第10話 「社長、そろそろお時間です。」

 〇桐生院貴司


「社長、そろそろお時間です。」


 秘書の辻さんに言われて、私は上着を手にする。


 私の秘書は深田だと思われているらしいが、深田は…なんて言えばいいのか…

 まあ、色々役に立つ人間だ。

 第二秘書的存在だろうか。



 秘書の辻さんは私よりも年上で、父が社長をしていた頃にこの会社に入社。

 私が社長に就任した時は、すでに秘書として活躍してくれていた。


 秘密主義でプライベートを明かさない私も…辻さんには少しだけ愚痴る事がある。

 ほんの少しだが。


 秘書は女性の方がいいと言われるが、私はずっと辻さんを秘書としている。

 私は出来るだけ、仕事で女性と関わりたくない。



「では、一時間後にお迎えにあがります。」


「宜しく頼むよ。」


 今日は…麗のピアノの発表会。

 容子が生きていた頃には、家族で連れ立って見に来ていたが…

 仕事が忙しくなって、私はもう何年も…見に来ていない。

 だが、今年は誰にも内緒で会場を訪れた。



 会場の入り口でプログラムを渡される。

 前もって母に聞いていた麗の出番には、どうやら間に合ったようだ。

 そっとドアを開けて中に入ると、薄暗がりの客席に…誓と母が並んで座っているのが分かった。



 なぜだろう。

 母の姿は…どんなに人がいても、探し出せる自信がある。

 私はある意味マザコンなのかもしれない。



 …知花がアメリカに行って…半年が過ぎた。

 母は元気がない。

 ずっと。

 誓もそうだ。

 麗は…顔に出さないから分からないが、嫌味を言う相手がいなくなった事に、少し拍子抜けしているようにも思える。



 先日…麗が母に言った。


「おばあちゃま。刺繍がほどけそうなの…」


 晩食の後だった。


 私は新聞の隅にある『ビートランドイギリス進出』の記事を読んでいた。

 会長の高原夏希さんは48歳…

 私より三つ年上。

 自身もミュージシャンとして活躍した過去があるらしい。


 34歳で日本に事務所を設立。

 あっという間に、多くのミュージシャンを抱える大きな事務所になった。

 アメリカの事務所も急成長を遂げているらしいし…かなりのやり手なのだろう。



「どこが。」


「ほら、ここ。猫の尻尾の所。」


 麗が白い布鞄を差し出しながら、母に言った。


「……」


「おばあちゃま?」


「…麗。」


 母は布鞄を手に座ると、麗にも座るように促した。

 テレビを見ていた誓が、顔だけ振り返る。


「…これは、知花が作ったんですよ。」


「………え?」


 母は、愛しそうに…その猫の刺繍を撫でた。


「麗は…知花が作ったと言ったら持ち歩かなかったでしょう?」


「……」


「だから、私からという事にしてました。」


「…何よそれ。気に入らない…」


 麗は眉間にしわを寄せて。


「何なのよ…いつもあたしだけが悪者みたいになって…腹が立つ…」


 そう言って、リビングを出て行った。


「……」


 母は知花が作ったという布鞄を手にしたまま…小さく溜息をついた。



「…麗、気付いてたと思うよ。」


 そう言ったのは、誓だった。


「…この鞄の事かい?」


「それだけじゃないよ。その前の、インコの刺繍の時も。」


「……」


「気付いてたけど…今更言い出しにくかったんじゃないかな…」


 誓はテレビを消して母の隣に座ると。


「…何でお母さんがあんなに姉さんを嫌ってたのかは分からないけど…麗はお母さんの味方でいなきゃいけないって、思い過ぎてたんだと思う。」


 知花の作った鞄を手にした。


「だから、麗だけが悪いわけじゃないんだよ。麗だって…本当は姉さんの事、好きだと思うんだ。」


「誓…」


「…お父さん。」


 誓は私の目を見て。


「僕…姉さんの事、大好きだよ。」


 ハッキリと言った。


「姉さんと神さんの間に何があったのかは分からないけど、離婚した事で勘当って、僕は今も納得いかない。」


「……」


「姉さんは、ずっと寮に居て…家族から離れて一人で居てさ…ずっと寂しかったはずだよ?」


 誓の言葉に、母がうつむいた。

 知花を寮生にしたのは…母だ。


「こっちに帰ってからも、姉さんはずっと一人みたいだったよね。」


「…誓、それには色々理由があるんだ。」


「理由があったとしても、一人にしない努力は出来たんじゃないの?」


「……」


「だから…僕は神さんが姉さんをお嫁にもらってくれて、すごく嬉しかった。これで姉さんは一人じゃなくなるって。」


 誓の言葉は…私の胸に刺さった。



 私も、そう願った。

 千里君が…知花の居場所になってくれる。

 幸せにしてくれる…と。


 だが…二人は偽装結婚で…思いがけず気持ちは近付いただろうに…結局別れた。


『あたし、自分が大嫌いだった。スクールに通ったりカツラかぶったり、あたしはどうして、こんな生き方してるのって。』


 あの…知花の言葉…

 …追い詰めたのは…私達大人だ…。



「…そうだな。」


 私は誓の目を見て…小さくつぶやいた。


「知花を思いやっていたつもりが…追い詰めただけなのかもしれない。」


「貴司…」


「誓…おまえは優しい子だな…」


 泣きたくなった。

 容子に冷たかった自分を、麗に歩み寄れない自分を、知花を愛するあまり、何も見えなくなっている自分を…


 愚かな自分を…誓に…思い知らされた気がした。




『16番、桐生院麗さん』


 麗の順番が来た。

 私は客席の後の方で、その姿を見守った。


