重なる二人

 アドリア海から送られた潮風が、迷路のような町を吹き抜けてゆく。

 その玄関口となるサン・マルコ広場に、ロリタの勤める図書館はあった。


「ロリタさん。侯爵の具合はどうだった?」

「ええ、おかげさまでだいぶ良いみたいです」


 ご迷惑をおかけしました、と、ロリタは遅刻を同僚に詫びる。

 途中でフランチェスカと会ったりもして疲れたが、気を取り直して仕事に取り掛かる。


 返却本を集めた台を押して、棚に戻す作業に入る。

 書架を巡るあいだ、ロリタは物陰でキスをする男女を見かけた。


 一つ溜息をついて、見なかったことにした。

 ヴェネツィアでは、こんな情事など日常茶飯事だ。

 キスくらいで目くじらを立てたって仕方がない。静かにすませるだけ、ましなくらいだ。


 それに、この国のこの雰囲気は嫌いじゃなかった。あまりにも目に余る場合は別だが、図書館も、恋人たちの密かな逢引の場なのだ。


 ――ここは享楽と自由の国、香水と潮風の香るヴェネツィアである。


「それにしても、侯爵も大変そうね。お体を壊したのも公務のせい?」

「いえ……お腹を出して寝ていたのが原因みたいです」


 同僚に話しかけられてロリタは答える。

 ベルナルド侯爵は、仕事をすると元気を増す人だ。国政において総督と同等の権威をもつ十人委員会に選出されたのちの彼は、以前に増して精力的だった。


 しかしいくら元気でも、最近の冷え込みを省みずに薄着で寝てしまうのは不養生である。


「そういえば、ベルナルド候が委員会に選ばれてからでしたっけ?」

「なにがですか?」

「ほら、ゾロのことよ。彼が姿を現したのって」

「ああ……」


 ロリタは手に持っていた本を棚に押し込めると、


「つまり、ヴェネツィアがそういう時期だってことなんじゃないですか。国が大変だから、ベルナルド候やゾロのような人がでてきたんですよ」

「大陸も、革命だとかで大変らしいわね。このままこの都まで火の粉がかかってこなければいいのだけれど……」


 呑気に心配する同僚に、ロリタは、


「だから今は国の中身がしっかりすることが大事なんです。今の総督も色々と手を打っているみたいですが、あの人のやり方は少し横暴です」


 と、本の背表紙に視線を這わせながら言う。

 同僚の女性はロリタの横顔を見ながら、


「確か、ゾロはそれに反発しているのだったっけ」

「ええ。総督は、この国を軍事国家にしようと考えていますから」

「えらく詳しいのね」


 小首をかしげる同僚。

 ロリタは、書架に本を押し込む。


「……ベルナルドさんとお話をすると、そういった話が聞けるんですよ。総督一人に権力が集中すると、それに媚びを売ろうとする人が沢山出てきたりなどして、肝心の政治がほっぽりだされるのだとか」

「大変なのね」


 ロリタは一度頷いて、


「はい。委員会の中も相当どろどろしてるみたいで。ベルナルドさんも苦労されているみたいです」


 ロリタは目を伏せがちにする。

 同僚はそんなロリタを心配そうに見て、


「……あなた、少し肩に力が入りすぎなんじゃない? 真面目があなたの取り得でもあるけれど、あなたの良いのはそれだけじゃないんだからさ」

「なにがですか?」

「せっかくそんなに綺麗なんだから、もう少し自分のことを考えてみたら? ベルナルド侯に献身的なのは良いけれど、恋人を作ってそっちの方にも力を入れなきゃ」


 同僚の忠告に、ロリタは鼻を鳴らす。

 自分がそれをどうして作れたものだろうか、というような所作だった。

 同僚は、あなたならすぐに良い人が作れると提言したが、


「……あたしには、恋愛にうつつを抜かしている余裕はないですから」


 言うと、ロリタは背中を向けて行ってしまった。


「あの子、なにをあんなにやっきになっているのかしら……」


 同僚は首を傾げたが、考えてみてもわからなかった。

  

    ◆ 


 その日の夕刻。

 図書館での仕事を終えたロリタは、帰りにもベルナルド候の屋敷へ寄っていこうと思い、彼の屋敷へと歩を進める。


 街はすっかり夕陽に染まり、街道には建物の影が落ちている。

 絢爛豪華なゴシック様式、はたまた簡素なロマネスクの建築物のどれもが気持ちよくオレンジ色に染まっている。この風景は、空気が澄み始めるこの季節に一番映えるとロリタは思っている。


