翼をもつ獅子
日増しにヴェネツィアには特有の熱気が満ち始めてきていた。
晴れた日の午後、こうやって街道に目を向けてみれば、誰もが珍妙な仮面や衣装を携えて歩いているのが見える。
準備は順調――
ロリタは図書館にやってきた。
「あら、ロリタじゃないの。今日はお休みじゃなかったっけ?」
「はい。近くで待ち合わせがあるので、ちょっと寄ってみただけです」
「ちょうど良かったわ。あなたにお客様が来てるわよ」
「あたしに?」
ロリタが小首を傾げると、
「どうもこんにちは。私のことは覚えておいでですか?」
そこにいたのは、軍服に身を包んだガスパロ准尉だった。
「……あたしに、一体なんの用ですか」
ロリタは身構える。
ガスパロは微笑んだ。
「ロリタさん。今日はお休みだと聞いて落ち込んでいたところだったのですが、いや、これも運命でしょう。実は今晩一緒にお食事でもどうかと思いまして、公務中に関わらず少し立ち寄ったまでです。今夜のご都合はいかがですか?」
准尉はロリタの手を取ると、続けて、
「ロリタ嬢。私に、あなたの琥珀のように美しい瞳とお近づきになる機会をください」
「は……?」
「戸惑われることはありません。つまり、こういうことです」
准尉はロリタの耳元に口を寄せると、ぼそぼそと口説き文句をささやいた。
「へ……変なこと言わないでくださいっ!」
ロリタは顔を真っ赤にして声を張る。
「はは。そうやって取り乱すあなたも実に可愛らしい」
ガスパロは笑顔で言う。
「ぐう……」
ロリタは完全に気圧されている。
「とりあえず、私も任務がありますので今日はこれにて。お返事を伺いに、夕暮れにまたこちらへ伺います」
准尉は剣の柄に肘を置き、気軽に礼をして帰っていった。
准尉の背中を見つめ、まさか……と考える。
ガスパロ准尉は、ゾロの正体に感づいているのだろうか。
「ロリタ、良かったじゃない?」
「な……なんですか?」
「さっきまで、私が熱く聞かされていたのよ? あなたがどんなに美しいか、そしてその美貌に自分がどれだけ心を奪われているか――それを一時間もよ! きっと、こうやって私の口からあなたに伝わるのが彼の狙いなんだわ。まあ……悪い人ではなさそうだし、私も応援するのにやぶさかでないわ」
「はあ……」
准尉は、本当に口説きに来ただけだったのだろうか。
「それとこれ、彼からの手紙」
ロリタは封蝋された手紙を受け取る。
手早く開けて、手紙の文章に視線を這わせてみる。
「……あ、あの人は馬鹿なんじゃないですかっ!」
ロリタはカウンターに手紙を叩きつけて狼狽する。
「まあ。これはこれは……」
文面を覗いた同僚も思わず口に手を当てた。
手紙に書かれていたのは、『私たちが永遠の愛を誓い合うことを信じる、そして自分たちの子供はあなたの美しい瞳と私の情熱を持つ幸福な子供、いや、子供たちとなるだろう――』など、先程聞いた話よりももっと濃厚な、ロリタへの想いであった。
「……ふむん。ややこしいことになってきましたわね」
馴染みのある声が横から聞こえた。
「フ、フランチェスカ! どうしてあなたがここに!」
「どうしてもなにも……あなたがここに入っていくのを見たからですわ。それに、確かわたしはお誘いを受けた立場だと思いますけれど? しかも条件つきで」
フランチェスカは飄々と言う。
ロリタは溜息を一つ吐いて、手紙の処分を同僚に頼んだ。
「……ベルナルドさんが待っています。早く行きましょう」
ロリタはつんとして言うと、翻って歩き出した。
フランチェスカは肩をすくめつつ、
「もう少し愛想を良くしてくれたっていいと思わない? アントニ――」
言いかけて、今日はアントニオを連れていないことを思い出す。
フランチェスカも静かに歩き出し、ロリタに続いた。
◆
ロリタとフランチェスカは、すぐに広場の船着場についた。
小船に二人で乗り込んで、ゆっくりと岸を離れる。
――水辺の貴婦人とデートはいかがですか。
フランチェスカは今日、ベルナルド候からこの誘いを受けて船に乗っている。
水辺の貴婦人というのは、アドリア海に浮かぶサン・ジョルジョ島に建てられた教会の別名である。今日みたいに、サン・マルコ広場から船を出せばすぐの場所だ。
岸から離れ、島まであと半分といったところにくると、
