よいしょ

 ペペの五階は、小さな楽器店だった。

 虎之助は、何も言わずに店の奥に進む。

 濁ったビルの空気が、みるみる活力を奪っていくのを感じて、飛行機が不時着する時のように、酸素マスクが天井から降りて来るのを想像する。

 あー、またセブ島に行きたい。最後に飛行機に乗った時のことを思い出す。あれっていつ誰と行ったんだっけ。全然思い出せないけど、遠い昔の記憶なのは確かで、とにかく毎日が最高に最高すぎた。

 青い海、ため息が出るくらいきれいだったよね。一日中ずっとビールを飲んでいた。マンゴー入りのチャーハンおいしかったし、野良犬がうろうろしてるのもかわいかった。多分もう二度と行けない天国を、こんなしょぼい駅ビルで思い出すなんて、意味不明。

 楽器屋には電子ピアノが並んでいて、私は楽器が弾けないので、鍵盤を適当に鳴らしながら歩いた。

「うちの親って、一応公務員なんだよね」

 さりげなく虎之助に話しかける。

 へー、と興味がなさそうな相槌が返ってくる。

「二人とも真面目ちゃんだから、私が消息不明になったら、警察に行って騒ぐかもよ」

「あっそ。お前、ちゃんと親と連絡とってんの?」

「五年くらい取ってないかなあ」

「だったらすでに消息不明じゃん」

 私たちは、あははと乾いた声で笑い合う。

「私も悪いと思ってるよ。掛け飛びして迷惑かけて、本当にごめんなさい」

「ごめんで済んだら?」

「警察はいらない」

「その通り、よいしょー」

 虎之助は、私の懺悔をあっさり聞き流し、白いピアノの前の椅子に座った。

 椅子の端をぽんぽんとたたき、意味ありげな笑みで私を見上げる。

「樹里、ここに座って」

「は? あんたの隣に? 無理無理、絶対やだ」

「いいから」

「何するの? やだよ。恥ずかしすぎるし」

「大丈夫だって。誰も見てないしさ」

 平日の昼間の楽器屋に、客はほとんどおらず、じじいが一人、楽譜コーナーの前に立っているだけだ。

「あんたまさかこの白いピアノで、何か弾くつもり? ないわぁ」

 やだやだと拒んでいると、店員がこっちを見た。

 私は声を落とし「ねえ、もういいから、帰ろうよ」と腕を引っ張るが、虎之助はかたくなに椅子から動かない。

 根負けした私は、しぶしぶ椅子の隅に腰掛ける。

「虎之助ってピアノ弾けるの?」

「知らなかった?」

「知るわけないよね。あんたのことなんて、私、ほとんど知らない。シュプリーム大好き人間ってことくらいしか」

 もう一度、店の中を見渡した。店員もじじいの姿も見えない。自動演奏機能付きのピアノが、かすかな音で勝手に演奏している。

 誰も聴いてないのにあのピアノ、超むなしくない? 

 そう思っていると、虎之助が、鍵盤の端から端まで指をくるくる動かしてピアノを鳴らした。

「何それ。なんていう曲なの?」

「は? これは指の練習運動だって。お前センスねえな」

 呆れたような返事が返ってくる。

「ここにそれ置いて」

 タピオカのカップを指さして、虎之助が言う。

「なんで? 私はピアノ弾けないよ?」

「いいから言われた通りにしろ」

 私はおとなしく、ピアノの上にカップを置いた。

「田島樹里さん、二十歳、板橋区在住ね。あなたは、三か月前に店の売掛七十万を支払わず、逃げたよね」

「はい、あの本当にすみませんでした」

「ツイッターでお前のことを拡散したら、他店でも同じようなことをやってたのが、速攻でバレたよね」

 私は膝の裾を引っ張りながら、説教を聞いているふりをする。

 このワンピース、どこで買ったんだっけ。ここの黒のメッシュが、かわいいよね。やばーい。ディーゼルだったかな? 三万くらいしたような気がする。

「はい、ごめんなさい。ちゃんと返します」

 聞いてんのかよ、と言われ、私は即答する。

「どうやって?」

 いや本当にね。樹里さん、あんたどうやって返すつもりなの? すでに借金だらけだし、絶賛失業中だしさ。

 隠しているつもりでもネットのやつらがしつこくて、都内のどこのキャバクラで働いていても、過去の悪事はいつまでもついて回った。

 噂はすぐに立って、それで店に居づらくなって、辞めてしまう。その繰り返しで今まで生きてきた。

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