第9話 それは…何の前触れもなく訪れた。

 〇桐生院貴司


 それは…何の前触れもなく訪れた。

 知花のデビューが来月と迫ったある日…


 その日はたまたま、私は母と二人で家に居た。

 仕事が休みでも会社に行く私が…なぜか、その日に限っては、リビングではなく…広縁に近い和室でのんびりと…お茶を飲んでいた。


 母は私の向かい側で、生徒さんからもらった、温泉旅行の写真の整理をしていた。

 会話はなくても、その静かな…何でもない時間がとても心地良かった。



 庭からセミの鳴き声が聞こえて。

 広縁の外に毎朝母が下げる風鈴が、涼しげな音をたてる。

 何てことのない…夏の風景。



「…おや、知花ですよ。」


 陽の傾きが気になったのか、たてすの位置を直しに向かった母が庭を見て言った。


「一人ですか?」


「ええ…」


「珍しいですね。」


 私も立ち上がって、母の隣に立つ。


「……」


「……」


 私達は無言で顔を見合わせた。

 知花の様子が…見るからにおかしかったからだ。



「…ただいま。」


 私達が広縁から見ている事に気付いた知花は、いつもよりずっと足早だった歩を停め、小声で言った。


「…どうした?何かあったのか?」


 目元も…腫れているし…これは、どう見ても泣いた顔だ。


 知花はゆっくりと玄関からうちに入ると、私達が新聞や写真を広げたままでいた和室に入って座った。

 私と母も、そこに…ゆっくりと座る。



「あたし…」


 知花はうつむき加減で。


「あたし…離婚したから…」


「……」


「……」


 知花の言葉に、私も母も、すぐには言葉が出なかった。

 沈黙が流れた後。


「…離婚って…」


 かろうじて…母がつぶやいた。


「ごめんなさい。もう決めたの。」


「決めたって、どうしてそんな大切なことを勝手に決めるんですか。」


 母の、厳しい声。


「アメリカに、行くから。」


「アメリカ?」


「アメリカデビューなの。」


「だからって…どうしてアメリカに行くからって…離婚しないといけないんですか。」


「あたしたち…」


 知花は畳の目をボンヤリと見つめながら…


「偽装結婚だったの。」


 と、つぶやいた。


「………え?」


 今…知花は…なんて言った?


「偽装って…」


 母が震える声で知花に問いかける。


「…偽装よ…あたし、どうしてもこの家を出たかった。だから…」


 この家を…出たかった…?

 出たかったから、結婚をした…と?

 私や母の、知花を想う気持ちが…煩わしかったとでも言うのか?


 大事で…

 知花の事が大事で…



「知花!!」


 気が付いたら…私は知花の頬を打っていた。


「家を…家を出たいからって……!?」


 もう、自分が何を言いたいかも分からなかった。

 言葉が出て来ない。

 すると知花は頬を押さえたまま私を見据えて。


「あたし、自分が大嫌いだった。スクールに通ったりカツラかぶったり、あたしはどうして、こんな生き方してるのって。」


 早口に…そう言った。


「知花…」


 母が力のない声で知花を呼び…部屋を出て行く。


「知花。」


 もはや…知花の顔を見る事も出来ない私は、庭に目を向けた。


「おばあさんは、おまえのためを思ってそうしていたのに、なんて事…」


「…あたしのため?」


「小さな頃から、近所でおまえは、よその子だとか外人だとか、そんなことを言われていつも泣いていた。それを見かねて…」


「……」


「それを、おまえは…」


「……」


「勘当だ。」


「父さん…」


「もう、これ以上おまえに失望させられたくない。二度とここには帰ってくるな。」


 裏切られた。

 そう思った。

 千里君と幸せな結婚をしたとばかり思っていたのに…

 相思相愛で、結婚をしたと…


 なのに、ここを出たいから?

 そんなに…そんなに私達が嫌だったと言うのか!?