「ベルナルドさんに会う前に、少しお話を」
ロリタは櫂を下ろし、船を波に任せる。
フランチェスカはキョロキョロとあたりを見回すと、
「さっきの手紙の話かしら?」
「ち、違います! あれは忘れてください!」
うろたえながらロリタはいうと、次には表情を改めて、
「……一つ訊いておきたいことがあります。あたしがゾロだということは、総督には言っているんですか?」
「総督がゾロの正体を知ったらすぐに手を打ちますわ。あなたが今ここに無事でいることが、あなたの質問の答えにならないかしら?」
ロリタは少し考えるような時間を置くと、
「……わかりました。それともう一つ、これはお願いです」
「お願いねえ……」
と、足を組むフランチェスカ。
ロリタは櫂を持って、再度漕ぎ出しながら、
「どうかベルナルドさんにも、わたしがゾロであることは言わないで下さい」
「へえ……見返りはなに?」
「――お願いです。フランチェスカ」
「……ふうん」
フランチェスカは頬杖をして、視線を目的地への島に向ける。
次第にその姿は大きくなり、やがて島で手を振る人影が見えた。
「ロリタ、なんだか変な人が見えますわ」
手を振っているのは、毛皮と羽でふかふかした衣装に身を包んだ大柄の男だった。
仮面舞踏会に向けて気でもはやっているのか、金細工の仮面までつけている。
「いやいや、こんななりですまん。ここにくるついでに注文していた衣装を取ってきたのだが、持ち運ぶにはちと大きくてな、こうやって着る羽目になってしまった」
仮面を取り、笑顔で言うのはベルナルド候だ。
「素敵な衣装ですわ」
上陸したフランチェスカが笑顔とともにいうと、
「おお、わかるかフランチェスカ殿。なにを隠そうわたしは祭りが大好きでな。こうやって毎年衣装が仕上がってくるのを楽しみにしているのです」
ベルナルド候も満面の笑顔で返す。
そして彼は辺りを見渡すと、
「どうやら、アントニオ殿はいないようですな」
「ええ。わたしが一人で出歩くことは特に珍しいことでもありませんから」
「かたじけない。本日の件は、政府の手の者にはあまり聞かせられぬのでね」
「あら。わたしは信用されているのかしら」
「あなたのことは良く知っていますよ。まずは散歩でもいかがかな?」
ベルナルド候の提案に、フランチェスカは首肯する。
「鐘楼も完成したみたいですし、そちらを見に行ってみたいですわね」
ベルナルド候はからからと笑い声をあげて、
「そうですな。そこなら話もしやすそうだ」
ロリタが先頭を切って歩き出し、ベルナルド候とフランチェスカがそれに続く。
聖堂の隣に建立された鐘楼はまだ完成されたばかりで、一般の立ち入り許可はまだ下りていない。そのため、展望台には三人のほかには誰もいなかった。
頬をなでる風と、展望が気持ちいい。
「フランチェスカ。あなたは……怪傑カサノバは、ゾロの敵なんですか?」
「う……景色を楽しむ余裕もないのね、ロリタ」
唐突に切り出したロリタにフランチェスカがげっそりと言うと、
「内容が内容なので、回りくどいのは抜きにしたほうがいいやも知れませんな」
ベルナルド候は咳払いを一つする。
「先日、ロリタから聞きました。フランチェスカ殿がカサノバというのも、思えば確かに頷ける話。しかし、あなたに政府との関わりがあるのも事実。どうか実際のところを教えては下さりませぬか」
「……敵もなにもありませんわ。わたしはどこに身を置いているというわけではありませんから」
「その言葉を聞けて安心した」
ベルナルド候は満足そうに言う。
「もとより、フランチェスカ殿と政府との関係は概ね把握している。こう言っては悪いかも知れぬが、あやつはあなたを飼い猫だと言った。その認識で間違いはなかろう」
「わたしを呼びつけて、一体どんなお話がありますの?」
「単刀直入に言えば、こちらに協力して欲しい」
フランチェスカは目を細める。
「無礼は承知。たとえあなたに引っ掻かれても文句は言えぬでしょう。しかし、話だけでも聞いてはもらえないだろうか」
「……侯爵様ができない仕事なら、ゾロが変わりにやってくれると思いますわ」
フランチェスカは身体をひねって縁に腕を掛け、視線を海上にやりつつ答える。
すると、
「それはヴェネツィアがどうでもいいと言っているのと同じです」
ロリタが言う。
