急転

 海の見える診療所。

 青い空には、潮風に揺られて鳥が飛んでいる。


 フランチェスカは、ベッドの隣の椅子に腰掛け、ナイフで林檎の皮を剥いていた。


 シャリシャリと軽い音が部屋に響いてゆく。

 ベッドには背中を鞭打たれたモンテロ伯爵がうつ伏せで寝ており、首を横に向けて両目を閉じていた。

 ――その片目がうっすら開くと、手はゆっくりと静かにフランチェスカの脚へと伸びていく。

 フランチェスカはその手をパシンとはたき、


「意外と元気そうでよかったですわ」


 と、むき終えた林檎を一かじりする。


「むう……あんまり虐めてくれるな、フランチェスカ」


 モンテロは手を引っ込めつつ、眉を下げてつぶやく。

 フランチェスカは、林檎をひとかけら、モンテロの口に入れてやった。


「おお、うまいうまい。こうやってまともに物が食えるだけでもありがたい」


 笑うモンテロだったが、背中に受けた傷は痛々しいものだった。

 処刑の光景を思い出して、フランチェスカは目を細める。


 ――背中に鞭が当たると同時に、モンテロの絶叫が天を突いた。


 広場は一気に静まり返り、鞭を打ったガスパロさえもが躊躇いのために次の一撃をひるむほどだった。

 総督は一言、やれ、とだけ言い、准尉も腹を決めてモンテロに残りの懲罰を加えた。


 鞭打ちが終わってすぐ、フランチェスカはモンテロの元へと駆け出していた。

 凄惨な光景に誰もが固唾を呑む中、モンテロの頭を膝に抱いて介抱する自分へと飛んでくるカンディアーニの視線を見たときは、流石に背筋に冷たいものが走った。


 目をつむり、フランチェスカは思い出すのをやめる。


「フランチェスカ……お前は、今も怪傑カサノバを続けているのか?」


 モンテロがしずしずと言う。

 フランチェスカは林檎を口元から離し、


「流石にここ数日はなにもやっていませんけれど、辞めたつもりはありません」

「悪いことは言わん、もうやめておけ。そしてどこかでひっそりと暮らすといい」


 モンテロはベッドに伏せたまま続ける。


「暮らす場所は、なにもヴェネツィアでなくとも構わん。そうだ……お前にあの馬をやろうじゃないか。没収されてしまったが、お前が言えば一頭くらいは取り戻せるだろう。それに乗って、どこか平穏な場所で良い男を見つけるといい。なんだったら、わしの知り合いを紹介してやってもかまわないぞ」


 フランチェスカは林檎を持った手を振り、


「急にどうしたのかしら。らしくない気弱なことを言うのね」

「わしはそもそもこういう男だよ、フランチェスカ」


 モンテロは笑い、


「そしてもう終わりだ、わしは隠居する。……やはり、わしは国や社会などといった大きな流れに加わるような人間ではなかったのだ。わしには良くわかったよ――これまでが、わしは無理をしすぎていたのだ」

「これから、あなたは一体どうするの?」


 フランチェスカが訊くと、


「平穏を願う。わしの身の丈にあった静かな暮らしを求めて、わしはヴェネツィアを離れるとするよ」


 モンテロは笑顔で言う。

 その屈託のない笑みを見たフランチェスカも、


「……あなたはやさしい人だと思いますわ」


 微笑を浮かべて、モンテロに答える。

 モンテロもご機嫌そうに、


「お前もやさしい子だ、フランチェスカ。看病をしてくれて嬉しいよ。……それでは、わしはもう一眠りするとしよう。わしは大丈夫だから、明日からの看病はもういいぞ」


 もう帰りなさい、と言われて、フランチェスカは林檎を置いて椅子から立つ。

 部屋を出たフランチェスカが後ろ手に扉を閉める。

 背後から、モンテロの忍び泣きが響いてきた。


「……わたしは、やさしくなんかありませんわ」


 そうつぶやいて、フランチェスカは診療所を後にした。


    ◆


 ところ変わって、マルチアーナ図書館。

 ロリタは久しぶりに出勤していた。


「久しぶり。体調はもう戻った?」

「ええ……。ご迷惑をお掛けしました」


 同僚から声を掛けられ、ロリタは謝りながら仕事の準備を始める。


「ロリタ、最近は身体を壊してばかりじゃないか。一度ちゃんと治してからの方がいいんじゃないのか?」


 別の同僚からも心配され、ロリタは首を振って大丈夫ですと返事をした。

 今日まで休んでいたのは、総督に負わされた怪我のためだ。

 モンテロの処刑の日から数えると、実に四日も休むことになってしまった。

 怪我を治療してくれたのは、フランチェスカの執事のアントニオだ。

 幸い衣服の上から鞭を受けた為、さほど大事には至らなかった。

 ……しかし傷は腫れてしまって、今日まで満足に腕を動かすことができずにいた。

 ロリタが書架に向かおうとしたとき、


「あ、ちょっと」


 同僚に呼び止められ、ロリタは振り返る。

 同僚が指差す入館口付近には、軍服を着たガスパロ准尉がいた。

 ロリタは苦い顔を隠せない。


「やっと快復されましたか。いや、待っていました」


 ガスパロは明るく歩み寄ってくる。


「まだ具合が悪いので、よろしければそっとしておいてください」


 ロリタは身構える。

 ガスパロは「はっはっは」と笑うと、


「今日は渡すものがあってお訪ねしたのですよ。私も、病み上がりの淑女に迫るほど強引な男ではありません」


 どの口が言うんだと思いながら、ロリタはガスパロから一通の封筒を受け取った。

 手紙を翻し、差出人の名前を見て驚く。


「戸惑われるのも無理はありません。これは総督直々の招待状ですから」

「総督……ですか」


 ロリタは手紙の中身に目を通す。

 それは、舞踏会への招待状だった。


「……カンディアーニ総督が、どうしてあたしに?」

「先日の賭場の件でのお詫び……でもいいでしょう。とにかく総督はあなたの御出席を望んでおられます。私にとってもそれは願ってもないことですよ」


 ロリタは、ガスパロの表情を確認する。


「私の顔になにか?」


 どうやら、ガスパロは何も知らなさそうだ。

 それでは出席を心待ちにしています、と短く挨拶をすると、准尉は早々に図書館から出て行った。

 その姿を見送った後、ロリタは軽く手紙を握り締める。


「ロリタ、どうしたの?」


 顔を覗き込んでくる同僚。


「いえ……なんでもありません」


 ロリタは手紙をポケットに仕舞うと、図書館の仕事へと戻ろうとする。


「あ。ちょっと……」

「――っ!」


 同僚に右腕をつかまれて、それが傷に響いてロリタは思わず腕を引く。


「ロリタ、そ、そんなにびっくりしなくてもいいじゃない……」


 同僚は目を丸くする。

 ロリタは必死に痛みを堪えて、


「な……なんですか?」 

「またお客さんみたいよ。あまり仕事に影響しない程度に頼むわね」

「はあ……」


 こんな時に一体誰だろう、と思いつつ、ロリタは扉に目をやる。


 そこには、笑顔で手を振ってくるフランチェスカがいた。

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