 屋敷についた頃には、すっかり周囲も薄暗くなっていた。

 屋敷から漂ってくるのは、美味しそうな塩焼きの魚の匂い。

 ご相伴をたまわる期待もしつつ、ロリタは玄関の扉を叩こうと手を伸ばした。


「……司祭様ったら、すっかり体調も良くなられたようで安心しましたわ」

「フ、フランチェスカ!? なぜ貴女がここにっ……!」


 聞きなれた声が中から響いてきて、思わずロリタは屋敷に飛び込んで食卓に押し入った。

 ロリタの突然の来訪に、食事中のベルナルド候は目を丸くする。


「これは……ロリタじゃないか。そんなに慌ててどうしたのだ?」


 この優しいしわがれ声がベルナルド候だ。

 彼は柔和な雰囲気をまとっていて、どこか人好きのする人だった。ふくよかで大柄な体つきと、落ち着いた瞳の上に垂れ下がる白い眉がその理由かもしれない。


「慌てるもなにも……どうしてこの子がここにいるんですか」

 アレハンドロの姿がないことを少し気にしながら、ロリタはベルナルド候に訴える。


「ロリタったら……そんなにわたしと一緒に食事がしたかったのね?」

「フランチェスカは黙ってて下さい」 

「まあまあ……良くはわからんが、およしなさいロリタ」


 ロリタがフランチェスカを睨むところへ、ベルナルド候がそれをたしなめる。

 微苦笑をたたえたベルナルド候は、その笑顔のまま、


「いや、フランチェスカ殿がお見舞いにと料理を持ってきてくれてな、そこで今夜は一緒にここでお食事でもどうかとお誘いしたのだ。お前も騒いでないで、ここに座って一緒に食べなさい」


 言葉をきいた瞬間きゅるるとお腹が鳴って、ロリタは顔を真っ赤にする。

 羞恥と不満が混じった顔のまま、ロリタはしおしおと食卓についた。


「素直で良い子ですわ」

「フランチェスカは黙ってください」

「こらこら、喧嘩をするものではない」


 ベルナルド候は注意したのち、微笑を浮かべて、


「それにフランチェスカ殿の話は面白いぞ。彼女はよく街の風俗に通じておる。よければもっと詳しく聞かせて頂きたいものだ」

「……って、ベルナルドさんはそれを一番取り締まらなきゃならない人じゃないですか。笑いながら聞いていてどうするんですか」

「そう目くじらを立てることもあるまい。ある程度の奔放はこの国の功罪だ」


 すると侯爵は真面目な目つきになり、


「風俗の乱れというのは国政を映す鏡でもあるからな。世俗の乱れを責めたてるのは、鏡に向かって声を荒げるのと同じこと。我々はなによりもまず、己の愚かさを鑑みてみる必要がある。……そうすると、今の委員会がフランチェスカ殿をどうやって咎められたものだろうか?」


 侯爵は愉快そうに声を上げて笑う。

 なかば自嘲するベルナルド候の話を、ロリタとフランチェスカは黙って聞いていた。

 侯爵はこほんと咳をすると、


「しかしフランチェスカ殿。もし貴女が男であったらばと思うと実に惜しい。いやはや、貴女は見目麗しいばかりか、たいへんに才知にも富んでおられるからな。男であれば、きっとこの国のためにご助力いただけたに違いない」

「僭越ですわ。それに、わたしはベルナルド様のように国に尽くそうとする高潔な心は持ち合わせておりません。わたしは我が身が可愛い臆病者で、もし男だったとしてお役に立ったかどうか……」

「謙遜なされるなフランチェスカ殿。あなたらしくもないぞ」


 と、侯爵はまたも大きな笑い声を上げた。

 みれば、その手元には赤く染まったグラスがある。

 そのグラスにまた使用人がワインを注ぎ入れると、侯爵はそれを持って、


「……貴女を見ていると実に父君が思い出される」

 と、揺れるワインの赤い水面に視線を落とし、


「思えば私とジャコモも、かつてはゾロと同じようにこの街を守っていたものだ」

「ゾロと同じように、ですか?」


 ロリタが食事の手を止めて訊くと、


「うむ。もっとも、私たちが見張っていたのはゾロのように政府ではなく、国民の方だったがな。ロリタ、これはお前の父君も同志だったのだぞ。お前の父君が剣に長けていた理由がこれでわかっただろう。フェライプに剣で敵う者などは、この国のどこにもおりはせんかったからな」


 ベルナルド侯爵はワインを一口飲む。

 そして哀愁に満ちた瞳を浮かべる。


「そうか……このテーブルには、あの時と同じ血が揃っておるのか。ジャコモもフェライプもこの世から去って久しいが、二人とも立派な娘を得たものだ。それに引き換え、私の放蕩息子ときたら今どこに居るのかも知れぬときておる。元気でしておればいいが……」


