第30話 「さくら。千里と何を話した?」

 〇高原夏希


「さくら。千里と何を話した?」


 バスタブに浸かって、さくらの耳元でそう言うと。


「……いしょ…」


 さくらは…少し口元を緩めて…言った。

 本当に、あれからー…千里が会いに来てから、さくらは見違えるほど…力が戻って来たように思う。


 俺に差し出す手。

 俺を見つめる目。


 …もう少し…もう少しだ。

 そんな気がする。


 言葉も、以前より多く発するようになった。

 表情も…豊かになった。



「教えてくれるまで、何度も聞くぞ?」


 頬を合わせながらそう言うと。


「…し…つこー…い…」


 さくらは…クスクスと笑った。


 …ああ…さくらが…戻ってくる…

 そう思うと、俺にも力が湧いた。

 千里がどんな魔法をかけたのか分からないが、それよりも…これからの事を考えたいとも思った。


 …さくらが、ちゃんと…自分で日常生活が送れるぐらいになったら…

 俺は、さくらと結婚したいと思っている。

 …瞳と周子には申し訳ないと思う。

 だが…これは…これだけは譲れない。


 今の状態で結婚をしても、きっとさくらは自分が俺の負担になると思って罪悪感だけを抱える。

 どれだけ俺がさくらを愛していると言っても、だ。

 だから…

 さくらがある程度生活に順応できる能力を戻したら…

 その時、もう一度プロポーズしたい。



「…愛してるよ…さくら。」


 久しぶりに…気持ちを伝えた気がした。


「愛してる…ずっと…変わらない…」


 さくらの首筋に唇を這わして、何度も…そう言った。

 すると…


「…なっちゃ…」


 さくらが、ゆっくり俺を振り返って。


「…あ…りがと…」


 潤んだ目で…そう言った。


「…何の礼だ?俺こそ…ずっとおまえを一人占めさせてくれて…ありがとな。」


 さくらの額に唇を落として。


「…本当に…俺は幸せ者だ…」


 細い肩を…抱きしめた。


「…なっちゃ…ん…」


 愛しい声…

 日々、波はあるが…さくらはここの所、毎日ちゃんと答えてくれる。



 一生、離れない。

 離れたくない。

 …離れられない。

 俺は、さくらがいないと…ダメなんだ。


 それは…もう、あの時に十分わかった事だ。


 もう…あの苦しみは…



 味わいたくない。



 〇森崎さくら


 あたしは…幸せな気持ちになっていた。


 クリスマスの…少し前…

 男の人が…あたしを訪ねて来た。


 神…千里…って言ったっけ…


 前に…なっちゃんが…何度か話してくれた人かな…って思った。

 なっちゃんが、すごく…目をかけてる人…


 その人…

 とんでもない事…言った。


 貴司さんの名前が出て来て…驚いてたら…

 あたしの…赤ちゃん…

 なっちゃんと…あたしの赤ちゃん…生きてる…って…

 生きてるって、教えてくれた…


 知花…


 あたしの名前が…

 みんなが知ってる花だから…

 お義母さんが…つけた…って…


 …ふふ。


 神君…

 ばーさん、って…言ってた…

 失礼だなあ…



 知花…二十歳…そっか…クリスマスイヴで…二十歳だったんだ…

 それに…シンガーになってるなんて…

 あたしが…お腹に歌ってたの…覚えてたなんて…

 なんて…すごい子なの…?



