夕暮れ

 人気のない林の中で、フランチェスカは待ちぼうけていた。

 倒木に腰掛けて足をふっている姿は、まさに待ちぼうけだ。


「……遅いですわね」


 フランチェスカは肌寒さを感じながら、ロリタはどうしてこんな場所を待ち合わせに選んだのだろうと思いつつ、さっと立ち上がる。

 手ごろな木の枝を拾って、剣のように軽く振ってみる。

 剣の稽古も久しぶりだ。

 習った型を確かめてみるのも悪くないと、フランチェスカは手と足を引いて構えをとる。


「面白そうなことをやっているんですね」


 背後からロリタの声がして、フランチェスカはすぐに構えを解く。


「続けないんですか?」


 近づいてきたロリタが訊くと、


「あまり人に見られるのは得意ではないの」


 フランチェスカは肩をすくめ、


「わたしの話ならすぐに終わるのですけれど……こんなところで待ってて欲しいだなんて、一体なんなのかしら?」

「――先に、あなたのお話から聞いてもいいですか?」


 ロリタの言葉に、フランチェスカは軽く鼻を鳴らして、


「別に大したことありませんわ。モンテロ伯爵はもう大丈夫そうで、彼はヴェネツィアを離れるというだけの話です」

「それは……良かった」

「それで、あなたのお話は?」

「実は、総督から手紙がありました」


 ロリタはフランチェスカに手紙を渡す。

 フランチェスカは差出人の名前だけを見ると、


「……なるほど。怪傑ゾロ様も、もう終わりということね」


 総督がただの司書に手紙を書くわけがない。

 書くとなれば……その相手がただの司書ではないからだ。

 ロリタはしばし沈黙した後、


「――総督が一体なにを考えているのか、あたしには欠片もわかりません。フランチェスカ、あなたには何か思いつくようなことはありませんか?」

「舞踏会ですわね」


 フランチェスカの言葉に、ロリタはぴくりと反応する。

 フランチェスカは続けて、


「総督は、どうやらその日に『ヴェネツィアの獅子』をお披露目するつもりらしいですわ。流石に総督もこの瞬間はゾロに邪魔されるのを嫌うでしょう。ま……わたしが知っているのはこの程度ですわ」


 話を聞いて、ロリタは目をつむる。


「おそらくその場に――ゾロは招待されています」

「ふうん?」


 フランチェスカは素っ気ない返事をする。

 ロリタは訴えるように、


「やはり、これはあたしがゾロであることを見越しての先手でしょうか。あたしがゾロとして出て行けないようにしたまま、自分の力を見せつけてこちらの心をくじこうと……」

「総督は、ゾロについては殺すことしか考えていませんわ。彼があなたをゾロだと睨んでいる以上、呼ばれた場所にのこのこと顔を出すのは死にに行くようなものね」


 ロリタは口をつぐんだ。

 フランチェスカはばっさりと切り捨てた後、


「話はもう終わりかしら。少し、冷えてきたのだけれど」

「いいえ……本題はこれからです」


 ロリタは深く息を吸い込むと、それを吐き出すように言った。


「フランチェスカ。総督のところへ、あたしと一緒に行ってくれませんか?」


 まっすぐな瞳を向けるロリタ。

 フランチェスカは木の棒で肩を叩きながら、


「――お断りしますわ。たとえ行ったところで、わたしに出来ることなんてありませんもの。とにかく……死にたくなければ早く逃げることね? 総督はゾロを逃がすつもりなんてないでしょうけれど、わたしは、あなたを逃がすお手伝いなら出来ないことをありませんわ」

「あたしはこの街を離れるつもりはありません」

「そんなことを言ってる場合ではないんじゃないかしら。それに言っておくけれど、わたしはゾロに協力して鞭を打たれるのは遠慮したいの。だから、あなたを逃がすのだって出来る限りの譲歩なのよ?」


