど…


「おまえの料理、美味かったな。覚えてるか?一緒にキッチンに並んで、歌いながら飯作ってたの。」


 笑ってるけど…


「ほんと、おまえには驚かされてばっかだったよなー。」


 笑ってるけど…


「おまえの事、知れば知るほど…」


 笑ってる…んだけど…


「おまえ、あの時さ…」


 あたしの…名前…呼ばない…



 あたしの…目も…見てる…気はするけど…


 なっちゃんの目…うつろで…

 何だか…すごく…不安になった…



「今日から、全部俺がするから。」


 なっちゃん…

 そう言って…あたしの…足のマッサージ…始めて…


「……」


 ふくらはぎに…キスして…


「なっ…ち…」


 …とにかく…もう…

 なっちゃんは…あたしを抱く事で…

 安心したかったのかもしれない…



 あたしは…

 なっちゃんが…そうする事で…

 傷を癒せるなら…って…

 従うしかない…気がして…


 知花が…残してくれた…指輪…

 したまま…

 なっちゃんに…抱かれるのは…

 抵抗あったけど…


 なっちゃんは…あたしの左手…

 いつもは…指…組んでたのに…

 左手は…握りしめて…


 何度も…何度も…

 あたしを…抱いた。



 だけど…


「…なのに…違う男の所へ…行くのか?」


 最後には…

 そう…確認される…


「…行かないよな?」


「……」


「…頼む…行かないでくれ…」


「……」


「行かないでくれ…」


 …こんな…なっちゃんは…初めてで…

 あたし…

 なんて…なんてバカなんだろう…って…

 後悔した…



 あの時…

 なんで…怖くなって…逃げたの?

 どうして…なっちゃんと…リトルベニスに…行かなかったの…?

 どうして…貴司さんと…結婚したの…?

 どうして…また…なっちゃんに…



 出会ってしまったの…。




 〇桐生院知花


「とーと。」


「とーと。」


「……とーと?」


 少し前から、華音と咲華が…やたらと『とーと』を連発する。

 あたしが不思議そうに二人の顔を覗き込むと。


「あー…な…なんか、取って欲しいんじゃない?」


 麗がそう言って。


「これ?それとも、これかな?」


 二人にオモチャを差し出した。



「ピカ!!」


「ピカー!!」


「…麗がくれたツリーのおもちゃ、大好きよね。」


 あたしは、二人が手にして光らせてるツリーのおもちゃを眺めて笑う。

 もう季節外れだし…年明けに、また冬に出そうねって片付けようとすると。


「あーん!!」


 二人とも…すごく嫌がった。


「かか、ピカ。」


 華音がツリーをおもちゃを差し出しながら、あたしに言った。


「そうね。ピカピカして綺麗ね。」


「とーと。」


「…とーと?」


「こっ。とーと。」


 華音は、おもちゃを指差して…『とーと』って。


「ね…姉さん、プリン食べない?」


 あたしがおもちゃを手に不思議がってると、麗が立ち上がって言った。


「プリン食べたい人ー。」


「あー。」


「あー。」


 麗の提案に、華音と咲華は手を挙げた。



「ねえ、麗。」


 キッチンでプリンを出しながら、麗に問いかける。


「何?」


「あのおもちゃとか、不思議の国のアリスの絵本って、どこで買ったの?」


「え…」


 麗はなぜか一瞬動きを止めて。


「…どうして?」


 眉間にしわを寄せた。


「え?どうしてって…センスいい物が置いてあるお店なのかなって。」


 あのおもちゃも、不思議の国のアリスの飛び出す絵本も、本当…色合いも綺麗だし飽きない。


「う…うん。センスいいわよ。えっと…『カナリア』ってお店。」


「ふうん…どこにあるの?」


「…うーん…ただでは教えたくないかも。」


「何それ。」


 麗の口元が引き攣ってるような気もするけど、珍しくずっと笑顔で話してくれるから、それ以上は聞かない事にした。



「…姉さん、最近家に居る事多いけど、仕事ないの?」


 プリンを食べながら、麗が低い声で言った。


 …あたし達SHE'S-HE'Sは…

 メディアに出ない事を決めた。

 みんなには本当に申し訳ないし…でも感謝の気持ちでいっぱいだ。

 あたし、これからも…みんなの事、大事にしたい。



「今はちょっと、暇と言えば暇なのかな…」


「それなら気分転換に出かけるとか。」


「…そうね…子供達と買い物って行ってないものね…」


 麗のスプーンを、キラキラした目で見てる華音と咲華を見て言うと。


「あ…いや、二人を連れてじゃなくって。一人で買い物とか。」


「…一人で?あたしが?」


「だって…ほら…仕事に育児に…大変でしょ。一人の時間があってもいいじゃない。」


「……」


 麗の気遣いはありがたいけど…

 育児を大変とは思ってないかなあ…

 だって、うちの家族…本当にみんな、華音と咲華の面倒見てくれるし…

 そのおかげで、仕事も頑張れる。


 どちらかと言うと、あたしがもっと子供達と一緒にいる時間が欲しいぐらい。


 …でも。


 あたし、最近は…さくらさん…お母さんの所にも行けなくなった。

 と言うのも…高原さんが、仕事に出て来ないらしくて…

 あたしにも、一度…プライベートルームに電話があって。


『もう、うちに来るな』


 一言…そう言われた。



 あたし…

 高原さんを…傷付けてしまった…


 母さん…大丈夫かな…



 ピンポーン


「あ、聖子だ。」


 あたしがインターホンに向かいながらそう言うと。


「…七生さん?」


 麗が少し嫌そうな顔をした。

 なぜか、麗と聖子はお互いをライバル視してる。

 あたしから見ると…

 ちょっとタイプ似てるんだけど。

 それは…言わずにおこうかな。

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