 上手から出て来た麗は、薄いピンク色のワンピース。

 ステージの中央に来て、お辞儀をして…顔を上げた時、なぜか私と目が合った…気がした。


「……」


 麗はしばらく私の方を見ていた。


 頑張りなさい。


 そう、気持ちをこめて頷く。

 気持ちをこめたはずだが…

 麗は、何度もミスをして。



「もー、ヒヤヒヤだったよ。」


「たまにはそういう事もありますよ。」


「…今日は、調子が悪かったのよ…」


 晩食の時、三人の会話を聞きながら。


「麗。」


「…はい。」


「後でもう一度、弾いて聞かせておくれ。」


 私がそう言うと。


「…別にいいけど…」


 麗は、少し照れた風にそう言って。


「ノーミスだったら、明日のおやつ分けてあげるけど。」


 誓の言葉に。


「言ったわね?約束だからね?」



 翌日、誓は約束通り…

 麗におやつを分ける羽目になった。



 〇朝霧あさぎり 真音まのん


「うん。ええな。」


 ミーティングルームでSHE'S-HE'Sの音源を聴いて、俺は腕組みをしたまま頷いた。


 身重の知花は、以前よりずっとええ感じやし…

 千寿と陸はこっちに来て晋からギターを教わっとる分、色んな面に磨きがかかった。

 もちろん、まこと聖子と光史も申し分ない。



「それより、知花は?」


 メンバー全員が揃ってたはずやのに、知花の姿がない。


「あ…本当だ。」


 聖子が立ち上がって。


「ちょっと探して来るね。」


 部屋を出た。



「あいつ、たまに足音もなくいなくなるよな。」


「反対に、来る時も気配消してたりさ。」


「スパイみたいだよね。」


「素質あるよな。」


 残された男メンバーの、そんな会話を聞きながら。


「…ホンマに、千里に話さんつもりか?」


 今更のように…確認した。

 早い内なら…千里にも心の準備が出来る。

 色んな意味で。



 ナッキーは、瞳ちゃんが生まれてから周子さんに打ち明けられて…

 まあ、ナッキーはナッキーやからな。

 瞳ちゃんが生き難い環境は避けたい、て。

 すぐ認知した。


 …子供やで?

 ナッキーみたいに、さらっとできる奴、稀やん。



「…ま、俺らが帰国したら…どうなるかは分からないよな。同じ事務所なわけだし。」


 光史が溜息をつきながら言うた。


「…複雑だけど、神さんの負担になりたくないって思う知花の気持ちは…分からなくもないんすよね…」


 陸は組んだ指を膝に置いて。


「なんにしても…俺らは、知花を全力でサポートする。それだけです。」


 そう言うた。


 …そりゃあ、みんなの言わんとしとる事も分かる。


 離婚した二人。

 もう、関係ない。言うたら、それまでや。

 認知する、せん、も…本人らの希望や。


 …けどな。

 千里は…知花の事を、今も想うてるはずなんや。

 離婚してからずっと、千里には熱がない。

 どこか力が抜けたまんまや。


 今はまだTOYSがかろうじて…首の皮一枚繋がっとる感じやけど…

 …千里は、この先の事を、どう思うてんねやろ。

 ナッキーは千里を世界に出したい言うが…

 今のままじゃ、無理や。



「ちょっと、ごめん。誰か車出して。」


 ふいに聖子が走って戻って来た。


「どうした?」


「知花が、気分悪いみたい。病院に連れてく。」


「えっ。」


 全員で聖子の後を走ると、知花が通路のベンチで苦しそうに座っとった。


「救急車呼んだ方がええんちゃうか?」


 俺がそう言うと。


「大袈裟なのは嫌だって言い張るから…」


「知花、頑張れよ。すぐ車回すから。」


 光史がそう言って階段を駆け下りて。


「僕、知花の荷物とブランケット持って来る。」


 まこがミーティングルームに走った。


「知花、立てるか?」


「…うん…大丈夫…」


 千寿の問いかけには、そう答えたが…

 知花は立ち上がりかけて、顔を酷く歪めた。


「俺らにまで強がるな。今から、俺とセンで抱えるからな。痛い所があったら言えよ。」


「……うん…」


 陸と千寿はそう言うて二人で向かい合うて腕を持ちあうと、そこへ知花を横にして乗せた。


「痛くないか?」


「…うん…ごめん…」


「謝んなって。楽に息してろ。」


「うん…」


 聖子がエレベーターを開けて待機。

 それに乗り込んで下に降りて…


「さ、ゆっくり…そう、ゆっくり…」


 陸と千寿が知花を車に乗せると、そこに聖子とまこが乗り込んだ。


「着いたら連絡する。」


「おう頼む。」


「知花、しっかりな。」



 俺は…

 この一連の出来事を、呆然と見とるしか出来ひんかった。


「…今までも、こんなんあったんか?」


 どちらにともなく問いかけると。


「…二度ほど。でも、すぐ元気になって戻りましたよ。」


 陸が車の走った方向を見て言うた。


「でも、もう生まれる頃だからな…このまま入院になるかな。」


 千寿も、陸の視線の先を追って言うた。


 …ホンマにこいつら…

 万全の態勢やな。



「…千里には言わんとしても…」


 俺は溜息と共に言うた。


「桐生院には、連絡しといた方がええ。」


「…でも、勘当…」


「勘当した事自体、親父さん後悔してはるんやないかな。娘が異国で出産やなんて…大事件やで。」


「……」


 陸と千寿は顔を見合わせて。


「とりあえず、聖子に伝えます。」


 そう言うた。

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