 と言うと、フランチェスカは視線を斜にして、


「ま……あなたに国を離れる考えがあれば、最初からゾロだなんてやっていないでしょうけれど。だからわたしは、こうなる前に再三忠告していたのに――」

「……どうしても、一緒には行ってくれないんですね」

「舞踏会の間は、わたしは屋敷でゆっくりしておこうかしら。今更騒ぐっていう気分でもありませんし」

「……わかりました」


 ロリタはくるりと振り返り、フランチェスカに背を向ける。

 帰路につくロリタの背中から、フランチェスカが視線を外したときだった。


「――ッ!」


 振り返りざま、ロリタが木の棒で繰り出した一撃を、フランチェスカはかろうじて自分の木で受け止めた。


「――ロリタ。これはどういうつもりかしら?」


 木を拮抗させたまま、フランチェスカが問う。


「……これでもう、あなたと会うこともないと思います。最後に、あなたの剣に足りないものを教えてあげますよ」


 二人はお互いに距離を取る。


「はん。八つ当たりもいいところね。どれだけ表面は冷静ぶってても、やっぱりあなたは怒りっぽい人ですわ」

「なんと言われても構いません。だけど、今のあなたではあの准尉にも勝てませんよ。これは、せめてものあたしの老婆心です」

「余計なお世話ね。それに左手でわたしの相手をするつもりなら……まったく、侮辱も良いところね。わたしは手負いの相手だからといって手加減はしませんわ」

「お構いなく。あたしも左手だからといって、あなたへの手加減は忘れませんよ」


 凛と言うロリタ。

 フランチェスカはくしゃりとうなじをかく。


「あまり死者に鞭打つような真似はしたくないのだけれど……いいですわ。あなたのような分からず屋は一度痛い目をみないと駄目みたいね。わたしがここでしっかり思い知らせて差し上げますわ」

「負けませんよ、あなたには」


 二人は木を構えて向き合う。

 最初に仕掛けたのはフランチェスカだ。

 ロリタは弾き返すが、やはり利き腕でない方では上手く受けきれない。

 フランチェスカは、ドレス姿に落ち葉の足元という条件でも、上手く身体を使って攻撃を繰り出す。

 ロリタは、後退しながらフランチェスカの攻めをいなし続ける。


「フランチェスカ……あなたは、深いところで人と関わろうとはしない。だから表面的な繋がりばかり求めるんです。どうして、あなたは何事もやる前から諦めてしまっているんですか?」

「諦めているわけではなくて、わたしは見極めているだけなの。馬鹿の一つ覚えは楽だけれど、わたしはちゃんと物事を見つめていたいのよ」

「大事なのは、信じるものがあるかどうかです」

「信心はすべて盲信ですわ。目をつむっているから平気なのよ。わたしはそれだけはごめんですわね」

「……あなたは臆病なだけなんじゃないですか? そして無責任なんです」


 フランチェスカは一歩下がって間合いをとる。


「……ずいぶん好き勝手言ってくれるのね」


 ロリタは息一つ乱さず、


「事実を言ったまでです。一番大事なところがあなたは甘いんですよ。だからあなたはわたしに勝てない。もう少し強くなったらどうなんですか?」

「甘ちゃんなのはどっちか、わかっていないのはそっちの方じゃないかしら。あなたの信じるものが真実である証拠があるとでも?」

「それは一番大事なことではないと思います。そうですね……あなたは、自分にとって一番大切なものはなにかと訊かれて答えることは出来ますか? それをまだ見つけられていないから、あなたはまだ甘いんですよ」

「あなたに――わたしのことはわかりませんわ」


 フランチェスカは声をわななかせる。


「そうですか? あたしには、先程からあなたが自分のことを教えてくれているように思いますけれど」


 そして、フランチェスカの瞳を見据えて言った。


「――結局、あなたは何も見えてなんかないんですよ」


 フランチェスカは木を強く握り締める。


「……八つ当たりもいい加減にして欲しいところですわね。どれだけ偉そうなことを言ったって、結局死ぬのはあなたの方じゃない」

「それは今は関係のないことです。問題が違います。それとも、もうそうやってこちらを罵るだけしか出来ないんですか?」

「――黙りなさい。あなたなんか……!」


 フランチェスカが激昂したときだった。


「今度はこっちの番です」


 ロリタは前へと踏み込む。

 たった数撃だった。

 ロリタはフランチェスカをいなし、たちまち武器を絡め取ってしまった。


「あなたには基本的な腕力が足りていません。素地となる筋肉がないから、毎回こんな技にやられてしまうんですよ」

「く……っ――きゃあっ!?」


 木を突きつけられたフランチェスカは、そのままバランスを崩して尻餅をつき、小さな悲鳴を上げながら木の根元に倒れかかった。

 ロリタは木を振りかぶっている。

 ぶたれるのを覚悟して、ぎゅっと目をつむった。

 いつの間にか日は傾き始め、周囲は薄暗くなり始めていた。


 ――しばらく待っても、なにもない。


 覚悟を決めていたフランチェスカがそろそろと目を開けると、そこには、ぽろぽろと涙を流すロリタがいた。


「……ごめんなさい」


 ロリタは両手で顔を塞ぎ、小さな肩を揺らす。


「八つ当たりをできるような相手も、助けてくれるような人も……あたしには、あなたしかいないんです……」

「ロリタ……」


 泣くロリタに戸惑いながら、フランチェスカはその頬に伝う涙へと手を伸ばす。


 だが……その涙を拭いてあげることは、フランチェスカには出来なかった。

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