第8話 「社長、大変です。」
〇桐生院貴司
「社長、大変です。」
深田が焦った様子で駆け寄って来た。
「何だ。ミラー社の映像の件か?」
「違います。」
「なら後にしてくれ。今はそっちが最優先だ。」
「…分かりました。ミラー社の件が終わりましたら、すぐご自宅に連絡を。」
「自宅に?」
我が家に何かあったのか?
と思いながらも…今は仕事をどうにかしなくては。
夕方にはその一件も何とか落ち着いて。
私は、溜息と共にネクタイを緩めて椅子に深く座った。
「……」
そのまま目を閉じて眠ってしまいたい所だったが…
深田の言葉を思い出して、受話器を手にした。
『はい、桐生院でございます。』
「私です。」
『貴司…今日は何時頃帰れるかしら。』
「何かあったんですか?」
『…知花が…』
「知花?」
母のただならぬ声に、私は前のめりになって。
「知花がどうかしたんですか?」
低い声で母に問いかけた。
『…今日、赤毛のままで学校に行ってしまって…』
「…え?」
『すぐに私も学校に呼ばれて行って来ました。』
「…そ…それで…?」
『赤毛のままの知花がそこにいて…アルバイトをしている…と自分で暴露して…』
「…は?」
『おまけに…結婚してる事まで…』
「……」
『それに…』
もう、十分聞いた。
そう思ったが…
『…知花は…歌を歌ってるって…』
「…歌?」
それは…意外な言葉だった。
『プロデビューが…決まってる…って言うんですよ…』
「………は…?」
私は、しばらく頭の中が真っ白になった。
父親が女の家で死んだと聞かされた時よりも、ずっとずっと、真っ白になった。
知花が…赤毛のままで学校へ行った…
そして、歌を…
『貴司?』
「あ…ああ…聞いてます。それで…千里君は?」
冷静を保ってそう言うと。
『呼びましたよ。仕事があったのか、さっきようやくこっちに来て下さって…』
「知花は?」
『知花もうちに居ます。』
「……」
『出来れば…早く帰ってちょうだい。』
「…分かりました。では、また後で。」
電話を切って…より一層深い溜息が出た。
知花が…退学…
それよりも…
知花が…歌を…
さくらと同じ…歌を…歌っているなんて…。
まだ帰れる状況にはなかったが…深田に無理を言って私は家路についた。
私が帰った時には、いつもより少し遅い晩食の準備がされていたが。
私は、知花を前に低い声で言った。
「どういう事か説明しなさい。」
それまで、知花が退学したと言うのに…なぜか笑いが起きていたリビングに緊張が走った。
「…ごめんなさい…」
「謝れと言っているわけじゃない。説明しなさいと言ってるんだ。どうしてそのまま学校に行った?」
赤毛のままの知花の目を見て言う。
「……」
「アルバイトの事も、知られたらどうなるかぐらい分かっていただろう?」
「…はい…」
「それに…結婚の事も。」
「……」
「……歌は、いつから歌ってるんだ。」
もう、私の頭の中はパニックだった。
帰るまでに落ち着かせたはずが…知花の顔を見ると、一気に『なぜ』という気持ちがぶり返してしまった。
「言いなさい。どうしてこういう事になったんだ。」
私がそう問いかけても…知花は『ごめんなさい』と小さく繰り返して言うだけで…
理由は頑として言わなかった。
私はキッと千里君を見据えて。
「千里君。君は…」
千里君にも説教を始めようとしたが。
「お父さん。」
知花が、服の裾を握りしめて…立ち上がった。
「彼は…関係ないの。あたしが、勝手に…」
「……」
「…勝手に…自分で居たくなっただけ…」
自分で居たくなっただけ。
その言葉に…私は胸が痛んだ。
やはり知花は…ずっと自分を不確かな存在だと思っていたのか…
「…ごめんなさい…本当に…」
そう言う知花の震える左手の薬指に…指輪があった。
つい先日まで、そこにはなかった物だ。
結婚を許した事は間違いとも、正解とも取れた。
知花は、長年抑えつけていた自分を解放出来た事になる。
ただ、桐生院の名前に恥じると親戚からは責められることだろう。
…それがどうした。
可愛い娘の生き方を否定してはならない。
これが知花で、知花は…自分の道を見付けたんだ。
…さくらと同じ、歌う事を…。
「デビューは、いつなんだ?」
小さな溜息と共にそう言うと。
「あ…八月…です…」
知花は、千里君に手を持たれて…座った。
「…まあ、やるからには頑張りなさい。」
「…お父さん…」
「みんなお腹がすいただろう。食事を始めよう。」
私がそう言うと、母はホッとした顔になり…誓は笑顔になった。
だが…
「…本当に自分勝手…好き放題やっちゃって…腹が立つ。」
そう言って、麗が席を立った。
