第23話 旅に出て二ヶ月が経った。

 〇神 千里


 旅に出て二ヶ月が経った。

 久しぶりにテレビや週刊誌を見たが、俺がいなくなったという記事は出ていなかった。

 特に騒ぎ立ててくれていない事に…感謝した。

 もう、このまま忘れ去られるのもいい。


 今後の事を…少し考えなければと思ったが…まだ頭が動かなかった。

 とりあえず、あのマンションを出なきゃな…

 そう思って、いくつか物件を見て回ったが…どこもピンと来ないと思ってやめた。


 ピンと来なくてもいいのに、それにこだわるあたり…まだ俺にも少しは何か期待をしている所があるのだろうかと思った。

 今後の、何かに。



 …アズと瞳に謝ろう。

 そう思って、マンションに帰った。


 今までは髪の毛が伸びても結んだ事なんてなかったのに。

 今の俺は、ヒゲも生やしてるし…髪の毛も結んでる。

 らしくないパステルブルーの、ヨレヨレのTシャツを着て、迷彩柄の短パンにビーチサンダルという…

 おかげで誰からも『神 千里』だとは気付かれなかった。


 それは、アズと瞳にも。



「…誰。」


 午後四時。

 こんな時間に二人は帰ってないだろうと思って、カギを開けて中に入ると…二人ともいた。

 今回は裸じゃなかった。

 瞳が眉間にしわを寄せたまま、アズの後に隠れた。



「…誰って、俺。」


「そ…その声は…」


 瞳を守るように、丸めた新聞を手にしてたアズが、目を丸くして俺を見た。

 …上から下まで、そして下から上まで。


「か…か…神…?」


「えっ…ち…千里…?」


「……ただいま。」


 二人は口をあんぐりと開けたまま、しばらく俺を見てたけど。


「どこ行ってたんだよー!!」


「何なの!?この格好!!」


 同時にそんな事を叫んで、俺の肩を掴んで揺さぶった。


「連絡待ってたのに!!どこで何してたんだよー!!」


「似合わな過ぎる!!やめてよ!!脱いで!!ヒゲ剃って!!」


「…同時に言うな。何言ってんのか分かんねーだろ。」


「だから!!」←同時


「……」


「…心配したんだよ…」


 アズは力のない声でそう言うと、俺の肩に頭を乗せた。


「…自分勝手にもほどがあるわよ。」


 瞳はそう言うと、アズの頭が乗ってない方の俺の肩を、拳で軽く突いた。


「…悪かった。」



 それから、アズが記念に一枚撮らせてくれと、俺の写真を撮った。

 瞳は何の記念だと怒っていたが、アズは『神が帰って来た記念だよ』と笑った。


 …悪いな、アズ。

 俺は全然…帰って来てなんかいねーんだけどな…。



 瞳にうるさく言われて、ヒゲを剃った。

 ヨレヨレのTシャツも、迷彩柄の短パンもビーチサンダルも、さっさとゴミ袋に捨てられた。



「しっかりしなさいよ。神千里。」


 瞳は俺の目を見て…そう言ったが。


「…時間がかかる事もあるんだよ、瞳ちゃん。」


 アズがそう言って、瞳の腰を抱き寄せて。


「神、俺達結婚するんだ。」


 優しい…笑顔で言った。


「…え?」


 さすがに、驚いた。

 アズと瞳が?


「高原さんには?」


「言ったよ。藤堂周子さんにも会いに行ってるんだ。」


 確か…高原さんは色んな事情で二度ぐらいしか会えてないと聞いたが…


「パパもママも賛成してくれたわ。今は、毎週三人でママの所へ行ってるの。」


「……」


 久しぶりに…愛を感じた。

 それが自分に向けられている物じゃないのは分かっていても。

 アズが…高原さんに認められたのも嬉しかったし。

 瞳の母親が…高原さんと会えるような状態になったのも…嬉しかったし。

 何より…二人が結婚するという事実が…嬉しかった。


 それなのに…

 俺には、まだ…

 熱が戻らなかった。


 自分でも分からない。


 俺に足りない物は…何なんだ?