フランチェスカはロリタに揶揄のような笑みを作り、
「それこそ本当にどうでもいいことね。どこの国がどうだとかなんて、わたしが関わる問題ではありませんわ」
「総督はこのままだと戦争を起こします。フランチェスカ、あなたも自分は無関係だと言っている場合ではありません」
身を乗り出すロリタに、フランチェスカはブロンドを風に遊ばせながら、
「おそらくだけれど、きっと総督も戦争を好んでいるわけではありませんわ。否が応にも今はそんな時代というところなんじゃないかしら。あなたたちと総督とは平和に至る方法論が違うだけだと思いますわ。それに対して、わたしはどっちがどうだなどと言う気もありません」
「戦いを否定しているわけではありません。だけど……総督と違ってゾロの戦いは、一方的な力に対する抗力です」
「それは今のヴェネツィアだって同じことだとも考えられない? 今、世界には革命の嵐が吹いていますわ。総督はそれに打って出ようと考えていて、あなたたちは扉を閉めようとしている。どっちがいいなんてものではないから、わたしはただ従うだけです」
「それは違いますぞ、フランチェスカ殿」
ベルナルド候も話に加わる。
「問題は、最強の力を一人の人間が独占しようとしているところにあるのだ」
「あら。最強の矛と盾とを持つ騎士なんて、すごく素敵なことね」
フランチェスカが笑みを作って言うと、ベルナルド候は首を振り、
「確かに、そのような人物がいれば後に続くものは多かろう。しかし、稲妻を生む矛とアイギスの盾を持つという者はペテンだ。それに……」
「――要は、続くものがそれを信じるかどうかじゃないかしら。矛盾していようとなんだろうと、それが素晴らしいと感じれば人はついていきます。そして、従う者の数こそが実効的な力というのが現実ですわ」
「……やはりあなたは面白い、フランチェスカ殿」
ベルナルド候は目元を緩ませ、楽しむような風情で言う。
だがすぐに顔を引き締めると、
「しかし、カンディアーニが得ようとしているのは矛でも盾でもないのだ。あれは自身が英雄になろうと考えるほど己の分を知らぬ輩ではない。あまつさえ、それが厄介さを増している」
「……ベルナルド侯爵。一体あなたは何を知っているのですか?」
改めて訊くフランチェスカ。
ベルナルド候はフランチェスカをしっかりと見つめ、
「カンディアーニは『ヴェネツィアの獅子』を生み出そうとしている。それが個人のムチ一つで飼い慣らされてしまっては、他国はおろか自国ですらその脅威に身を滅ぼされるだろう。多くの血が流れるのは必至。それだけは避けねばならんのだ」
「ヴェネツィアの獅子……?」
ベルナルド候の話にフランチェスカは眉を寄せる。
聖マルコ。
それはヴェネツィアの守護聖人であり、彼の象徴である有翼の獅子はヴェネツィアの象徴ともなっている。
――ヴェネツィアの獅子といえば、この、翼と聖書を持つ獅子しかいない。
「……かつて最強の海洋国家だったヴェネツィアの名も今は沈んだ。陸を追われた者が海で駄目なら、行く先は一つだろう」
「まさか、船に羽をつけて飛ばすとでも? 無茶もいいところですわ」
「詳しくはなんと説明していいのかわからん。しかし確かに彼は――カンディアーニは、翼の生えた獅子を生み出そうとしておるのだ」
フランチェスカは首を捻る。
……強い風が、三人の間を通り過ぎた。
「生きている獅子に翼がついていますの? まるで御伽噺ね」
言うと、フランチェスカは対岸の街をぼんやりと覗く。
「ま。面白い話だけれど、やはりわたしにはどうでもいいことですわ」
「――フランチェスカ! あなたはどこまで……!」
「およしなさい、ロリタ」
激昂するロリタを、ベルナルド候はいさめる。
「……今日はフランチェスカ殿の立場について確認できただけでも良かった。元々何かをやって欲しいと望んでいたわけでもなく、ただ……」
「ただ?」
「あなたが敵だと思うと、私はとても恐ろしくなる。反面、協力してくれるという言葉だけでもいただければ、これほど心強いものはないと思ったまでなのです」
フランチェスカは目を伏せて押し黙る。
ロリタもまた、同じように沈黙したのだった。
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