「これ、麗。」
母が麗を嗜めようとしたが…麗は足音を立てて部屋に向かってしまった。
「……」
「……」
「……」
「……」
「ごめんなさいね…千里さん。変な所を見せて…」
母が千里君にそう言ったが、千里君は何でもない顔をして。
「俺にもあんな頃がありましたよ。」
のんきに…母には笑顔を見せた。
が…
「……」
千里君は、その笑顔を引っ込めて。
無言で…私を見た。
双子を愛してるようには思えない。
確か…そう言われたな。
私は小さく笑って立ち上がると、麗の部屋に向かった。
歩み寄る事が…苦手だ。
だが、親として…それは克服しなくてはならない事でもある。
「麗。」
部屋の外で声をかけるも…麗は返事もしない。
「本当に、知花は困った奴だな…好き放題で。」
私は少し笑いながら…そう言った。
すると、いつの間に来たのか…知花が隣で首をすくめている。
「…足音がしなかったぞ?」
「静かに来たから…」
気配さえ感じなかった。
「ごめんね…麗。」
私の隣に立って、知花が部屋の中に声をかける。
「本当に…あたし、自分勝手で…麗から見たら、面白くないよね…」
相変わらず、麗から返事はない。
「でも、あたし…頑張るから。」
「……」
私は…そう言う知花を見下ろしていた。
ドアの向こうにいる麗に…知花は、強い目で語りかける。
「麗が自慢できるお姉ちゃんになれるよう…頑張るから。」
…麗は…一度たりとも、知花を『姉』と呼んだことはない。
容子がそう呼ばせなかった事もあって、今更呼びにくいのかもしれないが…
母や私も、強いる事はなかった。
「麗、お腹すいてるでしょ?今日は、麗の好きな鯛飯よ?」
知花の言葉に、少しだけ顔を下げて。
「…麗は鯛飯が好きなのか?」
小声で聞く。
「うん。」
知花はドアに顔を近付けて。
「デザートは、かぼちゃのプリンよ?」
ダメ押し。といった感じで声を出した。
あの麗が食べ物で釣られるのだろうか…と思っていたが。
ガチャ
ドアが開いた。
「……」
「……」
「……どいてよ。」
相変わらず、無愛想な麗。
知花はホッとした顔で、歩き始めた麗の背中を見つめた。
テーブルには、麗の好きだという鯛飯や、育ち盛りの双子のための肉料理や…
食欲のない私に優しい汁物や、色鮮やかなサラダも並んでいた。
どうしても母が作ると地味な色取りになっていたが、食卓がこういった華やかな日は…双子の食欲も増している気がする。
「いただきます。」
全員で手を合わせた。
…そうか。
麗は鯛飯が好きか…などと一人で考えながら口にすると。
「美味い。」
千里君が一言…。
「…うん。美味しいね。」
続いて、誓も。
「ああ…本当に。」
美味い…か。
何年口に出していないだろう。
食事を作る者へ敬意も持てないなんて。
「…お母さんの汁物は相変わらず絶品ですね。」
さくらが声を張り上げた、あの朝を思い出した。
『すごく美味しい!!』
…私はあのさくらを見て、久しぶりに朝食を口にして…
あれ以来、朝を抜く日はなくなった。
「…まあ、珍しい事。貴司が誉めてくれるなんてね。」
母は少し照れ笑いをしながら、誓に言った。
「僕はおばあちゃまのお味噌汁、大好きだよ?」
「嬉しい事。たくさんおかわりしてちょうだい。」
「じゃあ、俺が早速。」
千里君が知花に汁椀を差し出す。
「玉ねぎたっぷり入れていいの?」
「全然気にならなかったなー。」
「えー、神さん玉ねぎも食べれなかったの?」
「麗だって大きいニンジンは残してるじゃねーか。」
「こ…これは、楽しみに残してるのよ…」
「ほんとかよ。」
「本当よ?ほら…食べれるもん…」
「おっ、いったなー。」
「…食べれるもん。」
口にしたニンジンが意外と美味しかったのか…
千里君に乗せられてそれを食べた麗は、一度も『美味しい』とは口にしなかったものの…
お皿の物は全て残さず食べた。
晩食の後、母と知花が洗い物や片付けをし…麗と誓は千里君と歌番組を見て意見交換中。
私は、新聞に目を落としていたが…
「知花。」
提案してみる事にした。
「はい。」
知花がエプロンで手を拭きながら、私の前に来た。
「歌を…聴かせてくれないか。」
私がそう言うと、知花本人もだが…テレビを見ていた三人も振り返り、キッチンから母もやってきて驚いた顔をした。
「デビューが決まってると言うのに…家族が誰も知花の歌を知らないようではね。」
私がそう言うと。
「そうだよ。何か聞かせて。」
誓がテレビのスイッチを切って…麗が少し面白くなさそうな顔をした。
「バラードの方、歌えばいーんじゃ?」
知花の隣に来た千里君がそう言った。
…バラードの方?