「…お世話になりました…」


 視界の隅に…そう言って畳に額をこすりつけるほど頭を下げる知花がいた。


「……」


 だが…もう知花に対してかける言葉もない。


「おばあちゃまに…体に気を付けてって…」


「……」


「…ごめんなさ」


 知花の言葉を最後まで聞かず、私は和室を出た。



 母はリビングのソファーに座って、額に手を当てていた。


「……知花は。」


「出て行けと言いました。」


「…え?」


「勘当しました。もう…娘ではありません。」


「貴司、おまえ…なんて事…」


 母は立ち上がると、小走りに玄関に向かった。


「お母さん。」


 私は母を追う。


「知花!!」


 裸足のまま玄関を出た母の腕を取る。


「知花!!」


「母さん、もう…聞こえませんよ。」


 知花はとっくにうちを出た。


「貴司、おまえは…なんて事を…」


「…知花は…私達を裏切ったんですよ?」


「…裏切っただなんて…」


「…アメリカに行くと言ってたし…夢がある知花には…私達は必要ないでしょう…」


「……」


「もう、娘ではありません。」


「貴司…」


「…忘れましょう。」



 胸の痛みより…怒りの方が強かった。

 母の想いを…踏みにじった。

 私は…知花を…

 そして、千里君を許せない気持ちでいっぱいだった。



 * * *



「…偽装結婚だったと言うのは、本当か。」


 知花を勘当した翌日。

 私は千里君を呼び出した。



 夕べは…私と母のただならぬ様子に、麗と誓も無言だったが…


「…知花が離婚した。」


 私がそう言うと、二人は大きく目を見開いて。


「離婚!?」


 同時に声を張り上げた。


「勘当した。もう…うちの娘じゃない。知花の事は忘れなさい。」


 私の言葉に、誓は今にも泣きそうな顔になったが…麗はいつもと変わらなかった。




「…知花が、そう言ったんですか?」


 千里君は…少しやつれているようだった。


「ああ。そうだ。」


「……」


「どうして、偽装結婚をして…どうして離婚する事になったか聞かせてもらおう。」


「……」


 私の言葉に、千里君は無言。

 和室に二人…お茶を出す事もせず、ただ正座をして沈黙を貫く千里君を見据えた。


 母は…体調を崩して、今日は床に臥せている。



「……」


「……」


「……」


「……何か言いたまえ。」


「……」


 私の言葉にも無言のままの千里君に、イライラした。

 こうなった事の理由を話せと言うのに。

 何も話さないとは…どういう事だ!?