 * * *



 別に二人がイチャついてても、俺は全然構わなかった。

 むしろ、あいつらが嫌がるんじゃないかと思って、出て行こうと思っている事を明かすと。


「春に結婚したら出てくから、それまでは三人で暮らそうよ。」


 瞳がそう言った。


 瞳は12月にアルバムを出す予定らしく、レコーディングも順調らしい。

 それにはアズも参加していて、ジャンルの違う曲を弾くのも勉強になって楽しいと笑った。


 二人から事務所に一緒に行こうと誘われたが…行く気になれなかった。

 だが、突然…高原さんがマンションに来て。


「おまえ、契約はどうする。」


 真顔で言った。


「…少し、考えさせてください。」


 そう言った俺に、高原さんは溜息をついて。


「会議での事、腹を立ててるのか。」


 低い声で言った。


「別に高原さんに腹を立てているわけじゃないです。むしろ、今ではダメ出しにも感謝してます。」


「……」


「あれが世に出てしまってたら…俺は後悔したかもしれません。」


「後悔?」


「駄作を人に提供した、と。」


「…千里、おまえ…今まで何のために歌って来た?」


 高原さんはソファーに深く座って。

 俺の目を…見下ろすみたいな感じで見て言った。


「…自分のために歌ってきました。」


「…だよな。それが間違ってるとは言わない。だが…」


「……」


「自分のため『だけ』に歌う事は、自分の力にはならない。」


「……」


「もっと、誰かのために歌いたいと思え。おまえに足りないのは、その熱だ。」


「……」


「待ってる。」


 高原さんはそう言うと、立ち上がって出て行った。



 …誰かのために歌いたい…


 そんな事は…恐らく一度も思った事はない。

 知花に恋をしても、だ。




 部屋に居ても落ち着かなくて、外に出る事にした。

 ヒゲも剃ったし、髪も下ろしたまま。

 これじゃ、バレるな。

 いや…もう、気付く人間もいないかもしれない。



 適当に歩いてると、感じのいい公園があった。

 …この先を右に曲がってまっすぐ行くと…桐生院家か…。

 無意識になのか、こんなに近くに来ていた事に少し笑えた。


 あの家の庭は…本当に癒しだったな。

 ベンチに座って、そんな事を考える。


 知花の腕を取って、引き寄せたあの日…指輪を見せた時の知花の顔…

 ふっ……嬉しそうだった。

 左手の薬指に唇を落として…幸せそうな顔をした。


 あいつを…ライバルと思ってしまう自分が嫌だった。

 同じシンガーとして、その状況を妬んでしまう自分の器の小ささに…心底失望した。


 知花を愛してる。

 なのに、あいつが妬ましい。

 …苦しかった。

 俺は今…あいつに負けたと思っている。

 勝ち負けなんて…


 バカバカしい。



「……」


 ふと視線を感じて顔を上げると…少し離れた場所に、麗がいた。


「…よお。」


 無視するのもどうかと思って、声をかけた。


「…こんにちは…」


 麗はカバンを抱きしめて、少し…挙動不審だ。


 ま…そうか。

 俺は、こいつの姉の別れた夫だ。



「久しぶり。大人んなったな。」


 実際、麗は少し背も伸びて…顔付きも少し大人になっていた。


「学校の帰りか?」


 俺が問いかけると。

 鞄を抱きしめたまま立ち尽くしていた麗は、少し俺に近付いて。


「…うん。」


 ゆっくり…俺の隣に座った。



「…今、何してるの?」


「仕事?」


「うん。」


 あれだけテレビや雑誌に出てたのに、解散してからは噂さえもないもんな。



「何も。」


「…何もしてないの?」


「ああ。」


 俺は溜息と共に頭の後で手を組むと、空を見上げて。


「何をしたらいいか、分かんなくなったんだ。」


 素直に言った。


「…姉さんに、会った?」


『姉さん』?


 少し反応してしまったが、知らん顔をした。


「いや…会ってない。」


 会えねーよ。

 ほんと…



「…あいつは偉いよ。辛そうな顔して向こう行ったけど、頑張ってデビューして…」


「……」


「俺は、合わせる顔がない。」


 らしくねーな。

 なんて思いながら、つい麗にそう話してしまうと。


「…神さんらしくないね。」


 麗にも言われてしまった。


「俺らしくない…か。」


 俺らしいって、何なんだろうな。

 歌ってる事がそうなのか。

 迷わない事がそうなのか。

 ただ突っ走ってただけの俺には…何も分かんねーや…。



 しばらく、沈黙が続いた。

 俺は空を見上げたまま。

 麗は…ずっと何か言いたそうにしては、息を飲む感じだった。


 まあ…もどかしいよな。

 麗は、俺のファンだったわけでもあるし。



「…ねえ、神さん。」


「ん?」


「姉さんの事、まだ好き?」


「……」


 その問いかけに、俺は少し間を開けた。


「…もう俺は…知花にとっては過去の人間だ。」


「……」


「俺は知花を不安にさせたままだった。何もしてやれなかった。そのうえ、今こんな状態じゃな。」


「…じゃあ、今から頑張って会えばいいじゃない。」


 つい…小さく笑った。

 何だって麗は…知花と別れた俺を…?