 …会いたい…


 そう…思ったら…

 神君が言ってた言葉…


『知花に会うために奮い立って下さい』


 …そうだ…よ…

 あたし、こんなままじゃ…会えない…

 ちゃんと…話せるように…ならなきゃ…


 最近…なっちゃん…

 また…ちゃんと、あたしの事…見てくれてる…

 愛してる…って…言ってくれる…

 それが…すごく…嬉しい…


 あたしも…

 答えられるように…なりたいよ…

 だから…



「さくらさん、最近笑顔が増えましたね。」


 サカエさんが…そう言って、カーテンを開けた…

 外は…雪…

 あたしが…それを見ながら…


「…サカエ…さん…」


 サカエさんを呼ぶと…


「何でございましょう?」


 サカエさん…優しい笑顔…


「あたし…少し…思い出した…」


 そう、告白した。


「……」


 あたしの告白に…サカエさんは…無言で近付くと…


「…どんな事を…思い出されましたか?」


 静かな…笑顔…


「…あたし…」


「……」


「…結婚…したみたい…」


「………え?」


 サカエさんは、驚いた顔…した…


「…それで…赤ちゃん…産んだの…」


 あたしの告白に…サカエさんは…

 初めて…ってぐらい…

 ちょっと…狼狽えてる…


「そ…それは…17歳の…時ですか?」


「…うん…」


「旦那様は…この事…」


「…知らない…はず…でも…話さなきゃ…いけない…よ…ね…?」


 そう…だよ…

 なっちゃんに…全部…

 思い出した事は…全部…

 告白して…


 それから…

 あたし…

 なっちゃんの…

 お嫁さんにして……って…



「…さくらさん。」


 サカエさんの手が…こめかみに当てられた。

 これは…いつもの儀式…なのかな…

 この後は…いつも…何か…頭の中に…霧がかかる…



「…思い出さなくて…いいんですよ…」


「…サカエさん…?」


「あなたは…旦那様と…何も知らないまま…ずっと一緒にいた方が幸せなんです。」


「……」


 眠い…とても…




 …眠い。




 〇朝霧光史


「…え?」


 俺は…その言葉に目を丸くした。


「せやから…またバンドを組むことになりそうなんやけど…どう思う?」


 親父がそう言うと、母さんは。


「…しっかりやらなきゃね。」


 少し間を開けて…笑顔で言った。


「…ええんか?」


「やだ。」


「……」


「って言っても、やるクセに。」


「……るー。」


 ここに俺が居る事を知ってんのか?