「……じゃあ…」
知花はその言葉に少し考えて。
「麗、ピアノ借りるね?」
麗を振り返って言った。
「…別に、あたしのピアノじゃないし…」
麗は拗ねたような唇。
「姉さん、ピアノ弾けるの?」
誓が驚いた顔で問いかける。
…私も知らなかったな。
「寮にいた頃、お姉さん達に教えてもらったの。」
知花はそう言ってピアノを開くと。
「…緊張しちゃう…」
苦笑いをしながら、指に息を吹きかけた。
そして、ゆっくりと鍵盤に指を落として。
「myselfって歌を…」
そう言って、歌い始めた。
暗闇の中ずっともがいていた
あたしは何者なの?
あたしには何があるの?
不確かな毎日が気持ちを焦らせる
進みたい道さえ閉ざされていくようで
あたしはどこへ行けばいい?
だけど気付いた
望むならいつも道はそこにあるって
夢を口にするのが怖かった
あの幼い日のあたしを思い出すたびに
だけど
夢はいつか形となって自分を強くする
目を閉じずにいよう
不確かな毎日でも
自分をもっと知るために
あたしがあたしでいるために
…夢は捨てない
その歌声は…さくらとは似ているとは言えなかった。
さくらの歌が聴きたい…そう思い続けていた私は、少しだけ落胆したが…
知花の声は、さくらのそれよりももっと…
「…お父さん?」
隣にいた誓が、私に声をかける。
私は…目を閉じたまま、開ける事が出来なかった。
今、目を開けると…きっと私は泣いてしまう。
知花の声は…さくらよりもずっと優しく、そして強かった。
夢は捨てない。
知花がそう歌うのを聴いて…
さくらは…どこかで歌っているだろうか。
もう…終わらせたはずのさくらへの想いが、少しだけ顔を覗かせた。
さくら…
君は今どこにいるんだろうね。
危険な組織に関わっているだなんて…知りたくなかった。
もしかすると、私が追い出したせいで…そうするしかなかったのかもしれない。
そう考えると、私は自分を責めるしかなかった。
こんなに成長した知花に会わせる事も出来ない。
こんなに…心打つ歌を歌う知花を…
知り得る事もないなんて…
全てにおいて、後悔と懺悔でしかなかった。
私はただ、さくらの幸せを願っただけなのに。
どうして…この手で幸せにしてやろうと思えなかったのだろう。
どうして…私はこうも臆病で、罪深い人間なのだろう…。
「おやすみなさい。」
「気を付けて。」
玄関先で、知花と千里君を見送る。
歩き始めた千里君が、知花の手を取ると…誓が冷やかしの声を上げた。
「これ、誓。」
「だって、ケンカしてたのに、もうアツアツなんだもん。」
「…ケンカ?」
誰にともなく問いかけると。
「だって、神さんが来た時、姉さん庭に逃げたもんね。」
誓の言葉に母を見ると。
「…庭で、指輪の交換をしてましたよ。」
母は首をすくめてそう言った。
「あれで仲直りって感じだったかな。」
「……」
ケンカが原因で、赤毛で登校したのか?
そんな考えもよぎったが…
もう、そんな事はどうでもいい。
知花は夢を持った。
…千里君は、きっと理解者だと思う。
シンガー同士。
知花が…その夢を見続けていられるよう…
これからも千里君には頑張ってもらわなければ…。
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