「わたしとロリタの父上が、侯爵と共に義賊を?」


 今度はフランチェスカが、愛想笑いをしながらたずねる。


「義賊ではなく、秘密警察だ。しかしそれも私たちの代で最後でしてな、残念ながらその機関自体は今はもうない。ちなみにその調査官は赤い外套と黒い外套を着るのが慣わしとなっておって、ジャコモは赤、そしてフェライプは黒い外套を着ておったよ。私たちは三人で、国民が密かに国家転覆を企ててはいないかと目を光らせていたのだ」


 しかし、そう語る侯爵の瞳はどこか憂いに満ちていた。

 苦い思い出を飲み干すように、侯爵はグラスを一気にあおる。

 ふう、と一息ついて、


「そういえばジャコモとフェライプは、その外套の色で赤い男だの黒い男だのと呼ばれたものだよ。今は……黒い男といえばゾロだな」

「侯爵は、ゾロのことをどうお思いになれますの?」


 フランチェスカはワインを口にしながら間髪入れずに聞く。


「正直なところ、助かってはいる」


 侯爵はグラスをテーブルに置き、


「彼が汚職や貴族の不正を暴き立ててくれるおかげで、役人共はみんな表立った悪さは控えるようになってきている。しかし……そのような義侠心をもつ者であれば、やくざな真似などせずにどうか私の元で力になって欲しい。近頃となっては、ゾロを粛清せんとする総督の動きもさらに勢いを増すばかり。それに対し、いかんせん私の味方というものは少なくてかなわんよ。委員会でも難儀しておるところだ」


 ふむん、とフランチェスカは頷き、


「……国民を見張るために委員会が置かれて、今はその委員会を見張るためにゾロがいる。はたして、ゾロを守ってくれるのは誰なのかしらね?」

「――やはり、国民だろうな」


 ベルナルド候は簡潔に答えた後、


「しかし国民は、今はゾロを舞台役者としか見ておらんだろう。いつか彼が危機に陥ったとき、はたして民衆の手から救いが差し伸べられるかどうか……。そこを考えても、どうか私を信用して彼には私の元へ名乗りでて貰いたいものなのだが」


 話を聞きながら、ロリタは押し黙っていた。

 フランチェスカはそんなロリタを横目に見ながら、


「心中お察しいたしますわ。なんといってもゾロは政府のお尋ね者。くわえて委員会の最大の嫌われ者でもある彼を、ベルナルド様が公然と自分のところへと呼ぶことなど出来ませんものね?」

「その通りだ。だからなんとか裏の伝手を使って接触を試みてはいるが、なんとも上手くいかん。ゾロが警戒するのも当然だが、それ以上に、やはりゾロは単独で行動しておるのだろうな。仲間でもいれば話は別なのだが、一人で正体を隠されるとどうしようもない」

「少女が内に秘める恋心の如く、ですわね」

「なんですか、それ?」


 ロリタが眉をひそめながら訊くと、


「恋をしている姿がどれだけ明らかだろうと、その恋心を誰にも言わずにいたら、真実のところは誰にもわからないということですわ」

「……へえ」


 気の抜けた声を出して、ロリタは黙りこむ。

 ベルナルド候はフランチェスカを柔らかい瞳で見つめると、


「しかし、やはり貴女はジャコモに似ておられる。奴は本当に聡明だった。色事を好きな男でもあったが……あいつは愛というものを知っていた」

「愛?」


 フランチェスカとロリタは声を揃えて訊く。

 ベルナルド侯爵は愉快げに笑って、


「まあ、今は愛というものがなんなのか分からずとも良い。ロリタとフランチェスカ殿とは正反対な気質をしているが、やがて見えてくるものは同じだろう。なに、二人ともまだまだ若い。そのうち分かる」

「ええ。愛だなんて、今のフランチェスカがそれを知ってるとは思えませんもんね」

「あら、まだ一度も恋人を作ったことのない人にだけは言われたくありませんわ?」

「恋人の数を数えたらきりがない人よりはマシだと思いますけど?」

「はん、あなたもいずれその内の一人にして差し上げますわ」


 ロリタとフランチェスカは視線で応酬する。


「まあまあ……。仲が良いのはそれくらいにして、二人ともテーブルの料理を食べてしまいなさい」

「ふん」


 またしてもユニゾンし、ロリタとフランチェスカは互いにそっぽを向いたのだった。


 ――いつか絶対に泣かす。


 二人は、考えていることも一緒だった。 

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