「何のために歌えばいいのか、分からなくなったんだ。」


「…え?」


「ずっと、自分のためだけに歌って来た。でも、自分のためだけに歌うことは自分の力にはならないって言われてさ。全く、そうなんだよな。でも、じゃあ何のために歌えばいいんだって。」


「…姉さんのために歌えば?」


「俺には、そんな資格ないさ。」


「……」


「……ふっ。」


「…何?」


 つい、小さく笑ってしまった。

 あまりにも…麗の『姉さん』が自然過ぎて。

 あの頃、頑なに『あの人』って言ってたのに…

 どんな心境の変化があったんだろう。



「いや…おまえ、知花の事『姉さん』って呼んでんだなって思って。」


「…あ…うん…」


 まあ…向こうであんなに頑張った姿を見せられちゃ…っつっても、あの映像は一般公開されてないか。

 家族には見せてやって欲しい。

 知花が…向こうでどれだけ支持されるボーカリストになったかを。



「神さん…」


 ベンチに座っても、ずっと鞄を抱きしめたまま…何か言いたそうな顔をしていた麗が。

 突然、俺の目をキッと見据えた。


「…何だ。」


 その表情は…今まで見た事がなかった。

 何かを…決意したような、強い目だ。


「姉さん…」


「……」


「…姉さん、子供…産んだの。」


「………え?」


「……」


「……」


 今…今、麗は…

 知花が、子供を産んだ…って言った…か?



「…結婚…したのか?」


 頭の後ろで組んでた両手を下ろしながら。

 あいつか…?と、頭の中で顔を思い出そうとした。

 朝霧さんの息子で…SHE'S-HE'Sのドラマー…

 朝霧光史。



「…ううん…」


 麗は…俺を見つめたまま、首を横に振った。


 …え?



「…結婚してないのに…子供を産んだって…」


「……」


 突然の事で…頭の中が真っ白だった。

 知花が…子供を産んだ…

 結婚はしていない…

 それは…



「…誰の…」


 まさか。

 まさか。


 心臓が、激しく鳴った。


 まさか…

 まさか、俺の…?


 麗の目には、涙が溜まっている。

 それをこぼれないように…唇を食いしばりながら…


「…神さんの、子供。」


 震える声で…そう言った。


「……俺の…?」


 俺の声も…震えた。


「知花が…俺の子供を…?」


 瞬きすら出来なかった。

 麗は、とうとう零れ落ちた涙を、俺に見られたくないのか…急いで拭った。

 だが、それは…次々と溢れて…



「…大変だったのよ?離婚の後、父さんに勘当されて…」


「…勘当?」


「そう…もう、家族じゃないから…忘れろって言われて…」


「……」


 あの親父さんが…知花を勘当…?


「…姉さん、アメリカに行って妊娠に気付いて…双子を産んだの。」


「……」


「七生さんから連絡もらって、みんなで慌ててアメリカに行って…そしたら姉さん、もう神さんとは違う道を歩いてるから、このことは言わないでって。」



 俺は麗から視線を外して、膝に手を着いて…前のめりになった。


 …バカな。

 違う道を歩いてるから?

 バカ言うな。

 違う道なんかじゃない。

 同じ道だったのに…

 おまえが、早く行き過ぎただけで…



「…今…うちにいるよ?」


 無言の俺に…麗が泣き声で言った。


「お願い…もう一度、歌って。」


 ゆっくり、麗を見る。


「…そして…姉さんに…会いに来て。」


 もう、麗はポロポロとこぼれる涙を拭う事はしなかった。

 その麗の涙に…俺は…突き動かされた。


「…ますます…今の俺じゃ合わせる顔がないな…」


 俺はそう言って立ち上がる。


「神さん…」


 妬んでる場合か。

 俺の気持ちは…俺の愛は…

 妬みに負けていたと言うのか?



「ありがとな。」


 麗の頭をくしゃくしゃにして。


「いつか、知花に胸を張って会えるよう…やってみる。」


 空を見上げた。


 何やってんだ…俺。

 誰がなんて言おうと…俺は俺のために歌えばいいんだ。

 俺が俺でいるために…

 そして…知花を取り戻すために…。



「しばらく時間がかかるかもしんないけどな。」


 俺がそう言うと、麗は立ち上がって。


「頑張って。」


 赤い目をしたまま…そう言った。


「本当に、ありがとな。」


 麗の肩を抱き寄せる。



 まだ…誰かのために歌うなんて、大それた事は言えない。

 知花のために…

 そのために、まず…


 やっぱり、俺は俺のために歌うしかないんだ。

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