 親父は母さんの肩を抱き寄せると。


「…俺が突っ走り過ぎてる思うたら、引っ叩いてでも止めてくれ。」


 そう言って…さらにギュッと母さんを抱きしめた。


「…引っ叩いたって気付かないクセに。」


「なら、殴ってくれ。」


「あたしが痛いからイヤ。」


「……おまえが居てくれるから、やで?」


 ……つい…目が細くなってしまった。



 親父は、音楽の事になると猪突猛進だ。

 本当に周りが見えなくなる。

 高原さんもそれを知ってるからこそ、親父に仕事の全部を打ち明けずにいてくれる事もある。



 両親のラブシーンなんて目の毒だ。

 何とかこの場を去りたいが、去るには…二人の前を通らなきゃならない。

 仕方なくヘッドフォンでもして下を向いてるか…と思ってると。


「…信じられない。」


 母さんのその言葉に、俺は顔を上げた。


「…るー?」


「信じられない。」


「……」


 母さんは、親父から離れて…強い目で言った。


「あなたのそういう調子のいい言葉、あたし…もう信じない事にしてるの。」


「な…なんで。」


「なんで?分かってるんじゃないの?」


「え?え?」


「……」


 戸惑う親父。

 冷たい目の母さん。


 親父は…すごくオープンに愛情表現をする。

 でも、母さんはクールだ。

 それは、昔からそうだったわけじゃない。

 昔はもっと…母さんから甘えたりもしてたのに。


 なくなった。

 …あの頃から。


 親父、気付いてないのかな。

 その事に…。



 母さんが親父から離れてキッチンに向かった。


「…光史。俺、何かしたか?」


 親父がアップで迫って来た。

 …俺が居るの知ってたのかよ。


「…さあ?」


「何でやろ…」


 本気で悩んでる親父。


「…何かしたって言うか、反対にしてない事はないのかよ。」


「……はっ。」


 俺の言葉に親父は大げさに驚いた顔をして。


「今月花束買うてない!!」


 そう言ったかと思うと…走って外に出かけた。


「……」


 やれやれ。

 いくつだよ。



「…親父がバンド組むの、反対?」


 キッチンに行って、母さんの背中に声をかけると。


「まさか。この歳になって声がかかるなんて、嬉しいばかりよ。」


 カクッ。


「ギターを弾いてるお父さんは、世界一カッコいいでしょ?」


「じゃあなんで…?」


「浮かれ過ぎてるから、お灸をすえただけ。」


「……」


 本当か?

 母さん。

 本当は…嫌なんじゃないのか?



 二十分後、花束を抱えた親父が帰って来て。


「るー、遅うなって悪かった。」


 そう言って、母さんに向かって跪いて花束を差し出した。

 母さんは静かに笑いながら、それを受け取る。

 そして…少し寂しそうに花束を抱きしめて。


「マノン駄目だな。って言われないよう、しっかり弾いてね。」


 母さんがそう言うと、親父は立ち上がって母さんを抱きしめて。


「あたりまえやん!!ありがとな!!」


 何度もキスをした。





「誰と組むんだよ。」


 晩飯になって、ようやく興奮がおさまった感じの親父に問いかけると。


「お父さん、バンドするの?」


「せやで。」


「えー、楽しみー。」


「せやろ。」



 妹の鈴亜と弟の渉は、親父がバンドを組んでいた事は知っていても…リアルタイムで見た事はない。

 それだけに、少し嬉しそうだ。


 事務所の周年ライヴも来ないし。

 まあ…映像はあるけど…

 それもあまり見てないはず。


 …母さんも。



「ベースは臼井。」


「…臼井さん?フリーの?」


「ああ。」


 臼井さんは、その昔『FACE』というバンドのベーシストだった。

 センの本当の親父さん…浅井晋さんと、一緒に活動されていた。

 だが、ボーカリストが不慮の事故で亡くなって解散。

 その後…バンドは組まずに、ずっとサポートとして弾いたり、誰かのレコーディングで弾いたり…


 だけど…

 親父に臼井さん。

 それだけでも豪華だ。



「ドラムは?」


「浅香京介。」


「…え?」


 浅香さん…って言ったら…


「SAYSって、解散してないよな?」


「ああ。でも最近あんまりなー…」


「……」


 確かに…3ピースバンドのSAYSは、ギターボーカルの里中さんのワンマンバンドって感じで…

 ベースとドラムもカッコいいのに、あまり目立たない。

 曲も少しワンパターンになってるし…

 浅香さん、脱退するのかな。



「それと…あ、おかわり。」


 親父は母さんに茶碗を差し出して。


「鍵盤は、ナオト。」


 俺に顔を向けて言った。


「…は?」


「まだ言うなよ?SHE'S-HE'Sのメンバーにも内緒やで?」


「……」


 親父に…ナオトさんに、臼井さんに…浅香さん。


「ボーカルは高原さん?」


「まさか。ナッキーはもうバンド組む気ないやろ。」


「じゃあ、誰がボーカル?」


「…そこやな…」


 そんなに豪華なメンバーなら…俺としては、神さんに歌って欲しい。

 だけど、未だに神さんは事務所に現れないし…

 どこで何をしてるのか、噂もない。


 親父は知ってても良さそうだけど…

 神さんについて聞いても『さあなー。時間が要るんやないか?』しか言わないし…



 …だが、親父とナオトさんが組むぐらいだ。

 それほどのボーカリストじゃないと、高原さんもGOサインなんて出すはずがない。

 うちの事務所に…それほどのボーカリストがいるか?

 …知花なら、文句ないだろうけど…


 まさかな。



 俺が箸を止めたまま色々考えてると。


「もう一回言うとくが、おまえんとこのメンバーにも秘密やからな。」


 親父が、念を押すようにそう言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る