「どうして何も言わない。」


「……」


「…知花の言う通りと言う事か?」


「……」


「ちゃんと話せ!!」


 私は千里君の胸元を掴むと、そのまま左頬を殴った。

 千里君は後ろに倒れたが…私を睨む事も、言葉を発する事もなかった。



「…君には…感謝も期待もしていたのに…」


「……」


「失望した。」


「……」


 それでも無言の千里君に、私は詰め寄って…再び胸元を掴んだ。


「…知花を玩んでいたのか。」


「……」


「少なくとも…あの子は君に想いを寄せていたはずだ。」


「……」


 そうだ。

 知花は…千里君の事を愛していたと思う。


 彼の事を問いかけると、知花はいつも赤くなって…幸せそうに微笑んだ。

 あの全てが嘘だったとは…思いたくない。

 …思いたくないが、知花は偽装結婚だったと言った。


 この家を出たいがために、この男と結婚した…と。



「なぜ…なぜ知花だったんだ…!!」


 掴んでいた胸元を、力任せに押し倒した。

 千里君はそれでも…何も言わないし、抵抗もしなかった。



「…二度と、桐生院家に関わらないでくれ。」


 低い声でそう言って、和室を出た。


 それから私は…神 幸作氏に電話をした。

 千里君と知花が…偽装結婚をしていた事。

 知花は…それを罪に思い、私達にそれを打ち明けて離婚した事にした。

 幸作氏はとても憤慨して、千里君とは縁を切ると言い張った。


 私は…千里君にも、幸作氏にも…

 知花を勘当した事は言わなかった。

 勘当なんて…




 私はバカだ。



 * * *



 少し無気力になった。


 知花はどうしているだろうか…

 気になった私は、深田に調べさせた。


 知花はすでにマンションにはおらず…仲良くしている聖子ちゃんの家にいるようだった。

 彼女もまた、知花とバンドを組んでいて…もうすぐ渡米する事になっているらしい。


 あの家にいるなら間違いはないが…


 私は悩んでいた。

 勢いに任せて勘当してしまった事を…。



 だが、知花には夢がある。

 仲間がいる。

 それなら…もう私達は要らないかもしれない。

 そう思う自分もいた。


 窮屈な生活を強いられて、自分を見失っていた知花。

 どれだけ…自分はここにいる。と、声を上げたかった事か…



『社長、お電話です。』


「……」


 椅子に深く座ったまま、しばらく電話を眺めた。

 今は誰とも話す気にならない。

 だが…仕事中だ。

 割り切れ。



「お待たせしました。桐生院です。」


 少し間を開けて受話器を取った。

 すると…


『はじめまして。ビートランドの高原です。』


 電話の相手は…千里君も知花も所属している事務所の…会長だった。


「…ああ、どうも…」


 つい、気分が暗くなる。


『お嬢さんのアメリカデビューについて、お話は聞かれましたか?』


 …のんきなもんだ。

 アメリカデビューだけじゃない。

 この一年半の間で…結婚も離婚もした。

 私の娘が…。



「…知花の事ですか?」


 悪気はないが…声が冷たくなった。


『はい。』


「あれは…勘当しました。」


『向こうでのデビューが原因…ですか?』


 驚かない…ということは、もう事情を知っているのかもしれない。


「それは関係ありません。うちとはもう関係ないので…好きにして下さい。」


 きっと…知花は優秀なのだろう。

 それは、音楽に疎い私でさえ…親ばかの目を差し引いても、そう思えた。



『…娘さんは、私が見て来た中で、一番の逸材です。』


「……」


 それは…とても誇らしい言葉だった。

 音楽事務所のトップが言うんだ。

 知花は本当に…逸材なのだろう。


『今は、溝が出来てしまったかもしれませんが…いつか、彼女はあなたの誇りになると思います。』


「……」


 …知花は、常に…私の誇りだった。

 これ以上、誇りになると言うのか?


『…溝が埋まるまで、彼女の事は…うちの事務所にお任せください。』


「……」


 そうか…。

 知花は…この人には相談していたのだろうか。

 …だが、そんな事はどうでもいい。

 私は…知花を追い出した…。



「…娘を、よろしくお願いします…」


 電話を切る寸前、小さな声で…そうとだけ言えた。


『…ご了承ありがとうございます。お任せください。』


 電話の相手は…とても心地いい声をしていた。


 …高原夏希。


 知花を…宜しくお願いします。



 その数日後。

 千里君が会社に来た。

 完全無視していた私に…彼は…


「…なんのつもりだ。」


「……」


「慰謝料のつもりなら、何も要らない。持って帰ってくれ。」


 千里君は…金を持って来た。

 なんて失礼な奴だ。

 金で解決しようとするなんて…



「…あいつのために、貯めてた金なんです。」


 久しぶりに、千里君が口を開いた。


「……は?」


「あいつ…言ってました。いつか、本当の母親を探したいって。」


「……」


「そのために…何か…助けにならないかと思って。」


 それにしても…

 こんな額…


「俺には…」


「……」


「金なんて……」


「……」


「……」


 そう言ったきり、千里君は黙った。


 ほんの数日の間に…随分痩せたようだ。

 その表情は…暗い。



 金は…受け取る気はなかったが、受け取った。

 別に私も使う気はない。



「…失礼します。」


 千里君は深々と頭を下げて、私の目は一度も見ずに…出て行った。



 …キッカケは偽装結婚だったとしても…

 彼は…本当は知花を愛してくれていたのかもしれない。

 …だが、許せない。



 …どうしても。

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